ミュージシャンというのは因果な生きものだ。並々ならぬ腕を持ち、抜きんでたセンスがありながら、プロとして成功できない。どころか、音楽ではまともに食べてゆくこともままならないこともある。それでも音楽をやめられない。

 例えばビリー・ゴールトというジャズ・ピアニスト。こういう人はいわばジャズの世界の歪みを一身に背負ってしまったのか。あるいはその歪みは音楽に固有のものではなくて、我々の棲む世界に本質的に備わるものが凝縮されているのか。音楽には確かに世界のある部分、要素を結晶化し、拡大してみせる作用がある。

 しばらく前のことだ。Proper Music の新譜ニュースレターに Billy Gault なる人物の1975年のアルバム《When Destiny Calls》のアナログ盤再発が載っていた。そのジャケットに惹かれた。カメラは小柄でまだひどく若い黒人のピアニストを右から捉えている。頭は丸めている。蝶ネクタイにジャケットといういでたち。高域まで駆けぬけたばかりの右手。陶酔した表情。



 こりゃあ、さぞかし名のある人なんだろうと検索してみて、情報が無いので驚いた。Discog にはこの1枚しか録音が無い。Jackie MacLean & the Cosmic Brotherhood にも参加しているとあるのでクリックしてみると、こちらも1枚だけ、同じ1975年、同じ SteepleChase から《New York Calling》が出ている。たぶんマクリーンの方が先で、その録音セッションを見てプロデューサーの Nils Winther が気に入り、ほぼ同じ面子でサックスだけ入れかえて作ったとみえる。

 Discog には1941年12月生まれとあるだけで、出身地も無い。ここまで情報が無いと興味が湧く。

 あれこれ検索を続けていると、ディスク・ユニオンのサイトに「ベネット高校とバッファロー大学で音楽を学んだ」とある。出身地はバッファローという証言もあった。そしてどうやらこの人は後にイスラームに改宗し、Khalim Zarif と改名したらしい。そういう傾向は蝶ネクタイにジャケットという姿に顕われていると見る向きもある。ソロだけでなく、マクリーンのアルバムでも同じ恰好。写真は録音セッションの時に撮られたのだろう。裏ジャケのスタジオ内での写真でも同じ。ラフな恰好のメンバーの中でいささか浮いている。年齢的には一番若くみえる。

 Khalim Zarif で検索すると、どこかのマリオット・ホテルのバーのようなところで演奏している短かい動画があった。曲の途中からで、ボンゴを伴にキーボードを弾いている。オルガンの音でラテン風味。BGM としてやっているようだ。



 もう1つ、2012年4月にコネティカット州 Farmington の CT State Tunxis というコミュニティ・カレッジのイベントに出ている。年に一度のジャズ・ナイトの第4回。このカレッジの教員の一人でギタリストが主宰するイベントらしい。これの全体を収めた動画もあった。ふだんは教室として使われている部屋のようで、おそらく記録として撮られたもの。固定カメラで、画質も音質も良くはない。



 ギタリストがおそらくいつも一緒にやっているバンドに加わってのカルテット。ゴールトは71歳のはずだが、そうは見えない。ここではマリオット・ホテルの時とは違って、嬉しそうにジャズをやっている。ただ、演奏に往年の輝きは見えない。音楽は続けていたにしても、このレベルですらないのではないかと思わせる。一方、質問に答える様子にはとりたててエキセントリックなところも見えない。もっとも音がよくなくて、何を言っているのか、あたしにはほとんど聞きとれない。

 ゴールトはピアニストとしても、作曲家としても一級というだけでなく、独自の声を持っている。と2枚の正式録音を聴くかぎりは言える。今のあたしが聴いても惹きこまれる。

 ジャッキー・マクリーンはハード・バッパーとして本朝での人気が高いが、あたしはハード・バップには近寄らないようにしているから、まともに聴いたことがない。とはいえ他もこのレベルなら、もっと聴いてみようと思う。それともこれはゴールトや息子のレネのおかげなのだろうか。マイナー調の愁いを含んだ曲を無雑作にぶっぱなすのではなく、やりたいことを抑えて、一度矯めてからそれでも噴き出すままにまかせているような演奏。

 一方のリズム・セクションははじけまくる。ゴールトのコード・ワークはソロを下から支えて浮上させるというよりも、横合いからジャブをかまして、予想外の方向へ飛びださせる。ピアノ・ソロでは、フレーズはぶつぶつ切れるのに、全体としては流麗だ。ソロのジャケットに捉えられたように、ピアノの高域を使うのが好きで、黄金の粉をまぶしたようなフレーズが快感。

 リーダー作では男女のシンガーを入れて、何かに憑かれたような様相を見せる。このアルバムは近年「隠れ名盤」とされているらしい。アナログでの再発までされるのだから、人気があるのだろう。

 サイドマンとしても、リーダーとしてもこれだけの音楽を生みだせる人なら、ジャズ・ピアノのレジェンドの一人として大成していてもおかしくない。それがホテルのバーの BGM 演奏などで食べていた、らしいというのはどういうことだろう。

 運が悪い。そういうことなのか。人間として決定的な欠陥があったのか。音楽以上にとらわれて抜けられないものがあったのか。いや、ヤクとかそういうことではない。もっとポジティヴなことでだ。これもまたこの世の不条理としか言いようがないめぐりあわせなのか。

 あるいはこの2枚を残しただけで十分な成功と言えるのであって、同じくらいの腕とセンスを備えた人は実はそう珍しくもなく、その中ではそこまですらいけないミュージシャンが圧倒的なのか。

 いや、成功とか不成功とかいうことでは本当はない。単純にもっと聴きたいのだ、ゴールトの音楽を。アルバム1枚ソロ・ピアノとか、ピアノ・トリオとか、ビッグバンドとの協奏曲とか。2枚を聴くたびに、その欲求が強くなる。

 1枚か2枚名盤を残して消えてしまったミュージシャンは少なくない。しかしこれまではこういう欲求、もっとこの人の他の音楽を聴きたいという欲求を感じたことはまず無かった。残された1枚か2枚を繰返し聴いていれば満足できた。ゴールトはどうも勝手が違う。

 死んだという情報もまだ無い。生きていれば今年84歳。チャールズ・ロイドを見れば、その年でもまだまだ行ける可能性はある。そこまで望むのは無理ならば、この2枚の頃のライヴ音源は無いか。(ゆ)