ああ、これがポール・ブレディの真の姿だったのだ。
 前置きは無かった。
 「この唄は1980年代に書いたのだが、この頃うたうほどに、ますます状況にふさわしくなってきている。初めての国にやってきて、歓迎されない状況だ」
 むろん〈いつもおなじみのあの話〉なのだが、その迫力たるや、鳩尾に深々と一発食らわされた。世界中の「歓迎されざる人びと」の積もりつもった哀しみ、悔しさが、「語り部」の声とギターをまとって現れたか。
 ギターはコード・ストロークとフィンガー・ピッキングを自在に混ぜあわせる。聞くものを引込み、集中度を高める。ぐいと引き寄せておいてかませる唄のカウンター・パンチ。
 さんざん唄いつくしたはずの〈ポンチャートレイン〉が、また新たな唄に響く。そう、これもまた異邦人を迎える唄だった。
 わずか5曲。いや、ティム・オブライエンがハーモニーをつける〈柳の庭〉と、ルナサも加わって全員がバックに着いた〈ドニゴールの家〉もあった。
 が、とにかくソロ・パフォーマンスの質量の大きさは比較を絶した。その唄とギターは宇宙を満たす。

 ポール・ブレディの陰に隠れてしまった形だが、他の二組も各々に持ち味を出した。
 ティム・オブライエンは期待通り、ユーモアのセンスがしゃれている。サンキュウ・ベリマッチ、ドウモ・アリガトウ、メルシ・ボクーを混ぜあわせて使う、はにかみ屋。もう何十年も人前で唄っているのに、ここにいるのは本意ではないという姿勢が見える。うたいだせばそこはティムのキッチンだ。フィドルもギターも達者だが、やはり一番馴染んでいるのはマンドリンらしい。
 唄はどこまでもさりげない。叫ぶことはない。ことさらに声をあげることすら無い。音を延ばすのも、強調というより、身についたリズムらしい。
 感情表現を剥出しにしない。伝統音楽の基本である。この人もあくまでも伝統に忠実な人なのだ。
 その点ではダーク・パウエルも同じ。1曲だけフィドルでリードしたが、音楽に没入する様は、求道者のようにも見えた。弦をつまむようにはじくバンジョーが新鮮。

 そしてルナサ。並ぶ位置が変った。トレヴァーが右端に行き、その左がギターのポール。後の三人が左にずれる。ということはトレヴァーが音楽監督なのだろうか。
 というようなことは瑣末で、ルナサはルナサ、あんたがたどこさ、ルナサ。
 が、どこか深いところで変わっている。どこと指摘できない。紛れもないルナサでありながら、ルナサではない。メンバーが代わったのだから当然ではある。
 それだけのことなのか。
 むろん良い変化である。一つひとつの音、フレーズ、演奏にこめられた確信というか、自信というか、それが一段深くなった。迷いが無い。前はあったのかと問われれば、あったようには見えなかった、としか言えない。あるいは突走っていたからわからなかった。このルナサは勢いに乗って走っているのではない。おのれのペースを知り、それを守って悠々と走っている。

 キャラ・バトラーとジョン・ピラツキのダンスについては、特に言うこともない。強いて言えば、ちょっと「お約束」の感じが見えた。チーフテンズの時にはもう少し暴れてほしい。

 すぐ後ろの席の若い女性二人の会話。
 女が多いねえ。
 この頃どこに行ってもそうだね。
 こないだ男のほうが多かったのはキング・クリムゾンだったよ。
 なるほど。
 こちらもなるほど。(ゆ)