村井さんの新著で初の新書刊行記念で、中でとりあげた音源を聴きながら内容についてしゃべる。相方を務めるのは担当編集で新書局長の前島篤志氏。前島氏はここでもひたすら村井さんから話を引きだす黒子役に徹していた。


世界史はジャズで踊る (文春新書) [ 村井 康司 ]
世界史はジャズで踊る (文春新書) [ 村井 康司 ]

 書きはじめたのは2022年だそうで、『あなたの聴き方を変えるジャズ史』の一種の続編として構想していた由。出来上がったのはジャズ史というよりもジャズもその一部である北米、カリブ海地域で十八世紀以降生まれた音楽の拡散を一望に収めようという本。タイトルはジャズ中心に見えるし、核にあって動機となっているのはジャズだが、中身ではジャズをより大きなコンテクストにおいて捉えようとしている。こうしてみるとこれまでのジャズの扱われ方はあまりにジャンルとしてのジャズに密着しすぎていて、視野が狭すぎ、周りがまったく見えていなかったと思えてくる。言換えればジャズを特別視しすぎていた。音楽について語ろうとすると直接の対象以外がバッサリ抜落ちて、対象を絶対視してしまう。音楽は形而上的なものではなく、形而下、食慾や性欲と同じレベルに作用する現象である、つまりアタマで感じとるものではなく、カラダに直接響くから、そうなるのはやむをえないところはある。とはいえ、だからこそ、その因って来たるところについて話そうとすれば、冷静に周囲を見わたす余裕が必要になってくる。村井さんはこの熱狂と覚醒のバランスが実に良くとれている。ジャズを核とする音楽がとにかく好きというのが読めば伝わってくるし、いろいろな音楽を聴く方が、ジャズ本体もより楽しめることも知っている。

 音楽はどんなものもみんなどこかでつながっているので、あるジャンルだけを聴くよりも、つながりを辿ってみる方が、それだけを聴いているのではわからない側面、位置が聞こえてきて愉しくなる。見方を変えると、無縁と見えた別々の音楽が聴いてみてつながりが聞こえた時のスリルは、一度味わうとやみつきになる。村井さんのこの本には独りで聴いていたのではわからない、そうした隠れたつながりがたくさん出てくる。いや、そうしたつながりを発見してゆく過程を集めたと言ってもいいくらいだ。

 イベントでは本の内容を全部一通り紹介する。むろん均等にはできないので、初めの方の、ジャズが生まれてくる前後が厚くなる。この辺りは村井さんが近年追いかけているところで、村井さんのイベントはなるべくフォローしていたから、真新しい事実はそうないけれども、こうして総体として提示されるとあらためてまことに面白い。十九世紀後半のニューオリンズの状況とそこから新しい音楽つまりジャズが生まれてくる様は、ずっと後年、別の場所でもくり返されることになるというのは、本書の中でもスリリングなところの一つだ。

 ジャズの源流の一つに南北戦争の軍楽隊があるというのは従来も言われていたが、南軍の軍楽隊が放棄した楽器を拾った黒人やクレオールが勝手に始めたというのはやはり眉唾で、早くから北軍に占領されたニューオリンズで、北軍の軍楽隊がコンサートを開き、音楽を教えたことが大きいというのがわかってきたそうだ。南軍が捨てた楽器が起源というのは、南北戦争後の南部による歴史改変の一端だったのかもしれない。ルイ・アームストロングもキング・オリヴァーも楽器をまず軍楽隊に習っていたというのだ。ジャズにおける管楽器の存在の大きさは昔から不思議だったのだが、ようやく納得のゆく説明に出逢った。

 ブルーズの起源についての高橋健太郎さんの説の紹介も面白い。惣じて十九世紀末から二十世紀初めにかけての北米黒人の音楽ではブルーズはまだ無く、ブリテン諸島起源の伝統歌や賛美歌がメインだったというのも説得力がある。

 個人的に一藩面白かったのは、こうした黒人音楽がドヴォルザークによってクラシックにとりいれられ、そこから黒人作曲家に受継がれてエリントンにいたるというルート。エリントンはドヴォルザークの孫弟子になる。エリントンの先生、ドヴォルザークの弟子のウィルコックスの曲は明らかにクラシックの文脈の曲なのに、エリントンになった途端ジャズになる。後で、実は間にもうワン・クッション、フレッチャー・ヘンダースンが挟まるという話が出たが、エリントンにこの飛躍をさせたのは何なのだろう。村井さんは楽器の音が違うと指摘するのだが、その違いはどこから生まれるのか。ニューオリンズからか。しかし、例えばトランペットが3本いてもそれぞれが違う音を出すというアイデアはどこから来たのだろう。それでいいのだ、それがかっこいいと感じるセンスはどこから出たのか。クラシックではその場合は全部同じ音になる。

 初期のジャズにとって軍楽隊は大きな役割を果たす。ヨーロッパにジャズが伝わるのも第一次大戦に従軍した黒人兵部隊所属の軍楽隊による。そしてそのヨーロッパ、パリでアメリカ産のジャズ、マヌーシュが生まれる。ジャズはやはり変化の音楽なのだ。ある形態に固まるのはジャズ本来の姿ではない。「こんなのはジャズじゃない」とはジャズの本質に真向から反する言明なのだ。どんなものでもジャズになるし、どんなジャズもありうる。

 ジャズはヨーロッパに巨大な影響を与える。サティ、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーなどがジャズに反応した曲を作る。面白いのはナチス占領下のパリにはアメリカ国籍の黒人がバンマス、メンバーはカリブ出身者やロマというバンドがあって、ジャンゴ・ラインハルトの曲をやっていたという。ナチスのドイツ人たちはジャズを楽しんだのだろうか。

 ここで休憩。いやもうお腹一杯。

 後半はまずカリブ海で生まれた音楽とジャズの再会の話。ディジー・ガレスピーの〈マンテカ〉に始まり、ペレス・プラード楽団の〈チェリー・ピンク・マンボ〉、マンゴ・サンタマリア。さらにブラジル音楽のこれまた大きな影響。

 第二次大戦後、ガーナのラゴスに北米からアフリカ系が大量に移住したことから、かつてのニューオリンズと同様の状況が生まれ、そこからハイライフが生まれ、さらにお隣ナイジェリアからフェラ・クティが登場してくる。アフリカからはそれ以前にもそれ以後もたくさんのジャズ・ミュージシャンが現れるし、ジャズ・プロパーではないとはいえ、サリフ・ケイタやユッスー・ンドゥールなどの存在も小さくないが、しかし、ひょっとしてアフリカ最大のミュージシャンはフェラかもしれない、というのがこの日の締めくくり。

 うーん、やっぱりフェラ・クティはしっかり聴かねばならぬなあ。だけど、アフリカは遠いのよね。インドも遠いけれど、アフリカ、それもサハラ以南のいわゆるブラック・アフリカはほんとに遠い。

 本はイベント会場で買ったから、話の最中はむろん未読。だから次々とかかる珍しい音源に目を白黒させるばかり。家に帰って読んでから、イベントでかかった曲目リストを見直すと、なるほど一つのイメージが浮かびあがってくる。

 録音が無い時代の音楽は想像するしかないが、その想像のよすがとなるような、たぶんこんな感じでは無かったかと聞こえる録音は探せばあるものらしい。村井さんはそういう音源を見つけるのが実に巧い。もちろん基本はたくさん聴くこと、半端ではなくたくさん聴くことなのだが、探しているものに対する敏感さが違う。聴くまでは探しているものがどんなものかもわからない中で、適切なものに反応するアンテナが良くできている。

 あらかじめ理論を作ってそれに合う音源を探すのでは無くて、音源を聴いてゆく中から筋を見つけてゆく。なかなか表に出て来ないつながりを見つけるのも才能のうちなのだ。

 今回は本全体を紹介するものだが、これから定期的に各セクションを深堀りするイベントを、ゲストを迎えてやってゆく予定だそうだ。そこからまた次の本も生まれてくるにちがいない。一度完成した原稿からは丸々一章けずってもいるそうだ。本が厚くなりすぎるので、泣く泣く削ったが、削った一章はもう1冊分まで膨らませたいとも言う。いや、楽しみだ。(ゆ)