この表紙をあらためて眺めていて、思うところあり。
まず右端のこの青年は、やはり若い頃の松平維秋でしょうね。
それから店の看板。上の "black hawk" の文字のその上は本来 "real jazz" でした。口絵 2pp. の写真参照。ちなみにこの店名は、サンフランシスコの有名なジャズ・クラブから借用したもの。
下の看板に "British Trad" の文字がありますが、これも本物はなかったはず。
それにしても、こういうイメージが定着しているとすれば、おそらくその原因は、当時「ブリティッシュ・トラッド」と呼ばれていた、ブリテン、アイルランドの伝統音楽とそれを元にしたロック、ポップス、あるいは同様の流れで展開されていたフランスや東欧の音楽を、公の場として、しかも日常的に聴けるところが「ブラック・ホーク」だけだったからでしょう。
船津さんが書いているように、担当者によって避けられることはあったにしても、リクエストすれば断られはしませんでしたし、そもそも、こういうレコードがコレクションされていた店は他にありませんでした。
「ブラック・ホーク」の「主流」だった、アメリカのルーツ志向のロック、ザ・バンドやスワンプ・ロック、カントリー・ロック、ニュー・グラス、シンガー・ソング・ライターといった音楽、あるいは英国でもキンクスやロニー・レーン、グリース・バンド、ヴァン・モリソンなどのアメリカ音楽をベースにしたものは、早い話、すぐ「お隣り」の「BYG」でもかかっていましたし、いまでも下北沢の「ストーリーズ」はじめ、何軒か、聞くことができる店はあるはず。いわゆるロック喫茶の看板を掲げていない、ごく普通の喫茶店や飲み屋で、聞けることもあります。ぼく自身、阿佐谷の飲み屋でトム・ウェイツの《クロージング・タイム》やエルトン・ジョンのセカンドを聞いたりした経験もあります。
しかし、こと「ブリティッシュ・トラッド」あるいは「トラッド」に分類される音楽は、自宅や友人の家以外のところで聞いたことがほとんどありません。例外は、何かのイベント、例えば、松平さんが数年ぶりにDJを務めて、南青山のふだんはラテン音楽のかかる飲み屋で開かれたイベントのような時だけです。アイリッシュ・ミュージック・ブーム全盛時ですら、例えばアイリッシュ・パブでセッションやライヴ以外の時にかかっている音楽は、せいぜいがポーグスまでで、ドロレス・ケーンは愚か、プランクシティやボシィ・バンドすら聞いたことがありません。むろん、ぼくの知らないところでかかっていた可能性はありますが、ぼくの少ない経験からしても、まずその可能性はかぎりなく小さいでしょう。
ここまで書いて思いだしました。千葉の駅に近い喫茶店で、「ダルシマー」という名前だったでしょうか、トラッドも含めて「ブラック・ホーク」に近いセレクションで音楽を聞かせているところがあると聞いて、一度訪ねていった覚えがあります。「ブラック・ホーク」がレゲエの店になっていた頃だと思います。いまでも健在なのでしょうか。
とはいえ、東京23区内では、気軽に入れて、いつでもその気になれば「トラッド」を聞くことができた店は、1970年代当時、「ブラック・ホーク」だけでした。
ですから、このての音楽に親しみ、さらには演奏までする人間がこの列島に現われるという現象が始まったのが「ブラック・ホーク」であることはまちがいありません。
あちこちで何度も書いてきたことですが、アイリッシュ・ミュージックははじめ「ブリティッシュ・トラッド」の一部として入ってきて、聞かれ、認識されていました。現在のように、アイリッシュ・ミュージックのほうがイングランドやスコットランドの音楽よりも遙かに知名度が大きくなるとは、当時誰にも想像もつかなかったことなのです。
クリスティ・ムーアやポール・ブレディやアンディ・アーヴァインは、マーティン・カーシィ、ディック・ゴーハン、ニック・ジョーンズ、ヴィン・ガーバット、デイヴ・バーランドたちとまったく区別なく、聞かれていました。
ドロレス・ケーンもトゥリーナ・ニ・ゴゥナルも、フランキー・アームストロングやシャーリィ・コリンズやアン・ブリッグスの仲間だったのです。
プランクシティやボシィ・バンドに相当するバンドはイングランドにはありませんでしたが、ちょっと変わったペンタングルと思っていた人もいたでしょうし、スコットランドにはバトルフィールド・バンドやアルバ、タナヒル・ウィーヴァーズがいましたから、これまたアイリッシュを意識させる存在ではなかったのです。
すべてがひとくくりに「ブリティッシュ・トラッド」と受け取られていました。
さらにその認識の中には、オーストラリアのブッシュワッカーズ、カナダのスタン・ロジャースといった英語圏だけでなく、ブルターニュのアラン・スティーヴェルや、フランスのマリコルヌや、オランダのファンガス、ハンガリーのコリンダ、ムジュカーシュとマールタ・セベスチェーンといった人びとも、含まれていたのです。「ワールド・ミュージック」が流行する何年も前の話です。
こんにちのアイリッシュ・ミュージックの隆盛、定着は、本国での事情もむろん寄与しているにしても、そもそも「ブラック・ホーク」がなければ始まらなかったことなのです。
「ブラック・ホーク」は小さな店でした。50人もはいれば満員になりました。「銀座の一等地」にあったわけでもありません。全国展開したチェーン店などでもありません。セレブが通っていたわけでもありません。この本にもあるように、ここに通っていた人たちがその後、名を上げた例には事欠きませんが、当時はみな、ごく普通の若者だったはずです。少なくとも、特別の存在には見えなかったはずです。
けれども、「発信力」は店の規模には関係ないのでしょう。それを一身に担っていた松平維秋が店を離れて30年経って、ようやく、その「発信力」の真の規模が現われてくるのを、ぼくらは眼のあたりにしています。(ゆ)
まず右端のこの青年は、やはり若い頃の松平維秋でしょうね。
それから店の看板。上の "black hawk" の文字のその上は本来 "real jazz" でした。口絵 2pp. の写真参照。ちなみにこの店名は、サンフランシスコの有名なジャズ・クラブから借用したもの。
下の看板に "British Trad" の文字がありますが、これも本物はなかったはず。
それにしても、こういうイメージが定着しているとすれば、おそらくその原因は、当時「ブリティッシュ・トラッド」と呼ばれていた、ブリテン、アイルランドの伝統音楽とそれを元にしたロック、ポップス、あるいは同様の流れで展開されていたフランスや東欧の音楽を、公の場として、しかも日常的に聴けるところが「ブラック・ホーク」だけだったからでしょう。
船津さんが書いているように、担当者によって避けられることはあったにしても、リクエストすれば断られはしませんでしたし、そもそも、こういうレコードがコレクションされていた店は他にありませんでした。
「ブラック・ホーク」の「主流」だった、アメリカのルーツ志向のロック、ザ・バンドやスワンプ・ロック、カントリー・ロック、ニュー・グラス、シンガー・ソング・ライターといった音楽、あるいは英国でもキンクスやロニー・レーン、グリース・バンド、ヴァン・モリソンなどのアメリカ音楽をベースにしたものは、早い話、すぐ「お隣り」の「BYG」でもかかっていましたし、いまでも下北沢の「ストーリーズ」はじめ、何軒か、聞くことができる店はあるはず。いわゆるロック喫茶の看板を掲げていない、ごく普通の喫茶店や飲み屋で、聞けることもあります。ぼく自身、阿佐谷の飲み屋でトム・ウェイツの《クロージング・タイム》やエルトン・ジョンのセカンドを聞いたりした経験もあります。
しかし、こと「ブリティッシュ・トラッド」あるいは「トラッド」に分類される音楽は、自宅や友人の家以外のところで聞いたことがほとんどありません。例外は、何かのイベント、例えば、松平さんが数年ぶりにDJを務めて、南青山のふだんはラテン音楽のかかる飲み屋で開かれたイベントのような時だけです。アイリッシュ・ミュージック・ブーム全盛時ですら、例えばアイリッシュ・パブでセッションやライヴ以外の時にかかっている音楽は、せいぜいがポーグスまでで、ドロレス・ケーンは愚か、プランクシティやボシィ・バンドすら聞いたことがありません。むろん、ぼくの知らないところでかかっていた可能性はありますが、ぼくの少ない経験からしても、まずその可能性はかぎりなく小さいでしょう。
ここまで書いて思いだしました。千葉の駅に近い喫茶店で、「ダルシマー」という名前だったでしょうか、トラッドも含めて「ブラック・ホーク」に近いセレクションで音楽を聞かせているところがあると聞いて、一度訪ねていった覚えがあります。「ブラック・ホーク」がレゲエの店になっていた頃だと思います。いまでも健在なのでしょうか。
とはいえ、東京23区内では、気軽に入れて、いつでもその気になれば「トラッド」を聞くことができた店は、1970年代当時、「ブラック・ホーク」だけでした。
ですから、このての音楽に親しみ、さらには演奏までする人間がこの列島に現われるという現象が始まったのが「ブラック・ホーク」であることはまちがいありません。
あちこちで何度も書いてきたことですが、アイリッシュ・ミュージックははじめ「ブリティッシュ・トラッド」の一部として入ってきて、聞かれ、認識されていました。現在のように、アイリッシュ・ミュージックのほうがイングランドやスコットランドの音楽よりも遙かに知名度が大きくなるとは、当時誰にも想像もつかなかったことなのです。
クリスティ・ムーアやポール・ブレディやアンディ・アーヴァインは、マーティン・カーシィ、ディック・ゴーハン、ニック・ジョーンズ、ヴィン・ガーバット、デイヴ・バーランドたちとまったく区別なく、聞かれていました。
ドロレス・ケーンもトゥリーナ・ニ・ゴゥナルも、フランキー・アームストロングやシャーリィ・コリンズやアン・ブリッグスの仲間だったのです。
プランクシティやボシィ・バンドに相当するバンドはイングランドにはありませんでしたが、ちょっと変わったペンタングルと思っていた人もいたでしょうし、スコットランドにはバトルフィールド・バンドやアルバ、タナヒル・ウィーヴァーズがいましたから、これまたアイリッシュを意識させる存在ではなかったのです。
すべてがひとくくりに「ブリティッシュ・トラッド」と受け取られていました。
さらにその認識の中には、オーストラリアのブッシュワッカーズ、カナダのスタン・ロジャースといった英語圏だけでなく、ブルターニュのアラン・スティーヴェルや、フランスのマリコルヌや、オランダのファンガス、ハンガリーのコリンダ、ムジュカーシュとマールタ・セベスチェーンといった人びとも、含まれていたのです。「ワールド・ミュージック」が流行する何年も前の話です。
こんにちのアイリッシュ・ミュージックの隆盛、定着は、本国での事情もむろん寄与しているにしても、そもそも「ブラック・ホーク」がなければ始まらなかったことなのです。
「ブラック・ホーク」は小さな店でした。50人もはいれば満員になりました。「銀座の一等地」にあったわけでもありません。全国展開したチェーン店などでもありません。セレブが通っていたわけでもありません。この本にもあるように、ここに通っていた人たちがその後、名を上げた例には事欠きませんが、当時はみな、ごく普通の若者だったはずです。少なくとも、特別の存在には見えなかったはずです。
けれども、「発信力」は店の規模には関係ないのでしょう。それを一身に担っていた松平維秋が店を離れて30年経って、ようやく、その「発信力」の真の規模が現われてくるのを、ぼくらは眼のあたりにしています。(ゆ)
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