フィドル、ブズーキ、バゥロンでオールドタイムをやるというのはひょっとすると世界で初めてではないか。というのは大袈裟だが、きわめて珍しいことではある。オールドタイムに打楽器はない。スプーン、ボーンズが使われるかどうか。ましてやバゥロンでは。バゥロンもずいぶん広まって、ナッシュヴィルあたりではごく普通に使われる。使いやすい、アンサンブルに入れやすいのだろう。それほど柔軟性のあるバゥロンですら、オールドタイムに使われることは無い。

 外れる点では赤澤さんも同じだ。オールドタイムをブズーキでやるのはほとんど聴いたことが無い。ほぼ唯一の例外は、Transatlantic Sessions でブルース・モルスキィ、マイケル・マクゴールドリックとともにオールドタイム・チューンをやっているドーナル・ラニィだ。

 オールドタイムは頑固なのだ。自然発生した伝統音楽はみな頑固なのだが、オールドタイムの頑固さは突出している。

 レパートリィにも同じことが言える。この日の演目はまぎれもないオールドタイムの曲でありながら、もっぱらオールドタイムを演奏している人たちからは嫌われる、とまではいかなくても演奏するのを好まれない曲がいくつもあったらしい。

 この夜の音楽は編成からも当然予想されたことだが、オールドタイムの核は残しながら、そこからは外れる位相も明らかだった。告白すればあたしが興奮したのはその外れる部分、より正確に言えば外れていく部分だ。

 このように外れるところを好むのはひょっとすると世代的なものかもしれない。赤澤さんはあたしと同年、バスコさんは少し下だが、世代としては同じだ。一九五〇年代生まれのわれわれは七〇年代に青春を過ごしている。七〇年代は多様性が初めてそれとして花開いた時期だ。画一性の五〇年代が六〇年代に破裂し、その成果が七〇年代に具体化した。あたしらはその恩恵を浴びた。アイリッシュやオールドタイムなど、ヨーロッパ起源の伝統音楽に接したのもその一環だ。

 多様な外の文化に触れるやり方もいろいろあるだろうけれども、あたしは、そしてたぶん赤澤さんもバスコさんも、個々の要素のど真ん中だけでなく、それらが他の要素と接触・交配するところを面白がる。二つやそれ以上の要素がたがいに影響しあって、それまでどこにも見えなかったものが現れてくるのをスリリングと感じる。ふだんはど真ん中を好んでやったり聴いたりしているが、それだけだと不満が溜まる。異種交配されたものが欲しくなる。

 ということで実現した今回のライヴをぜひ見たい、そのためには京都まで出かけてもいいと思ったのは、こうした異種交配はあるいは唯一無二のチャンスかもしれないと思ったこととともに、もう一つの動機があった。

 バスコさんは3年前、目黒でライヴを見ることができたことでもう一度生を見たくなっていた。加えて赤澤さんだ。アイリッシュ・ブズーキ奏者としては世界一と目していながら、生に接したのはもう二十年ぐらい前か、下北沢で hatao、トシバゥロンとのトリオを見ただけだ。お互い古希を越えて、いつ何どきなにがあるかわからない。生きているうちに見られる人、会いたい人には見て会っておきたい。

 ハイライトはいくつもあるが、まずはバスコさんの唄。目黒の時もオープナーでいきなりアカペラで唄いだし、その後も唄は聴きどころだった。今回もここぞというところでうたう唄がいい。遠方から来たあたしのためにと唄ってくれたリチャード・トンプソンの二曲は染みました。一曲目はブズーキ・ソロから始めて、フィドルが入って〈ウィリー・オ・ウィンズベリ=フェアウェル・フェアウェル〉。二曲目は〈I want to see the bright lights tonight〉。1曲目はともかく、2曲などオールドタイムからは完全に離陸するのだが、バスコさんの唄とフィドルはあくまでもオールドタイムのスタイルなので、原曲の持つポップさがするりと消えて、伝統音楽の匂いを帯びる。後でやった〈Waltzing for dreamers〉も同じ。作者不詳の trad. だと言われても素直に納得してしまいそうだ。

 バスコさんはシンガーとして一級というわけではない。例えばこの日もとりあげたジョン・ハートフォードとか、あるいはノラ・ブラウンのような人たちと肩を並べるかというと、どこか違う気がする。といってヘタウマでもない。バスコさんは昔から得体の知れないところがある。若い時はどことなくフェアリーかエルフのような存在を連想させた。唄にもそういうところがあって、この世とあの世のあわいで唄っている雰囲気がある。

 くらべるとトシさんの唄ははっきりとこの世でうたっている。今回は一曲だけ、後半の後半バゥロンのソロからブズーキが入っての〈ニグロ・ジグ〉を経てのジグで唄ったのみだったけれども、声が良く通るのに驚いた。みわトシ鉄心ではコーラスが多いからわからなかったのか。

 オールドタイムのフィドルにもいろいろあって、ブルース・モルスキィのようにさっぱりきっぱり、竹を割ったようなものもある。バスコさんのはとにかくふにゃふにゃしている。芯はしっかり通っている。オールドタイムのメロディはひねくれたものがある。くらべるとアイリッシュのメロディはずっと真直ぐだ。そのひねくれたメロディがバスコさんのフィドルにかかるとさらにくねくねになる。バスコさんのフィドルの響きはまたひどく軽くもあって、その軽い音でおそろしくくねくねしたメロディが奏でられると、猛烈にふにゃふにゃになる。そしてそれが快感なのだ。装飾音は入れていないようなのに、メロディが揺れる。スイングと呼ぶには波長が短すぎるその揺れがいい。リピートのやり方も複雑で、赤澤さんもトシさんも聴いているだけでは捉えきれず、とうとう直接教えてもらったそうだ。オールドタイムはアイリッシュやスコティッシュの音楽とアフリカンの音楽と、さらにさまざまな音楽が混交してできてきた、究極の異種交配音楽の一つと言えるものだ。やっている人たち、つくってきた人たちも何が入っているか、はっきりとはわからないだろう。メロディのくねり方やリピートの複雑さはその交配の果実なのだろう。

 赤澤さんのブズーキはアイリッシュのバックに入る時も意表を突かれることが多い。それでいてメインの楽器や唄を確実に浮揚させる。こういうバッキングのフレーズをどこから思いつくのだろうと聴くたびに不思議になる。バスコさんとは違うところで、この人もこの世離れしているところがある。雰囲気というかたたずまいに、この世ならぬ異界の匂いがまとわりつく。しかもその異界がどこかはわからない。アイルランドのそれではないだろうとは思う。

 たまたま席が赤澤さんの真ん前だったから、もっぱらブズーキに耳をすませていた。フィドルやバゥロンの音は否が応でも耳に入るから、音の小さなブズーキに焦点を合わせてちょうど良い。三曲目〈ミシシッピ・ブレイクダウン〉のブズーキはGコード縛りだったが、コード・ストロークではなく、単音を弾く。

 今回は赤澤さんのソロが何曲もあったのにも喜んだ。スウェーデンの曲をやったり、チャイルド・バラッドをやったり。後者、ビートを通しながらメロディをしっかり聴かせる。バゥロンが入ってテンポ・アップする気に背筋に戦慄が走る。終わるのと間髪入れずにフィドルがソロを始めたのもかっこよかった。

 最初に書いたようにオールドタイム仲間ではやってもらえない曲をバスコさんは持ちこんだらしいが、選曲は実に良い。どれも外れ具合が良くて、一聴していい曲だと思えるものばかり。ラストはステファニー・コールマンの〈Irish polka〉。アイリッシュでもポルカでもない佳曲。スローで入って途中からテンポ・アップするのも美味しい。後に続けたのはアイリッシュの本物のポルカ。バスコさんのふにゃふにゃフィドルのおかげでまるでポルカに聞こえないのも新鮮。ここにはこの夜の、どこまでもオーセンティックでありながら、本流からは外れていく音楽の愉悦が凝縮していたようでもある。

 会場に、たまたま前の日にバスコさんが会ったリチャードというアメリカ人のマンドリン弾きが遊びに来ていて、三曲ほど参加する。ふだんはブルーグラスをやっているらしいが、なかなか達者なマンドリンで、この異種交配のライヴにもう一つ別の要素を加えて愉しい。後で聞いたら、彼の姓はパークス、父親はヴァン・ダイク・パークスだそうだ。

 会場は叡山電車の一乗寺駅からすぐのところ。インキョカフェという名はマスターの姓からとった由。インキョさんのやっている店だからインキョカフェ。マスターはまだ若い。30代でも通る。

 駅について時間があったので、駅の反対側にある恵文社一乗寺店に行ってみる。名前だけは昔から聞いていた。こういう店が近所に無くてよかった。もしあったら毎日通って、ただでさえ高い本の山がさらに何倍にも増殖していただろう。実にバランスよく並べられている本をながめているだけで吸いこまれるように一冊買ってしまう。どうしても買わずにいられない気にさせるものがあの店にはある。その後のライヴと同じく、あの店にもそれとは知らず、呼ばれていたのだろう。

 寒いことは寒いが、いい気分でインキョカフェを後にする。このトリオのライヴ、おたがい息のあるうちに、ぜひまたやってもらいたい。どこでやろうとそのときには駆けつけますよ。ますは素晴らしい夜をありがとうございました。(ゆ)