気品があるのである。
崩れない。
どんなに音楽が白熱し、生死の境も消えそうになっても、
何かがぴいんと一本通っていて、
演奏する三人の姿にも、
聞こえている音楽そのものも、
いや、ライヴという総体的な体験の全体が、
揺るがないのである。
似たものは他にも感じたことはある。
たとえばアルタン。
たとえばメルセデス・ペオン。
たとえばマリア・デル・マール・ボネット。
だけど、フリーフォートほど、
まぎれもない「気品」を感じさせる存在はなく、
ライヴもない。
器が大きい。
フリーフォートの演奏する音楽は、
あくまでもスウェーデンの伝統音楽であり、
しかもその素材はかぎりなくコアに近いが、
しかし、実際に体験する音楽には、
今われわれの生きるこの世界、この宇宙が
全部共振している。
今われわれの抱くあらゆる感情が
喜びや楽しみだけでなく、怒りや哀しみまでも
そこに溶かしこまれ、
美しく、ダイナミックな音楽に昇華している。
伝統音楽、ルーツ・ミュージックは本来、そのように作用する。
その作用をフリーフォートほど十全に展開し、
聴くものの胸に流しこんでくる音楽家は、そうはいない。
しかも、あれだけの気品を感じさせながら、となると、
まず他には見あたらない。
たまたま1週間の間隔で
ヴェーセンとフリーフォートを見る
という幸運にめぐまれた。
こうなるといやでも違いが見えてくる。
ヴェーセンはより音楽に集中している。
器楽演奏の可能性を、極限まで展開し、試している。
ヴェーセンのライヴはだから、純粋な音楽体験だ。
贅肉というものの一切ない、
研ぎすまされた、
豊穰きわまる体験だ。
フリーフォートは音楽と同時に
音楽を生むもの、音楽を支えるものも伝えようとしている。
音楽は単独で存在している活動ではけっしてない。
むしろ音楽は人生の中では小さな一部でしかない。
小さいものであるにもかかわらず、
いや、ひょっとすると小さいものだからこそ、
人はそれをたいせつに想い、
注意深く扱い、
愛情をそそぐ。
無数の愛情がかさなり、響きあって
音楽は生きつづけている。
その想い、
無数の人びとが注いできた
愛情と共鳴をも、
溶かしこんで演奏しようとする。
フリーフォートのライヴに、
「気品」としかいいようのない何かがそなわるのは、
そのためではないか。
体験するわれわれが、
ことばにも形にもならないもの、
数値化することも抽象化することもできないなにか、
それでもなお、とほうもなくゆたかなものを
あたえられるように感じるのは
あの「気品」のおかげではないか。
しかしなによりもうれしいのは、
この体験が一方通行ではないと知ることだ。
ここまでのレヴェルになると、
ライヴ体験は双方向になる。
音を発しているのは確かにミュージシャンだが、
音とともに発せられた何かは
聴衆の反応となって返ってゆく。
それがいっそう演奏を深め、高め、満たす。
深められ、高められ、充実した演奏が
さらに聴衆の反応を引き出す。
やがて双方向の反応は
どちらからどちらへゆくのかもわからなくなる。
終演後、簡単に言葉を交わした3人は、
聴衆の反応のすばらしさを
たたえる言葉を惜しまなかった。
ツアーの最後に、
フリーフォートの3人にとっても、
すばらしい体験ができたことをよろこんでいた。
北とぴあのつつじホールも
すばらしい環境だった。
大きさも、ちょうどよかった。
もちろん、フリーフォートはもっと大きな会場でも
あるいは屋外でも
十分に実力を発揮できる人たちである。
今回は、しかしミュージシャンと聴衆がおたがいに親密になることと、
かれらの楽器や声の響きの美しさをストレートに伝えられることで、
ちょうど適当な大きさと音響だった。
三度目の正直、
というと前2回に失礼になるかもしれないが、
ただ、今回初めて、フリーフォートというグループの真の姿、
その音楽の真髄に
触れることができたと思う。
このチャンスをあたえてくれた
すべての裏方、招聘元、主催者のかたがたに、
こころから感謝します。
まことに、ま・こ・と・に、ありがとうございました。(ゆ)
崩れない。
どんなに音楽が白熱し、生死の境も消えそうになっても、
何かがぴいんと一本通っていて、
演奏する三人の姿にも、
聞こえている音楽そのものも、
いや、ライヴという総体的な体験の全体が、
揺るがないのである。
似たものは他にも感じたことはある。
たとえばアルタン。
たとえばメルセデス・ペオン。
たとえばマリア・デル・マール・ボネット。
だけど、フリーフォートほど、
まぎれもない「気品」を感じさせる存在はなく、
ライヴもない。
器が大きい。
フリーフォートの演奏する音楽は、
あくまでもスウェーデンの伝統音楽であり、
しかもその素材はかぎりなくコアに近いが、
しかし、実際に体験する音楽には、
今われわれの生きるこの世界、この宇宙が
全部共振している。
今われわれの抱くあらゆる感情が
喜びや楽しみだけでなく、怒りや哀しみまでも
そこに溶かしこまれ、
美しく、ダイナミックな音楽に昇華している。
伝統音楽、ルーツ・ミュージックは本来、そのように作用する。
その作用をフリーフォートほど十全に展開し、
聴くものの胸に流しこんでくる音楽家は、そうはいない。
しかも、あれだけの気品を感じさせながら、となると、
まず他には見あたらない。
たまたま1週間の間隔で
ヴェーセンとフリーフォートを見る
という幸運にめぐまれた。
こうなるといやでも違いが見えてくる。
ヴェーセンはより音楽に集中している。
器楽演奏の可能性を、極限まで展開し、試している。
ヴェーセンのライヴはだから、純粋な音楽体験だ。
贅肉というものの一切ない、
研ぎすまされた、
豊穰きわまる体験だ。
フリーフォートは音楽と同時に
音楽を生むもの、音楽を支えるものも伝えようとしている。
音楽は単独で存在している活動ではけっしてない。
むしろ音楽は人生の中では小さな一部でしかない。
小さいものであるにもかかわらず、
いや、ひょっとすると小さいものだからこそ、
人はそれをたいせつに想い、
注意深く扱い、
愛情をそそぐ。
無数の愛情がかさなり、響きあって
音楽は生きつづけている。
その想い、
無数の人びとが注いできた
愛情と共鳴をも、
溶かしこんで演奏しようとする。
フリーフォートのライヴに、
「気品」としかいいようのない何かがそなわるのは、
そのためではないか。
体験するわれわれが、
ことばにも形にもならないもの、
数値化することも抽象化することもできないなにか、
それでもなお、とほうもなくゆたかなものを
あたえられるように感じるのは
あの「気品」のおかげではないか。
しかしなによりもうれしいのは、
この体験が一方通行ではないと知ることだ。
ここまでのレヴェルになると、
ライヴ体験は双方向になる。
音を発しているのは確かにミュージシャンだが、
音とともに発せられた何かは
聴衆の反応となって返ってゆく。
それがいっそう演奏を深め、高め、満たす。
深められ、高められ、充実した演奏が
さらに聴衆の反応を引き出す。
やがて双方向の反応は
どちらからどちらへゆくのかもわからなくなる。
終演後、簡単に言葉を交わした3人は、
聴衆の反応のすばらしさを
たたえる言葉を惜しまなかった。
ツアーの最後に、
フリーフォートの3人にとっても、
すばらしい体験ができたことをよろこんでいた。
北とぴあのつつじホールも
すばらしい環境だった。
大きさも、ちょうどよかった。
もちろん、フリーフォートはもっと大きな会場でも
あるいは屋外でも
十分に実力を発揮できる人たちである。
今回は、しかしミュージシャンと聴衆がおたがいに親密になることと、
かれらの楽器や声の響きの美しさをストレートに伝えられることで、
ちょうど適当な大きさと音響だった。
三度目の正直、
というと前2回に失礼になるかもしれないが、
ただ、今回初めて、フリーフォートというグループの真の姿、
その音楽の真髄に
触れることができたと思う。
このチャンスをあたえてくれた
すべての裏方、招聘元、主催者のかたがたに、
こころから感謝します。
まことに、ま・こ・と・に、ありがとうございました。(ゆ)
コメント
コメント一覧 (2)
Frifotという不思議を見事に解き明かしてくださって、どうもありがとうございました。
こっちはただ、かれらの音楽にうっとりしてるだけ
のように思えるんですがね。
うっとりしてるということが、
なぜか向こうにも伝わるんでしょうか。
まだいくつかライヴには行く予定にしてますが、
あれを体験してしまうと、
今年はもういいやという気分です。