日本の「安心」はなぜ、消えたのか—社会心理学から見た現代日本の問題点   明日配信予定の本誌2月情報号ですが、編集部の事情により、6日になります。不悪、乞うご容赦。


    山岸俊男『日本の「安心」はなぜ、消えたのか—社会心理学から見た現代日本の問題点』集英社インターナショナルはまことに面白い本で、ほとんど一気読みしてしまいました。もっともこの本は「あとがき」にもあるように、いささかセンセーショナルな書き方をしているので、「信頼社会」への道程の点では「商人倫理」の活用よりも、この本の基礎になっている『安心社会から信頼社会へ—日本型システムの行方 (中公新書)』で提唱されている情報公開&共有のほうがすなおにうなずけました。

    当ブログの関心からみておもしろいのは、この本の分析を適用すれば、アイリッシュ・ミュージックをはじめとするヨーロッパの伝統音楽に「信頼社会」の特徴が端的に現われているところです。

    ヨーロッパの伝統音楽では関わる人間を制限しませんし、情報は原則的に公開・共有されています。そこに関わる人間は伝統を尊重する一方で、情報を占有することはしないと信頼しているわけです。そういう「戦略」をとった音楽は生き残って、伝えられました。そして今や、その揺籃の地からあふれて、世界各地で繁栄しています。これはまたコンピュータの世界でのフリーウエアの在り方にも通じるところです。以前にも書きましたが、こうしてみると、独占的な著作権が守られなければ創作活動は行われないという主張は嘘っぱちであると言わないわけにはいきません。

    「安心社会」戦略をとった音楽伝統もあったでしょうが、それは消えてしまって、残っていません。カロランに代表される、かつてのアイリッシュ・ハープの伝統はその例と言えそうです。

    この本の議論に添えば、わが国の伝統音楽の問題も、「信頼社会」への移行を先取りしていると見えます。

    「安心社会」から「信頼社会」への移行は必ずしも一方通行ではないはずですし、今後も二本立てで進むだろうと著者も書いていますが、当面はわが国でも「信頼社会」への移行が続くでしょう。現在の「世界恐慌」でも、おそらく「信頼社会」への移行は促進されこそすれ、遅れることはないと思われます。

    その状況で、わが国の伝統音楽はどう変わるのか。あるいは変われないのか。

    ひょっとすると「安心社会」によって伝えられてきた既存の音楽伝統は、「信頼社会」を基盤とする音楽伝統によって置きかえられるのかもしれません。服装や文書の書式のように。(ゆ)