月例ラ・カーニャでの紅龍ライヴ。いつもの永田さんのピアノに向島ゆり子さんのヴィオラ・ダ・モーレ、小沢アキさんのギター。今回は永田さんの歌は無し。

 向島さんの楽器は共鳴弦を入れて10本。実際に弓が触れるのは5本に見えた。実になんともふくよかで、中身が詰まった、たっぷりとした響きがすぱあんと広がる。こりゃあ、いい。演奏する方も、これを弾けるのが嬉しくてしかたがないのがありありとわかる。いつも以上に熱が入っている。今回はまずこれがハイライト。

 ところでウィキペディアではヴィオラ・ダ・モーレの弦は6〜7本とある。今世紀に入って造られたハーダンガー・ダモーレなら十弦だが、そちらに近いのだろうか。ひょっとして折衷された新しい楽器だろうか。胴のサイズはヴィオラに見えた。

 この日のもう1つのハイライトは紅龍さん本人の歌である。絶好調と言っていい。声もよく出ているし、息の長短も自在で、伸びるべきところでは十分によく伸びる。歌うのも愉しそうだ。新譜お披露目ツアーでライヴを重ねたおかげだろうか。ギターもほとんど小沢さんのアコースティックに任せて、歌うことに専念しているようでもある。聴き慣れた歌もそれはそれは瑞々しい。

 オープナーはディラン〈時代は変わる〉。アンコールの2曲目のクローザーもディラン〈風に吹かれて〉。どちらも日本語版。完全に自分の歌としてうたっているのは当然ながら、今、ここでこれらを歌うことがまさに時宜を得ている。まさに今歌うべき、歌われるべき歌を、今にふさわしく歌っている。この2曲だけでなく、この日の歌はどれも、いつにもまして心に沁みてきた。どの歌にも切実に共鳴するものが、あたしの内にあった。そういう状態にあたしがいたということかもしれない。とはいえ、歌はあたしのために作られたわけでもなく、あたしだけのために歌われているわけでもない。それで個々の事情に共鳴してくるのは、より広く、あたしと似た状態にある人間の心の琴線を鳴らす、普遍的に訴えるものがこめられているからだろう。

 3曲目 Spooky Joe の歌のアヴァンギャルドなイントロでの向島さんの演奏、〈兵士のように詩人のように〉で小沢さんが弾くマンドリンそっくりのアコースティック・ギターが、特に印象に残る。

 〈野良犬の話〉と〈旅芸人の唄〉。2枚のソロに収められたうたのいずれにも隙は無いけれども、この二つには紅龍さん本人の音楽家としての行き方、人間としての在り方の自画像が聞える。そこにあたし自身を重ねて聴くのは、どういう風の吹きまわしか、自分でもわからない。わからないけれども、憧れと呼んでもいい感情が湧いてくる。ひとつの理想像でもある。完全無欠という理想ではなく、そのように生きてみたいと望む姿だ。性格からして不可能だし、実行したならたちまち野垂れ死ぬことは目に見えているにしても、望んでしまう。

 あたしの見るかぎり、新作を出した後のライヴは、演るたびに良くなっている。声はますます充実し、伸びるのが長くなっている。歌唄いとしての存在感、説得力が目に見えて大きくなっている。シンガーとしての紅龍はこれからが黄金期ではないか。いずれライヴ・アルバムも作ってほしい。

 日曜夜の下北沢は完全に観光地で、終ってから入ろうと思っていたカレー屋は夜も9時近いのにまだ長蛇の列。真冬に戻った中で老人は並んでなどいられない。さっさと退散したことであった。(ゆ)