来月17日に発売になるカルロスの新作について、ミクシのカルロスとケルティック・ミュージックのコミュに書きこんだが、みごとに反応がない。映画の評判があまりに悪いので、それにつられて、みな眉に唾をつけているのだろうか。それとも、あんなやつの言うことなんぞ、誰も相手にせんよということか。
後者ならばまだいい。これは映画の中身とはまったく関係なく、音楽だけで独立しているからだ。映画はついに見る気が起きなかったが、これは映画から生まれた最大の成果として、映画そのものを救うかもしれない。
カルロスのうまさはどんな曲でもそれなりに聞かせてしまうところがあるが、曲との交感が成立する時の演奏は、天と地を結びつける。技量とか、センスとか、そういう個々の要素ではなく、ミュージシャンとしての魂とでも呼ぶしかない何かの作用だ。壮大な曲はどこまでも広がってゆくし、微妙に震えるコブシを効かせるリコーダーからは宇宙のため息が聞こえる。
そのカルロスがノりにノッている。全身全霊で曲に惚れこんでいる。冒頭、〈テルーの唄〉のガイタの音を一発聞いただけでわかる。もう歌詞は要らない。手嶌葵の唄と比べてどうこうなのではない。カルロスのパイプの音が響いていれば、他にもう何も要らなくなるだけである。相対的な価値ではない。絶対的な音。
もともとここでの寺島民哉の曲はケルトの影響が明らかだが、カルロスの手にかかることで、さらに一層大陸的な音楽に熟成している。そのものずばりの〈スパニッシュ・ドラゴン〉はもちろんだが、全体を通して、スペイン、それもアラブのルーツにまで根を下ろしたスペインの風も吹いている。
カルロスはこれまでに吸収してきた音楽言語を総動員している。アイリッシュはもちろん、スコティッシュもブルターニュも、日本すらもある。アルメニア特産の特異なリード楽器であるデュデュックまで使う。録音テクニックも様々に利用し、メロディのシンプルさを最大限に活用して、重層的立体的な作品を生みだした。言い古された表現だが、聞くたびに発見がある。再生システムの質を上げてゆけば、いくらでも応えるはずだ。
ただし寺島のパレットにあったのは、アイリッシュやガリシアという具体的なものではなく、抽象化された「ケルト」だったろう。一種の折衷であり、様々な要素を溶けあわせ、洗練させて生みだされたものだ。そしてそこがまたカルロスの資質と共鳴していることも確かだ。カルロスがめざすのはあくまでもルーツに根ざし、けっしてそこから浮きあがりはしないものの、ローカルな枠を越えた領域ではある。ことばの本来の意味での「メジャー」だ。
カルロスが偉いのは、その領域に到達することで商業的成功だけでなく、音楽的にもそこでしか手に入らない成果をめざしていることだ。言いかえれば、音楽的に妥協することなく、メジャーとしても成功しようと努めている。
そんなことが可能かと言えば、実例はある。
チーフテンズである。
カルロスはあらゆる点でパディ・モローニの手法、「商売のやり方」を盗み、己のものとしている。そのことは多少とも身を入れてかれの活動を追いかけてみれば、誰にでもわかろう。
そして、このアルバムは、そうした努力の現時点での集大成である。この録音が商業的にも成功するかどうかはわからないし、問題でもない。要は、ルーツをベースとして、可能なかぎり広い範囲の人びとに訴えようと努めることでも、質の高い音楽を作ることは可能であることを証明してみせたのだ。しかもローカルな聴衆だけを相手にするときにはできない質の音楽を作ってみせた。素材が伝統曲だろうと、たまたま作者がわかっている曲だろうと、もう関係はない。
音楽家としてのカルロス・ヌニェスの姿は、録音の上では十分に花開いていない、と言うのがこれまでのぼくの見方だった。その見方自体は間違っていないと思う。見立てが違っていたのは、花開かない理由を、めざす方向が間違っているからとしたことだ。そうではなく、素材との共鳴が十分でなかった、あるいは持続しなかったためだった。
カルロスは悪戦苦闘していたのだろう。額の髪の生えぎわがどんどん上がっていったのは、その苦闘の証かもしれない。しかし、その苦闘の蓄積があったからこそ、格好の素材を得たとき、思う存分に展開することができた。
最後に置かれたカルロスのオリジナルは、映画(なんと言っても今回の映画化がなければこの音楽は生まれなかったのだから)と、それを通して原作へのオマージュとして美しくもあり、そしてカルロスらしく、ちょっとお茶目なものでもある。
それにしても、このアルバムを聞くたびに、ひととおり全部聞いてから、また最初にもどらずにはいられない。このガイタ、と言うよりはハイランド・パイプの高音、小指を駆使する細かな装飾音のアクセント、ドローンのふくらみ、弟シュルシャの叩きだすスネア……。(ゆ)
* * * * *
《MELODIES FROM GEDO SENKI》
Sony SICP 1151
01. Song Of Therru / 谷山浩子
02. Beyond The Darkness (Anthem From Earthsea) / 寺嶋民哉
03. The Misty Land / 寺嶋民哉
04. Spanish Dragon / 寺嶋民哉
05. The Bounty Of The Land / 寺嶋民哉
06. Town Jig / 寺嶋民哉
07. Arren's Way (Gedo Senki Overture) / 寺嶋民哉
08. The End Of The Land / 寺嶋民哉
09. Song Of Time / A Arai & H Hogari
10. Over Nine Waves / Carlos Nunez
Carlos Nunez: gaita, uillean pipes, highland pipes, recorders, whistles, ocarinas, bombards, jewish harp, duduk
Xurxo Nunez: percussions, marimba, guitars, bass, keyboards, accordion
Triona Marshall: Irish harp
Paloma Trigas: violin, viola
Luis Robisco: flamenco guitar
Tamiya Terashima: piano, electronic effects
Masatsugu Shinozaki Strings
Tokyo Chamber Orchestra Society, conducted by Chikako Takahashi
後者ならばまだいい。これは映画の中身とはまったく関係なく、音楽だけで独立しているからだ。映画はついに見る気が起きなかったが、これは映画から生まれた最大の成果として、映画そのものを救うかもしれない。
カルロスのうまさはどんな曲でもそれなりに聞かせてしまうところがあるが、曲との交感が成立する時の演奏は、天と地を結びつける。技量とか、センスとか、そういう個々の要素ではなく、ミュージシャンとしての魂とでも呼ぶしかない何かの作用だ。壮大な曲はどこまでも広がってゆくし、微妙に震えるコブシを効かせるリコーダーからは宇宙のため息が聞こえる。
そのカルロスがノりにノッている。全身全霊で曲に惚れこんでいる。冒頭、〈テルーの唄〉のガイタの音を一発聞いただけでわかる。もう歌詞は要らない。手嶌葵の唄と比べてどうこうなのではない。カルロスのパイプの音が響いていれば、他にもう何も要らなくなるだけである。相対的な価値ではない。絶対的な音。
もともとここでの寺島民哉の曲はケルトの影響が明らかだが、カルロスの手にかかることで、さらに一層大陸的な音楽に熟成している。そのものずばりの〈スパニッシュ・ドラゴン〉はもちろんだが、全体を通して、スペイン、それもアラブのルーツにまで根を下ろしたスペインの風も吹いている。
カルロスはこれまでに吸収してきた音楽言語を総動員している。アイリッシュはもちろん、スコティッシュもブルターニュも、日本すらもある。アルメニア特産の特異なリード楽器であるデュデュックまで使う。録音テクニックも様々に利用し、メロディのシンプルさを最大限に活用して、重層的立体的な作品を生みだした。言い古された表現だが、聞くたびに発見がある。再生システムの質を上げてゆけば、いくらでも応えるはずだ。
ただし寺島のパレットにあったのは、アイリッシュやガリシアという具体的なものではなく、抽象化された「ケルト」だったろう。一種の折衷であり、様々な要素を溶けあわせ、洗練させて生みだされたものだ。そしてそこがまたカルロスの資質と共鳴していることも確かだ。カルロスがめざすのはあくまでもルーツに根ざし、けっしてそこから浮きあがりはしないものの、ローカルな枠を越えた領域ではある。ことばの本来の意味での「メジャー」だ。
カルロスが偉いのは、その領域に到達することで商業的成功だけでなく、音楽的にもそこでしか手に入らない成果をめざしていることだ。言いかえれば、音楽的に妥協することなく、メジャーとしても成功しようと努めている。
そんなことが可能かと言えば、実例はある。
チーフテンズである。
カルロスはあらゆる点でパディ・モローニの手法、「商売のやり方」を盗み、己のものとしている。そのことは多少とも身を入れてかれの活動を追いかけてみれば、誰にでもわかろう。
そして、このアルバムは、そうした努力の現時点での集大成である。この録音が商業的にも成功するかどうかはわからないし、問題でもない。要は、ルーツをベースとして、可能なかぎり広い範囲の人びとに訴えようと努めることでも、質の高い音楽を作ることは可能であることを証明してみせたのだ。しかもローカルな聴衆だけを相手にするときにはできない質の音楽を作ってみせた。素材が伝統曲だろうと、たまたま作者がわかっている曲だろうと、もう関係はない。
音楽家としてのカルロス・ヌニェスの姿は、録音の上では十分に花開いていない、と言うのがこれまでのぼくの見方だった。その見方自体は間違っていないと思う。見立てが違っていたのは、花開かない理由を、めざす方向が間違っているからとしたことだ。そうではなく、素材との共鳴が十分でなかった、あるいは持続しなかったためだった。
カルロスは悪戦苦闘していたのだろう。額の髪の生えぎわがどんどん上がっていったのは、その苦闘の証かもしれない。しかし、その苦闘の蓄積があったからこそ、格好の素材を得たとき、思う存分に展開することができた。
最後に置かれたカルロスのオリジナルは、映画(なんと言っても今回の映画化がなければこの音楽は生まれなかったのだから)と、それを通して原作へのオマージュとして美しくもあり、そしてカルロスらしく、ちょっとお茶目なものでもある。
それにしても、このアルバムを聞くたびに、ひととおり全部聞いてから、また最初にもどらずにはいられない。このガイタ、と言うよりはハイランド・パイプの高音、小指を駆使する細かな装飾音のアクセント、ドローンのふくらみ、弟シュルシャの叩きだすスネア……。(ゆ)
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《MELODIES FROM GEDO SENKI》
Sony SICP 1151
01. Song Of Therru / 谷山浩子
02. Beyond The Darkness (Anthem From Earthsea) / 寺嶋民哉
03. The Misty Land / 寺嶋民哉
04. Spanish Dragon / 寺嶋民哉
05. The Bounty Of The Land / 寺嶋民哉
06. Town Jig / 寺嶋民哉
07. Arren's Way (Gedo Senki Overture) / 寺嶋民哉
08. The End Of The Land / 寺嶋民哉
09. Song Of Time / A Arai & H Hogari
10. Over Nine Waves / Carlos Nunez
Carlos Nunez: gaita, uillean pipes, highland pipes, recorders, whistles, ocarinas, bombards, jewish harp, duduk
Xurxo Nunez: percussions, marimba, guitars, bass, keyboards, accordion
Triona Marshall: Irish harp
Paloma Trigas: violin, viola
Luis Robisco: flamenco guitar
Tamiya Terashima: piano, electronic effects
Masatsugu Shinozaki Strings
Tokyo Chamber Orchestra Society, conducted by Chikako Takahashi
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