努めて普段どおりの生活をするようにしたためか、痛みはほぼ消えた。しかし、まだ前屈みになろうとすると腰が緊張するので、手をついたり、しゃがみこんでから手を前に伸ばしたりしている。今日は外出のテストも兼ねて歯医者に出かけたが、バスから降りるときに、ステップから歩道に渡ろうとしてふらついた。前屈みになるわけではないが、腰の筋肉を使っているらしい。体のどこの筋肉をいつどこで使っているか、なんてことは痛くならないかぎりわからない。
通販生活に注文した腰ささえが着いたので、夜、試す。付けてみると、やはり上半身の緊張がぬける感じがある。買ったのはこれ。
通販生活のものはメディカル枕とかヤコフォームの靴とか、永年愛用しているのがあり、信用している。このサポーターもかみさんがぎっくり腰をやった時に探して見つけておいた。そういえば、このメディカル・パッドもずっと使っている。
これもどうやらぎっくり腰には効果があるらしい。一晩寝て朝になるたびに痛みが楽になっていった。起きた直後は楽なのだが、しばらく椅子に座っていて、立とうとすると痛い、ということがはじめのうち繰返された。
図書館から借りている『洲之内徹ベスト・エッセイ2』収録のエッセイで、洲之内もぎっくり腰をやり、しばらくズボンを履くのに柱にもたれなければならなかったという。なるほどその手があったか。前屈みになれないで一番困るのは下半身の衣類を履こうとする時だ。
今日はのんびりとではあるが1万歩近く歩いたし、階段もたくさん登ったが、腰が痛くなることはない。ちょうど1週間で9割方恢復という次第。週末はやはり出かけてみよう。
ラックスマンが創業百周年記念で新しいハイエンド・ヘッドフォン・アンプを出すと発表。さてこれでマス工房 model 465 に対抗できるか。1台ではできないので、2台使って BT接続することであれを凌ぐものにしよう、というのかと勘繰ってしまった。値段も新製品2台でちょうど 465 1台分だし。
あたしは 465 はもちろん買えないが、ヘッドフォン祭などで散々音は聴いている。それに個人用として model 433 を使っているから、マス工房のヘッドフォン・アンプの何たるかはわかっているつもり。433 だって、そりゃ 465 には讓るだろうが、それ以外のヘッドフォン・アンプではまず対抗できない。何よりパワーがあるだけではなく、音楽として聴かせてくれる。増田さんはむしろプロ機器のつもりで設計・製造しているのではあろうが、それで鳴らすとちゃんと音楽として聴ける機械を作れるのは耳が良いということなのだろう。今では 433 が基準になっていて、これでちゃんと鳴らないヘッドフォンはダメなのである。
そう、433 はどんなヘッドフォンでもきれいに鳴らすというようなヤワな代物ではないのだ。世の中にはどんなに高くても、宣伝が上手くても、本質的にダメなヘッドフォンは存在する。そういうものの正体を剥出しにしてみせるのである。一方で良いものはその良さを十二分に発揮させる。しかし、本当に良いヘッドフォン・アンプとはそういうものではないか。何にでも使える万能選手などというものは、ことオーディオに関するかぎり、自己矛盾でしかない。
テクニクスが発表した新しいアナログ・プレーヤー SL-1300G はちょと面白い。アナログ・プレーヤーのキモは振動対策であるわけで、各社、様々に工夫を凝らして振動を減らすことに腐心している。材質とメカニズムで振動を減らすとか、プラッターとアーム・システムを吊るしたり、浮かせたりして、外の振動を遮るとか、まずたいていは物量で勝負だ。今回のテクニクスはその逆を行っているように見える。徹底的に電子的、電気的な操作をつきつめることで振動が起きる要因を一つひとつ削除していった。デジタルをつきつめることでアナログの効果を狙っている。とあたしには見える。使われている技術もホップステップジャンプしたものではなくて、従来自社で開発蓄積してきたものを応用している、ように見える。あたしは昔からベルト・ドライブ派で、ダイレクト・ドライブなんてものは信用ならんと思っていたが、これくらいつきつめているんなら、聴いてみようじゃないかという気になる。
とにかく一度、音を聴いてみたいし、たとえばテクダスのハイエンド・モデルと、他の条件を全部同じにした聴き比べてみたい。まあ、今のオーディオ業界ではそんな聴き比べはできないだろう。とまれ単独でも音を聴いてみて、その上で DS Audio DS-E3 と組合せてみたい。これなら、合計で定価で70万だ。その後、1年は本もレコードも買えないし、ライヴにも行けないが、昔買ったレコードを聴きなおせば1年くらいはすぐ経ってしまう。それにしても、こういうのをまともに試聴できる店が近くにあるのか、そこが一番の問題。
ぎっくり腰には自分の年齡をあらためて思い知らされた。以来、多少とも前屈みになる時は、痛みが出ようが出まいが、必ずどこかに手をつくようにしている。(ゆ)