以下は「実演家団体、著作権侵害サイトの監視を開始--ユーザーからの通報を受け付け」という記事、とりわけ
「音楽は『タダ』ではない。多くのアーティストやアーティストを支えるスタッフの知恵や努力、高い創作意欲があってはじめて商業音楽として世に出られる。生まれてきた音楽に対して、正当な対価が支払われる環境がなくなれば、アーティストは音楽以外の手段で自分たちの生活を支えなければならなくなる」
という一節に触発されての「暴論」である。
だったら音楽以外の手段で生活を支えれば良いではないか。
音楽家が音楽でメシを食おうとするから、音楽が死んでゆくのだ。
他人の「不正行為」を監視することが音楽活動によい影響を与えるとは、
どう考えても、信じられない。
監視をするよりも、まず「ニーズをくみ上げて」見せろよ。
くみ上げられていないから、「不正行為」をする人間が喝采を受けるのだろうが。
別の言い方をすれば、「正直者が馬鹿を見る」のだ。
それとも畢竟、資本主義は根本的に「正直者が馬鹿を見る」ようにできたシステムだから、黙って馬鹿を見ていろ、ということか。
ぼくらは音楽が「タダ」であることを知っている。
アイリッシュ・ミュージックの現場を見れば、否応なくわかる。
地球上、どこでも同じであるとの推測もつく。
むろんそれには条件がある。
タダであるのは、音楽が生まれている共同体の内部において、だ。
共同体のメンバーにとってはタダなのである。
共同体を生活の場としている人間にとっては、タダなのだ。
共同体の「外」の人間が、内部の音楽にアクセスしようとすると、タダではなくなる。
何らかの対価を払わねばらない。
しかし、その「対価」は、音楽を「外」に持ちだすことに払われるのであって、
音楽そのものに対して払われるわけではない。
(この場合、「対価」はカネとはかぎらない)
ミュージシャンはその「対価」で生活しているわけではない。
かれらは他の手段で生活しながら、音楽を自らの日常の不可欠の一部としている。
生活を支えるために音楽をするのではない。
音楽をせざるをえないから、しないでいることができないから、音楽をするのだ。
生活を支えるためにする音楽は、もはや音楽ではない、とかれらなら言うだろう。
とはいえまた一方で、四六時中音楽をやらなくてはいらない音楽家もいるだろう。
そうなると、音楽以外の手段で生活できないのはうなずける。
なにも、天才ばかりではない。
何らかの条件で、音楽以外に生活手段がないという人間もいる。
ターロゥ・カロランに代表されるアイルランドの盲目の旅回りハーパーはそうだったし、
わが国の瞽女がそうだ。
バルカンのジプシー楽団もそうだ。
その場合には、その音楽家の音楽を受けとる人が、音楽家の生活を支える。
音楽家の生みだす音楽が、
音楽家の生活を支えてもかまわないと思えるほどに良いものならば。
リスナーの生活にとっても不可欠であると感じられるならば。
ハーパーも瞽女もジプシーたちも、皆、そうした「ニーズ」を満たしていた。
社会が変化し、「ニーズ」が消えると、供給者も消えた。
とすれば、音楽は今ぼくらが生きてゆくのに、本当に「必要」なのか。
あるいはぼくらが生きてゆくのに本当に「必要な」音楽なのか。
本当に「必要」なものは、タダが基本だ。
空気も水も、タダだ。
現代社会で水はタダではない、と見えるかもしれないが、
それは水道という供給システムへの対価であって、水そのものはタダである。
一方で、タダであるのは、あまりにも貴重で、値段をつけられないからでもある。
誰も対価が払えないくらい、空気も水も「高い」のだ。
音楽も、ほんとうに必要なものはタダである。
共同体の中でタダなのは、共同体の存続に必要不可欠だからだ。
著作権を守れ、というのなら、否が応でも守らざるをえない音楽を生んでみろ。
聞いたものが皆、それを生みだした音楽家の生活を、
すすんで支えたくなるような音楽を聞かせてくれ。
あんたの音楽はおれたちに必要だ、だからあんたの生活はおれたちが支えるから、
他のことはせずに、とにかく音楽を聞かせてくれ。
著作権とは、本来、そうして生まれたはずだ。
音楽家の方から、
これはおれが作ったんだから、おれのものだ、聞きたいんならカネをよこせ、
といって始まったものではない。
そんなことを言った音楽家の音楽など、誰にも聞かれなくなって、忘れさられた。
音楽は本来、値段などつけようもないほど貴重な贈り物だ。
たまたま受けとり、その恩恵に浴した者は、受けた恩を「次」に回す。
そういう形でしか「返礼」できない贈り物なのだ。
音楽家の生活の手段では断じて無い。
著作権はともすれば「守る」ことだけが強調される。
著作権を守りたいならば、著作権を利用しやすくすることが一番の近道ではないか。
著作物は利用されてナンボ、だ。
著作権は守られたが、誰も当の著作物を利用しない。
音楽は誰にも聞かれず、書物は誰にも読まれず、映像は誰にも見られない。
著作権団体はそういう状況を望んでいるのか。
著作権は著作物がなければ生まれない。
そして著作物は、誰か「他の」人間に利用されて、初めて存在意義を持つ。(ゆ)
「音楽は『タダ』ではない。多くのアーティストやアーティストを支えるスタッフの知恵や努力、高い創作意欲があってはじめて商業音楽として世に出られる。生まれてきた音楽に対して、正当な対価が支払われる環境がなくなれば、アーティストは音楽以外の手段で自分たちの生活を支えなければならなくなる」
という一節に触発されての「暴論」である。
だったら音楽以外の手段で生活を支えれば良いではないか。
音楽家が音楽でメシを食おうとするから、音楽が死んでゆくのだ。
他人の「不正行為」を監視することが音楽活動によい影響を与えるとは、
どう考えても、信じられない。
監視をするよりも、まず「ニーズをくみ上げて」見せろよ。
くみ上げられていないから、「不正行為」をする人間が喝采を受けるのだろうが。
別の言い方をすれば、「正直者が馬鹿を見る」のだ。
それとも畢竟、資本主義は根本的に「正直者が馬鹿を見る」ようにできたシステムだから、黙って馬鹿を見ていろ、ということか。
ぼくらは音楽が「タダ」であることを知っている。
アイリッシュ・ミュージックの現場を見れば、否応なくわかる。
地球上、どこでも同じであるとの推測もつく。
むろんそれには条件がある。
タダであるのは、音楽が生まれている共同体の内部において、だ。
共同体のメンバーにとってはタダなのである。
共同体を生活の場としている人間にとっては、タダなのだ。
共同体の「外」の人間が、内部の音楽にアクセスしようとすると、タダではなくなる。
何らかの対価を払わねばらない。
しかし、その「対価」は、音楽を「外」に持ちだすことに払われるのであって、
音楽そのものに対して払われるわけではない。
(この場合、「対価」はカネとはかぎらない)
ミュージシャンはその「対価」で生活しているわけではない。
かれらは他の手段で生活しながら、音楽を自らの日常の不可欠の一部としている。
生活を支えるために音楽をするのではない。
音楽をせざるをえないから、しないでいることができないから、音楽をするのだ。
生活を支えるためにする音楽は、もはや音楽ではない、とかれらなら言うだろう。
とはいえまた一方で、四六時中音楽をやらなくてはいらない音楽家もいるだろう。
そうなると、音楽以外の手段で生活できないのはうなずける。
なにも、天才ばかりではない。
何らかの条件で、音楽以外に生活手段がないという人間もいる。
ターロゥ・カロランに代表されるアイルランドの盲目の旅回りハーパーはそうだったし、
わが国の瞽女がそうだ。
バルカンのジプシー楽団もそうだ。
その場合には、その音楽家の音楽を受けとる人が、音楽家の生活を支える。
音楽家の生みだす音楽が、
音楽家の生活を支えてもかまわないと思えるほどに良いものならば。
リスナーの生活にとっても不可欠であると感じられるならば。
ハーパーも瞽女もジプシーたちも、皆、そうした「ニーズ」を満たしていた。
社会が変化し、「ニーズ」が消えると、供給者も消えた。
とすれば、音楽は今ぼくらが生きてゆくのに、本当に「必要」なのか。
あるいはぼくらが生きてゆくのに本当に「必要な」音楽なのか。
本当に「必要」なものは、タダが基本だ。
空気も水も、タダだ。
現代社会で水はタダではない、と見えるかもしれないが、
それは水道という供給システムへの対価であって、水そのものはタダである。
一方で、タダであるのは、あまりにも貴重で、値段をつけられないからでもある。
誰も対価が払えないくらい、空気も水も「高い」のだ。
音楽も、ほんとうに必要なものはタダである。
共同体の中でタダなのは、共同体の存続に必要不可欠だからだ。
著作権を守れ、というのなら、否が応でも守らざるをえない音楽を生んでみろ。
聞いたものが皆、それを生みだした音楽家の生活を、
すすんで支えたくなるような音楽を聞かせてくれ。
あんたの音楽はおれたちに必要だ、だからあんたの生活はおれたちが支えるから、
他のことはせずに、とにかく音楽を聞かせてくれ。
著作権とは、本来、そうして生まれたはずだ。
音楽家の方から、
これはおれが作ったんだから、おれのものだ、聞きたいんならカネをよこせ、
といって始まったものではない。
そんなことを言った音楽家の音楽など、誰にも聞かれなくなって、忘れさられた。
音楽は本来、値段などつけようもないほど貴重な贈り物だ。
たまたま受けとり、その恩恵に浴した者は、受けた恩を「次」に回す。
そういう形でしか「返礼」できない贈り物なのだ。
音楽家の生活の手段では断じて無い。
著作権はともすれば「守る」ことだけが強調される。
著作権を守りたいならば、著作権を利用しやすくすることが一番の近道ではないか。
著作物は利用されてナンボ、だ。
著作権は守られたが、誰も当の著作物を利用しない。
音楽は誰にも聞かれず、書物は誰にも読まれず、映像は誰にも見られない。
著作権団体はそういう状況を望んでいるのか。
著作権は著作物がなければ生まれない。
そして著作物は、誰か「他の」人間に利用されて、初めて存在意義を持つ。(ゆ)
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