DERACINE CHING-DONG    早めに家を出て、新宿タワー・レコードでの中山康樹、後藤雅洋、村井康司三氏のトーク・イベントに行く。マイルス・デイヴィスとブルーノートについての本が出た、刊行記念イベントの由。マイルスとブルーノートから三氏が1曲ずつ選んで聞き、おしゃべりするという企画。村井さんが司会役でうまくまとめるのはさすが。

     マイルスでぐっと来たのは中山氏が選ばれた《ポーギーとベス》からの〈サマータイム〉。別に難しいことや派手なことをしているわけではないのに、一音一音にちからがある。シンプルなフレーズがひたひたと迫ってくる。

    昨年からエレクトリック・マイルスにははまっているが、古いマイルスは以前ひと通り聴いたものの、どうもぴんとこなかった。が、これはどうだろう。こういうトランペットなら、もう一度聞きなおそう。

    ブルーノートでは村井さんが選ばれたトニー・ウィリアムスが抜群におもしろかった。これは「家」で聴きたい。まあ、ぼくの場合、今ではそれは iPod で、ということなのだが、つまり、ジャズ喫茶のような場ではなく、パーソナルに聴きたい。

    村井さんのマイルスは《ゲット・アップ・ウィズ・イット》 からの曲で、村井さんは「辛い」ものとおっしゃっていたが、ぼくにはどうも黒蜜黄粉寒天に聴こえた。もっとも、このアルバムはちゃんと聴いていないので、生齧りではある。

    トークのポイントではブルーノートのアルバムはどれも「商品」としてきちんと作っている、というのが印象に残る。アイリッシュ・ミュージックではこういうものはまず無い。Green Linnet はアイリッシュ・ミュージックのブルーノートを目指したかもしれないが、ミュージシャンのサポートがまったく考慮に入っていなかったから論外。

    ヨーロッパのルーツ・ミュージックでもブルーノートまたはECMをめざしたレーベルはいくつかある。ビル・リーダーの Trailer、カーステン・リンドの Folk Freak、イアン・グリーンの Greentrax、ポール&リンダ・アダムスの Fellside あたりが代表だろう。アイルランドでもドーナルがプロデューサーとして活躍した Mulligan があるが、ここもグリーン・リネットと似た状況だったらしい。

    この中では後世への影響力(コレクターズ・アイテムとしても)まで含めれば、ブルーノートに多少とも近いところまでいったのはトレイラーぐらいか。グリーントラックスとフェルサイドは着実に実績を重ねているが、守備範囲が限定的ではある。

    こうしたレーベルがルーツ・ミュージックのブルーノートになれなかったのは、プレスティッジやリヴァーサイドがなれなかったのとは違って、まず、市場の性格というより、ジャズのそれに比べれば市場は無いというべき状況のせいではあるだろう。トレイラーの販売実績データなんてものは見たことがないけれど、ライヴァルであった Topic の状況から推測しても、累計でも一万枚売れたタイトルがあったかどうか。

    もう一つ印象的だったのは、マイルスは今にいたるまで変わらない人気があり、しかもその全キャリアが聴かれている、ということ。それで連想したのが、20年前、あるコミック専門店の主から聞いた話。マンガの世界は作家の消長が烈しいが、終始一貫、常に新しい読者が入ってきて人気が衰えない作家が二人だけいる。手塚治虫と萩尾望都だ。なぜか、ということになると、販売の現場はかえってわからないもので、やはり作品の力ですかね、でその場は終わったが、昨日の話を聞いていて、わかったような気がした。

    もちろん作品に力があることは第一の前提条件だが、そこにもうひとつ、くり返し語られる対象である、という条件も関ってくるのではないか。例えばこのトーク・イベントのような形で、さまざまに語られる。正面から批評の対象にもなれば、楽しい座談のネタにもされる。結論はいつも同じ。マイルスはすごい、ブルーノートはすごい。

    そんなにすごいのか、と聴いてみれば実際にすごい。やっぱりすごいんですね、そうだろう、すごいんだよ、ようやくわかるようになってくれたか。じゃ、他のも聴いてみます。

    手塚や萩尾にも、同様な事情があったのではないか。では、石森や藤子や赤塚はどうなのだ、といわれると、こちらはどうも語りにくいところがある。石森は作品の出来に波があるし、赤塚はジャンルが限られるし、藤子はやはり分裂している。

    もっともマンガは別に誰かに薦められなくとも、ごく自然に読むようになるだろうが、ジャズは仮にも外国産の音楽だ。今では日本語ネイティヴのジャズもりっぱに成立していることは言うを待たないが、最初はとにかく舶来品である。それが日本に根づき、世界に通用するネイティヴも生まれるようになるまでには、このくり返し、後藤さんが『ジャズ喫茶リアル・ヒストリー』でも書かれていた愚直なまでのくり返しが必要だったのではないか。

    そして、舶来品を根づかせるには、一般的に言って、この愚直なくり返しが必要なのではないか。マイルスやブルーノート、手塚や萩尾に匹敵しないまでも、相当する存在をひろいだし、その良さを倦むことなくくり返すことで、初めて、根づいていくのではないか。

    今度の「アイリッシュ・ミュージック@いーぐる on バレンタイン・デー」はその試みのひとつではある。アイリッシュ・ミュージックの名演、定番について、その良さを愚直にくり返してゆく試みである。

    これまでぼくはアイリッシュ・ミュージックの定番とか名盤とか呼ばれるものを称揚することは意識して避けていた。ある一定の評価軸、ものの見方を押しつけるような気がしていたからだ。アイリッシュ・ミュージックや、その他ヨーロッパのルーツ・ミュージックは、ただひとつの角度から見るのではもったいない。見る人、聴く人によってありとあらゆる多種多様な顔を見せ、聴かせてくれるのだから。なにか共通の定番、名盤よりも、聴く人それぞれに定番、名盤があるべきだ。

    むしろ、今の、できたてほやほやの傑作群を聴いてくれ、定番や名盤と言われるものは後からでも遅くはない。そう思ってもいたからだ。

    しかし、それだけでは足りないのだろう。それで良い人もいる。一方でそれでは困る人もいる。そしてアイリッシュ・ミュージックを、ヨーロッパのルーツ・ミュージックをもっと広めるためには、後者の人たちに訴えなければならない。そこで愚直なくり返しが必要なのだ。


    トーク終了後、トイレに駈けこんでから、空腹に耐えかねて「アカシア」。そのまま吉祥寺に移動。東急裏のライヴハウス GB でソウル・フラワー・モノノケ・サミットのライヴ。昨年は都合がつかず見逃がしていたので、久しぶり。ん、辺野古以来か。

    中川さんに言わせると、ほとんどリハをしないバンドだというが、もうすっかりモノノケ・グルーヴができていて、何をやってもぴたりとはまる。今回はトンコリの OKI がゲストだが、これがまた実によくはまる。OKI はソロはどうも寂しくて、誰かといっしょにやらないと響いてこないのだが、モノノケに入るとモノノケの方も一段と良くなる。スケールがひと回り大きくなる感じだ。これにドーナルが入るとどうなるのだろうと、シャレではなく、無性に見たくなる。ひょっとすると秋には見られるかもしれない。

    今のモノノケなら、どんな人やモノが来ても、だいじょうぶだろう。もっとどんどん実験してほしい。今度、ドーナル、梅津、近藤のフライング・ジュゴン・バンドにゲストで出る金子飛鳥さんとかも、見てみたい。旋律楽器が大熊さんだけだから、ヴァイオリンははまると思う。

    もっとも今回はピアニカが入っておもしろかった。初めての気もするが、前からいたっけ。音が埋もれがちなのが惜しいが、OKI  がヴァーカルをとった曲では映えていた。

    それにしても、開演前からだと4時間以上、立ちっぱなしは辛い。後半は必死に踊って、足を動かしていたが、新宿へもどる電車で坐れたときには思わずため息が出た。


    しばらくぶりに外出して、『250話で語るアイルランド史(仮)』がだいぶ進む。それにしても、16世紀末から17世紀にかけての動乱はすさまじい。息つく暇もなく、戦乱に継ぐ戦乱だ。殺し合いと農産物や財産の破壊、略奪が果てしもなく続く。ガザの虐殺も蒼ざめるような惨劇が日常茶飯事になっていたらしい。よくこれで社会が続いたものだ。

    つまりは、人間は同じことを性懲りもなくくり返している。その悪のくり返しを断つためには、しかしたぶん、同じことを愚直にくり返し、言い続けることしか、方法はないのだ。惨劇をくり返し伝え、われわれ人間はこんなひどいことを性懲りもなくくり返してきたのだから、もういいかげん、別のやりかたをしようではないか、とくり返すしか、方法はないのだ。(ゆ)