アイルランド共和国の中央統計局が先頃発表した予測によると、
共和国の人口は速ければ2014年に500万を突破する。
現在の国外からの流入と出生による増加の勢いが止まらないこと
が前提。
この二つの要因が減少すると500万突破は2041年にまで遅れる。
二つのうちより重要なのは国外からの流入の方だそうだ。
高齢化では、65歳以上の人口が2006年の46万人(約10%)から
2041年には130〜140万となり、全人口の25%となる。
5歳から12歳の人口は出生によるものだけでもこれからの10年間に
少くとも10%以上増えると予測されている。
これに国外からの移民を加えると、2025年までに現在の45万が65万になる。
あくまでも予測ではあるわけだがこれをまとめると、
高齢化はするけれど、少子にはならない。
つまり子どもは増えつづける。
従来とは逆の、中への移民の勢いが大きい。
それでも総人口が500万に達するのは先のこと。
これを伝統音楽的に見るならば、
多様性が増した文化で育った若者たちがうみだした新たな音楽が、
コンパクトで風通しが良い社会で積極的に展開される。
この2、3年のアイリッシュ・ミュージックは
正直言って「内向き」だが、
1990年代の爆発を導いた1980年代前半のように
内部にエネルギーを貯めこんでいる状態ではないか
と期待する。
もっともそこには音楽流通のありかたが
大きく変わっている最中であることも作用しているだろう。
伝統音楽は「市場」にのらない、
直接的にはカネを生まない活動がメインだ。
これがカネを生みだしはじめる時、
伝統音楽は広い世界に飛躍する。
リスナーやプレーヤーの数を増やし、
異なる伝統、ジャンルとの交流、「異種交配」が活発となり、
新たな衣をまとう。
1970年代後半に起きたことがそれだった。
プランクシティ、ボシィ・バンド、クラナド、デ・ダナン、チーフテンズ
かれらは伝統音楽を「市場化」した。
ひととおり市場化がすむと、
1980年代には伝統音楽は古巣にもどる。
そこで溜まったエネルギーが1980年代末から90年代前半に放出される。
アルタン、ダーヴィッシュ、デイアンタ、『リバーダンス』。
この時は前回より放出の射程も大きく、期間も長い。
21世紀最初の10年も半ばから、
伝統音楽は再び古巣にもどる。
もっともこういう見方は焦点がずれているかもしれない。
市場化された伝統音楽が活躍している間も、
市場化されない伝統音楽の活動もやんだはずはないからだ。
むしろ、活発になっていたくらいだろう。
あるいは市場化された伝統音楽は、
伝統音楽全体をひとつの生き物、
アメーバのような不定形の生命とみれば、
そこから「細胞分裂」してスピンアウトしたもうひとつの存在
というべきかもしれない。
そうして「子ども」をいくつも生みながら、
母体としての伝統音楽も成長してきている。
子どもたちからのフィードバックも成長のもとだし、
子どもを孕み、生む活動そのものが母体を元気にする。
現在はこの「市場化」がやりにくくなっている。
伝統音楽に「市場化」されるだけの「価値」がなくなったわけではないだろう。
むしろ問題は「市場」の側にある。
「市場」の形自体が崩れているのだ。
カネを生む仕組みが崩れている。
音楽産業は音楽をパッケージつまりレコード(LPでもCDでもあるいは DVD でも)
の形にすることでカネを生みだしていた。
パッケージする元々の音楽は実は各種の伝統音楽だ。
生まれたばかりのレコード産業をささえたのは「レイス・レコード」だ。
つまりアメリカ国内の様々な「民族集団」、
祖先や母国を同じくする人びとの集団向けに、
その集団の伝統音楽を録音したSP盤である。
(もっともここにはもう一つの側面、
パッケージ化されることで伝統音楽の形が確立する
という可能性も潜んでいるのだが、
今はそれは置いておく。)
そのパッケージ化を可能にしたのは録音と再生のテクノロジーの展開だったわけだが、
やはりテクノロジーの新たな展開によって、葬られることになった。
音楽からカネを生む仕組みは崩壊し、
新しい仕組みはまだ現われていない。
だから伝統音楽が「市場化」によって子どもを生むこともできなくなっている。
20世紀を通じて、アイルランドの伝統音楽は市場化の形による
外部からの刺戟によって
自らを活性化し、
再定義し、
脱構築し、
再生してきた。
ひょっとするとこれは
アイルランドの伝統音楽にかぎったことではないかもしれない。
世界中の伝統音楽
というよりも音楽はどこにあっても本来は伝統音楽なのだから、
世界中の音楽は市場化にさらされてきた。
それを積極的にバネとにして利用し、
自らを活性化して生き残ってきた。
それができなくなろうとしている。
「外部」からの刺戟の形が再び変わろうとしている。
人間の移動の規模と速度が増し、
より直接的な接触、衝突(はじめは皆衝突だ)が増している。
そこから何が生まれるか。
生まれたものに接する機会をどう確保するか。
そして生まれた子どもと同じくらい重要な
誕生のプロセスに立ち会う機会をどう確保するか。
いや、面白い時代になったものだ。(ゆ)
共和国の人口は速ければ2014年に500万を突破する。
現在の国外からの流入と出生による増加の勢いが止まらないこと
が前提。
この二つの要因が減少すると500万突破は2041年にまで遅れる。
二つのうちより重要なのは国外からの流入の方だそうだ。
高齢化では、65歳以上の人口が2006年の46万人(約10%)から
2041年には130〜140万となり、全人口の25%となる。
5歳から12歳の人口は出生によるものだけでもこれからの10年間に
少くとも10%以上増えると予測されている。
これに国外からの移民を加えると、2025年までに現在の45万が65万になる。
あくまでも予測ではあるわけだがこれをまとめると、
高齢化はするけれど、少子にはならない。
つまり子どもは増えつづける。
従来とは逆の、中への移民の勢いが大きい。
それでも総人口が500万に達するのは先のこと。
これを伝統音楽的に見るならば、
多様性が増した文化で育った若者たちがうみだした新たな音楽が、
コンパクトで風通しが良い社会で積極的に展開される。
この2、3年のアイリッシュ・ミュージックは
正直言って「内向き」だが、
1990年代の爆発を導いた1980年代前半のように
内部にエネルギーを貯めこんでいる状態ではないか
と期待する。
もっともそこには音楽流通のありかたが
大きく変わっている最中であることも作用しているだろう。
伝統音楽は「市場」にのらない、
直接的にはカネを生まない活動がメインだ。
これがカネを生みだしはじめる時、
伝統音楽は広い世界に飛躍する。
リスナーやプレーヤーの数を増やし、
異なる伝統、ジャンルとの交流、「異種交配」が活発となり、
新たな衣をまとう。
1970年代後半に起きたことがそれだった。
プランクシティ、ボシィ・バンド、クラナド、デ・ダナン、チーフテンズ
かれらは伝統音楽を「市場化」した。
ひととおり市場化がすむと、
1980年代には伝統音楽は古巣にもどる。
そこで溜まったエネルギーが1980年代末から90年代前半に放出される。
アルタン、ダーヴィッシュ、デイアンタ、『リバーダンス』。
この時は前回より放出の射程も大きく、期間も長い。
21世紀最初の10年も半ばから、
伝統音楽は再び古巣にもどる。
もっともこういう見方は焦点がずれているかもしれない。
市場化された伝統音楽が活躍している間も、
市場化されない伝統音楽の活動もやんだはずはないからだ。
むしろ、活発になっていたくらいだろう。
あるいは市場化された伝統音楽は、
伝統音楽全体をひとつの生き物、
アメーバのような不定形の生命とみれば、
そこから「細胞分裂」してスピンアウトしたもうひとつの存在
というべきかもしれない。
そうして「子ども」をいくつも生みながら、
母体としての伝統音楽も成長してきている。
子どもたちからのフィードバックも成長のもとだし、
子どもを孕み、生む活動そのものが母体を元気にする。
現在はこの「市場化」がやりにくくなっている。
伝統音楽に「市場化」されるだけの「価値」がなくなったわけではないだろう。
むしろ問題は「市場」の側にある。
「市場」の形自体が崩れているのだ。
カネを生む仕組みが崩れている。
音楽産業は音楽をパッケージつまりレコード(LPでもCDでもあるいは DVD でも)
の形にすることでカネを生みだしていた。
パッケージする元々の音楽は実は各種の伝統音楽だ。
生まれたばかりのレコード産業をささえたのは「レイス・レコード」だ。
つまりアメリカ国内の様々な「民族集団」、
祖先や母国を同じくする人びとの集団向けに、
その集団の伝統音楽を録音したSP盤である。
(もっともここにはもう一つの側面、
パッケージ化されることで伝統音楽の形が確立する
という可能性も潜んでいるのだが、
今はそれは置いておく。)
そのパッケージ化を可能にしたのは録音と再生のテクノロジーの展開だったわけだが、
やはりテクノロジーの新たな展開によって、葬られることになった。
音楽からカネを生む仕組みは崩壊し、
新しい仕組みはまだ現われていない。
だから伝統音楽が「市場化」によって子どもを生むこともできなくなっている。
20世紀を通じて、アイルランドの伝統音楽は市場化の形による
外部からの刺戟によって
自らを活性化し、
再定義し、
脱構築し、
再生してきた。
ひょっとするとこれは
アイルランドの伝統音楽にかぎったことではないかもしれない。
世界中の伝統音楽
というよりも音楽はどこにあっても本来は伝統音楽なのだから、
世界中の音楽は市場化にさらされてきた。
それを積極的にバネとにして利用し、
自らを活性化して生き残ってきた。
それができなくなろうとしている。
「外部」からの刺戟の形が再び変わろうとしている。
人間の移動の規模と速度が増し、
より直接的な接触、衝突(はじめは皆衝突だ)が増している。
そこから何が生まれるか。
生まれたものに接する機会をどう確保するか。
そして生まれた子どもと同じくらい重要な
誕生のプロセスに立ち会う機会をどう確保するか。
いや、面白い時代になったものだ。(ゆ)
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