読売新聞の読書世論調査で、中高年の本離れの方が深刻という結果が出たそうな。

 子どもが本を読まないのは親が読まないからである。学校の教師も一般的なイメージに反して、本は読まない。自分が読まずに、子どもにだけ読めと言っても、通るはずがなかろう。

 もっとも他人のことは言えない。おれも本は読まなくなった。理由の一つははっきりしていて、仕事がらみでひどい原稿を大量に読んだ結果、一時まったく小説が読めなくなった。それまでの読書のほとんどは小説だったから、小説が読めなくなると、本も読めなくなる。

 とはいえ、本当の小説好き、読書好きからすれば、まだまだ修行が足りないのだろう。まったくゴミのような小説、小説と呼ぶのが恥ずかしくなるしろものでも、とにかく書かれた言葉を読むことが楽しいという域にまでは、まだ達していない。

 もう一度、とはいえ、それは飽くまでも理由の一つであって、おそらく本当の理由は他にある。あまり自覚症状のない理由、ありていに言えば本を読む体力が無くなってきたのだ。視力が落ちたとか、長時間座っていると腰が痛くなるとかではない。一冊の本を読みとおすのは、結構体力を必要とする。持久力、耐久力とよばれる類の体力だ。

 始めから終わりまで、面白くてしかたがない本など、そうそうあるわけがない。ダレ場や、書き手のテンションが落ちているところ、あるいは逆にテンションが高すぎたり、「ライティング・ハイ」状態ですっとんでしまっているところが必ずある。そういうところは読者が何らかの形で補って読まねば、先へ進めない。長編の小説やノンフィクション、伝記の類だけの話ではない。『断腸亭日乗』や『田辺元・野上弥生子往復書簡』のような、はじめから本にまとめることを意図して書かれたものではないものでも、詩や短編や論文を集めたものでも、あるいは研究論文、学習テキスト、辞書、皆同じだ。

 そういうところを乗りきるのに必要な体力、肉体の筋肉の力というよりは、精神的体力が無くなってきた。だから、読みかけの本は結構ある。むしろ、読みかけの本ばかりになる。そして、読みかけの本はやはり読んだとは他人には言えないし、自分でも思えない。

 しかし実際には一部だけでも読んだことは、全然読まないよりはましなはずだ。リニアな小説でもだ。最後まで読むだけの価値のある小説など、実は少ないのだ。それがわかるくらいの量は読んできた。

 人生は短い。その短い人生を、つまらない本を最後まで読むことで潰すなどもったいない。つまらないと思った本はさっさと捨てて、もっと面白そうな本にどんどん手をつけるべし。そうすれば中には、やめようとしてやめられず、最後まで読まされてしまう本にぶつかる。人はそういう出会いを体験して、読書が好きになる。

 活字離れに歯止めをかける方法では、「『読書の時間』を学校の授業科目にする」40%が最も多かった。

 こういう答えをする人は、活字離れに歯止めをかけたいなどと思ってはいない。そもそも、活字離れなどどうでもいいのだろう。本気で活字離れに歯止めをかけたかったら、他人に責任転嫁せず、自分から読みはじめればいい。まず隗より始めよ。

 紙の上の活字でなくとも、読むものはすでにネット上に山のようにある。日々増えている。モニタの画面では読む気にならないとか、頭に入らないとか、いうのは、ぼくのような紙に印刷された活字で育った人間の、時代遅れの愚痴である。携帯向けのデジタル書籍の売上げが馬鹿にならなくなってきたという報道もあった。生まれたときからモニタがあり、携帯がある環境で育てば、紙を懐かしがる必要など生まれまい。

 インターネットは、むしろ言葉、書き言葉に偏重する傾向を生んでいる。オーディオやヴィジュアルの「コンテンツ」が増えているとはいえ、それはネットの外、通常空間に比べれば、量も種類もはるかに少ない。非言語コミュニケーションの方が、「リアル」空間では圧倒的に多いのだ。

 ネット上では言葉がすべて、ということは「2チャンネル」などに逆説的に現れている。あれが成立するのは言葉だけ、それも「書かれた」言葉だけに限られているからだ。そしておそらくまだまだ当分の間、ネット上のメディアは言葉が圧倒的だろう。UNIXにしても、ウインドウズにしても、書かれた言葉すなわち活字以外のメディアは例外処理だ。

 つまり「活字離れ」とは、もしそういう現象が実際にあるとしても、「紙に書かれた活字から離れている」だけのことである。そんなことは心配しても始まらない。

 むしろ、活字偏重を懸念すべきだ。イメージや仕種、音や匂い、味わい、手触り、肌触り、そうした言葉にならない感覚とそれを使ったコミュニケーションが弱体化しないか。非言語媒体のデジタル化を目指すべきではないか。

 イメージと音はある程度までデジタル化できている。しかし、匂いや味覚や触感をどうやってデジタル化するのか。そもそも、匂いや味覚や触感を「記録」する方法を、われわれ人類は発明していない。

 そうしたものが「記録」できないから、人間は言葉と、そしてそれを「記録」する文字を発明したのかもしれない。イメージの記録はできていたから、そちらは言葉に頼る必要はなかった。

 人類は、言葉と文字の発明以来、新しいものは何も作っていない。いや、そう考えると録音技術は言葉と文字以来の大発明とも言える。つまり視覚と聴覚を記録し、伝達する手段は手に入れた。次にくるのは嗅覚、味覚、触覚を記録し、伝達する手段だ。そして、聴覚の記録には、電気という、外部のエネルギーの介入が必要であるのと同様、あとの三つについても、また別の、もう一つ次元が上の外部の力が必要なのではないか。それがどんなものかは想像もつかない。量子力学の世界がからんでくるのだろう、たぶん。(ゆ)