年齢を考えては失礼になるかもしれないが、ニコラの泣きのクラリネットをたっぷりフィーチュアした二度目のアンコールが終わってほお〜とため息をついたら、反射的にメンバーの年齢が頭のなかに湧いてきた。いままでこの空間を満たしていた音楽の豊饒はかれらのキャリアにして初めて可能なのではないか。長年にわたる厖大な蓄積がまずある。この人たちがその生涯に吸収してきた音楽の「量」は、宇宙を満たしている「暗黒物質=ダーク・マター」に相当する。眼には見えない。電波その他の直接観測にもひっかからない。しかし、どうやら確かにそこにあって、宇宙全体の構造を支え、絶え間なく膨張させている。しかも膨張のスピードは時々刻々増している。宇宙が膨張するように、モザイクの音楽もより大きく、より深く、より複雑に、そしてより美しくなってゆく。同世代でも、チーフテンズやストーンズやのように、昔やっていたことを十年一日に繰り返しているのでは金輪際無い。モザイクの音楽はモザイクの前にはなかった。方法論が示され、実現可能なことも見せつけられている以上、これからは現われる可能性はあるが、これに匹敵するものはどうだろう。モザイクにしても、これができるのは今なのだ、たぶん。蓄積と熟成には時間がかかる。熟成とはおちつくことでも、充足することでもない。洗練の極致。猛烈なスピードで疾走しながら、疾走している本体はクールに冴えかえっている。それにしてもアンディはどうしてあんなに難しい指遣いをするアレンジばかり作るのか。そしてめまぐるしく複雑きわまる動きをしながら、見事なうたをうたえるのか。まるで、ああいうふうに指を動かすことで初めてちゃんとうたもうたえる、というようだ。そしてレンスの万能ぶり。バルカンでござれ、アイリッシュでござれ、オールドタイムでござれ、まるで生まれたときからやってたよという顔だ。モザイクを裏で支えているのは、この男ではないか。いやもうそういう個々のメンバーがどうのこうのという次元ではないのかもしれない。練りに練ったアレンジをまるで手が10本あるひとりのミュージシャンのようにうたい、演奏しながら、ここぞのところでそのアレンジを転換し、展開し、転回する。一個の生きものになり、分裂し、合体し、また二つに三つに分れる。俳句や短歌のように、枠組みがあるからこそ解放されてゆく音楽。アイリッシュやオールドタイムやバルカンやの伝統にどっしりと根を張りながら、もうそんな伝統はどこかに消えている。昇華すると物質は消えるのだ。これは今しか聞けない。体験できない。アンディは今年66だ。ドーナルは去年還暦だ。もちろんもっと凄くなる可能性も大いにある。そうなって欲しい。それでもなお、いまのモザイクがこれからも続く保証はどこにもない。今のモザイクのライヴを体験し、体に記憶として刻みこむのは、文字通りいましかできない。明日の吉祥寺スター・パインズはゲストも出るから、単独で見られるのはもう今日の渋谷 DUO Music Exchange だけだ。雨も上がりそうだ。いざ行かん。(ゆ)
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