先日来日したブルターニュのデュオ Bugel Koar のかたわれマルト・ヴァッサーロに誠小のCDを送ったら、いたく気に入ったとお礼のメールが来た。これはチャンスとメール・インタヴューを申しこんだら快諾。先日山のような返事。

 この人、実におもしろい。音楽もすばらしいが、音楽への態度がまたすばらしい。好奇心がめちゃくちゃ旺盛で広い。ブルターニュ伝統音楽のど真ん中で週に一度は fez nos というダンス・パーティーで何時間もうたいながら、ジャズやクラシックでもうたう。今日はジャズ・ミュージシャンと共演し、明日はオペラを歌い、明後日はブルターニュのフェス・ノーズでダンスの伴奏をするというのが日常なのだ。

 このインタヴューは今月のメルマガに掲載予定。

 お礼に沖縄音楽のコンピを作ってあげようと手持ちのCDを先日からあれこれ聞きなおしているのだが、それにしても嘉手苅林昌という人はいったい何なのだろう。この人の魅力を外国人にどう説明すればよいのか。誠小はまだわかりやすい。いっそ明解でもある。しかし、嘉手苅は難しい。聞けば凄いことはわかる。誠小や照屋林助もいるけど、戦後沖縄の唄者を一人だけ選べと言われれば、やはりこの人になるのではないか。

 わからないままに、あまりに気持ちよく、とにかく持っている音源をずっと聞いていったら、すばらしいものにぶちあたる。《ジルー》に入っている誠小との共演。二人が交互にかけあいでうたうのだが、これは正にブルターニュの「カン・ハ・ディスカン」ではないか。二人のうたい手が交互にうたうことには、コーラスやユニゾンとは違う形で、魂を揺さぶる力がある。

 たがいへの競争心と共鳴共振する感興に次第に緊張度が増してゆくのだが、表面の音楽自体はゆるいままだ。外殻のゆるさと内部のしまりはまったく融合して、どちらかが欠けることもできないし、分離もできない。意味は一切わからないのに、耳を離せない。引きこまれ、身動きもならない。それでいて身も心もリラックスしきっている。

 これをマルトはどう聞くだろう。(ゆ)