An-Chang Project の安場淳さんのお誘いをいただいて、与那国のうた者・福里安展氏のライヴを聞きにゆく。この人はホンモノだった。
ホンモノのうたい手はうたがごく自然にあふれ出てくる。声に無理がない。高くなって出しにくそうなときも、聞いていて辛くならない。とにかく、その人がうたいだすと、その人がうたうことは宇宙でもっとも自然なことであるとしか思えなくなる。うたは声がとどく範囲を小宇宙と化し、そのなかにいるわれわれはうたに満たされて他のことをいっさい忘れる。至福の境地。
アイルランドのドロレス・ケーンがそうである。レン・グレアムがそうだ。故ダラク・オ・カハーンがそうだ。スコットランドのキャサリン=アン・マクフィーがそうだ。ブルターニュのマルト・ヴァッサーロがそうだ。イングランドのノーマ・ウォータースンがそうだ。もっと近くでいえば、誠小。嘉手苅林昌。大工哲弘。大島保克。古謝美佐子。大城美佐子。元ちとせ。
そして福里氏はその誰とくらべても遜色ない。というよりも、その誰よりも自然度が大きい。度合いが大きいというのはややずれるが、この人の場合、「高い」とか「強い」という形容があてはまらない。やはり誰よりも器が大きい。
他の人たちの生は見ていない。だから、この比較、評価は不公平だ。それは承知のうえで、なおかつ今夜の福里氏はまぎれもなく世界一のうたい手だった。
声は高からず低からず。芯が太く、ボディは充実して、倍音が豊かだ。三線はどうもかなりゆるい張り方に思える。本島や奄美のカンカンという響きではない。
そして与那国の節回し。これもどうもゆるい。よい具合にゆるい。本島や八重山の旋律にはいまだにエキゾティズムを感じるし、それが魅力のひとつでもある。が、与那国の節回しはなんの抵抗もなく、体にはいってくる。それでいてこれは違う。これまで聞いたどんなうたとも違う。だから新鮮ではある。こんな新鮮なものにこんなにするりと入ってこられるというのは、これはいったい何なのだ。
前半は笛と太鼓兼お囃子とともに与那国の古いうた。凄絶なバラッド〈いとぬぶでぃ節〉がハイライト。後半は曲によってヴァイオリンまたはピアノがサポートして、わらべうたと子守唄。すぐれた大人のうた者がうたうわらべうたや子守唄がすばらしいのはアイルランドでも例がある。
ヴァイオリンとピアノはどちらもクラシック畑の人。試みとしては大いに評価するが、どちらもまだおそるおそるやっている。失敗して当然なのだから、もっと思いきって踏みこんでほしい。福里氏はそれをがっちり受けとめられるだけの懐の深さをお持ちのはずだ。お二人のうちではピアノの方に時間をかけた痕があった。
会場は百人もはいると満員になるのが、通路にまですわりこむ人がいる大盛況。ほとんどは与那国出身やその親族らしく、夫婦や家族で来ている人びとも多い。筆者のようなまったくの一人で、知り合いもゼロという客が例外。子どもも二、三人いた。女性が8割ぐらい。
休憩時間に与那国特産にごり泡盛がふるまわれる。かなりドライで、かすかに塩味が残る。腹におちるとじわあとぬくもりが広がる。こんな酒も飲んだことがなかった。
福里氏にはなんとしても録音を作っていただきたい。世界はこのうたを聞くべきだ。このうたを聞かずして、沖縄音楽を語るなかれ。ワールド・ミュージックを語るなかれ。
これだけのうたが生まれるには、福里氏ひとりだけではないはずだ。福里氏は今いちばんだそうだが、まだまだ隠れた名手がいるはずだ。また、いたはずだ。
おそるべし与那国。沖縄音楽最後の秘密。ひょっとすると最大の秘密かもしれない。(ゆ)
ホンモノのうたい手はうたがごく自然にあふれ出てくる。声に無理がない。高くなって出しにくそうなときも、聞いていて辛くならない。とにかく、その人がうたいだすと、その人がうたうことは宇宙でもっとも自然なことであるとしか思えなくなる。うたは声がとどく範囲を小宇宙と化し、そのなかにいるわれわれはうたに満たされて他のことをいっさい忘れる。至福の境地。
アイルランドのドロレス・ケーンがそうである。レン・グレアムがそうだ。故ダラク・オ・カハーンがそうだ。スコットランドのキャサリン=アン・マクフィーがそうだ。ブルターニュのマルト・ヴァッサーロがそうだ。イングランドのノーマ・ウォータースンがそうだ。もっと近くでいえば、誠小。嘉手苅林昌。大工哲弘。大島保克。古謝美佐子。大城美佐子。元ちとせ。
そして福里氏はその誰とくらべても遜色ない。というよりも、その誰よりも自然度が大きい。度合いが大きいというのはややずれるが、この人の場合、「高い」とか「強い」という形容があてはまらない。やはり誰よりも器が大きい。
他の人たちの生は見ていない。だから、この比較、評価は不公平だ。それは承知のうえで、なおかつ今夜の福里氏はまぎれもなく世界一のうたい手だった。
声は高からず低からず。芯が太く、ボディは充実して、倍音が豊かだ。三線はどうもかなりゆるい張り方に思える。本島や奄美のカンカンという響きではない。
そして与那国の節回し。これもどうもゆるい。よい具合にゆるい。本島や八重山の旋律にはいまだにエキゾティズムを感じるし、それが魅力のひとつでもある。が、与那国の節回しはなんの抵抗もなく、体にはいってくる。それでいてこれは違う。これまで聞いたどんなうたとも違う。だから新鮮ではある。こんな新鮮なものにこんなにするりと入ってこられるというのは、これはいったい何なのだ。
前半は笛と太鼓兼お囃子とともに与那国の古いうた。凄絶なバラッド〈いとぬぶでぃ節〉がハイライト。後半は曲によってヴァイオリンまたはピアノがサポートして、わらべうたと子守唄。すぐれた大人のうた者がうたうわらべうたや子守唄がすばらしいのはアイルランドでも例がある。
ヴァイオリンとピアノはどちらもクラシック畑の人。試みとしては大いに評価するが、どちらもまだおそるおそるやっている。失敗して当然なのだから、もっと思いきって踏みこんでほしい。福里氏はそれをがっちり受けとめられるだけの懐の深さをお持ちのはずだ。お二人のうちではピアノの方に時間をかけた痕があった。
会場は百人もはいると満員になるのが、通路にまですわりこむ人がいる大盛況。ほとんどは与那国出身やその親族らしく、夫婦や家族で来ている人びとも多い。筆者のようなまったくの一人で、知り合いもゼロという客が例外。子どもも二、三人いた。女性が8割ぐらい。
休憩時間に与那国特産にごり泡盛がふるまわれる。かなりドライで、かすかに塩味が残る。腹におちるとじわあとぬくもりが広がる。こんな酒も飲んだことがなかった。
福里氏にはなんとしても録音を作っていただきたい。世界はこのうたを聞くべきだ。このうたを聞かずして、沖縄音楽を語るなかれ。ワールド・ミュージックを語るなかれ。
これだけのうたが生まれるには、福里氏ひとりだけではないはずだ。福里氏は今いちばんだそうだが、まだまだ隠れた名手がいるはずだ。また、いたはずだ。
おそるべし与那国。沖縄音楽最後の秘密。ひょっとすると最大の秘密かもしれない。(ゆ)
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