今日は情報号の配信日ですが、諸般の事情により、配信は明日になります。不悪。
朝日にJASRACの歴史が簡単に紹介されてました。なかなか面白い。
ボザールの本社に伺い、試作中の Jupity の後継機を視聴させてもらいました。ここの試聴室の写真、一番手前に映っている、胴の太いやつ。アンプ内蔵ではなく、Jupity 内蔵のアンプを改良したものがつながってました。
未完成のせいか、はじめはよくわからなかったんですが、いろいろ聴いているうちに、すごさを実感。このサイズでこの音はひょっとして Yoshii 9 も超えたんじゃないか。Jupity に比べると、低域の伸びとふくらみがハンパではありません。ジム・ヒギンズのバゥロンが目の前で鳴ってます。Marsa Vahdat のバックで鳴っているアラブ系打楽器の、革をこする音のリアリティ。
しかし、しかし、なんといってもすばらしいのはヴォーカルで、マーサ・ヴァーダットからアニー・エブレルからニーヴ・パースンズから、もうどんどん聴いてしまいます。そうそう、 シャナヒーの河原さん。
このシャナヒーの録音の優秀さに、ボザールのエンジニアのKさんと顔を見合わせました。アイルランドはじめ海外のルーツ・ミュージックの優秀録音盤にまったくひけをとりません。それに比べると、喜多直毅&黒田京子の録音は、いかにも日本の録音。どこか紗がかかってます。音楽が鳴ってる媒体の透明度が低い。音楽そのものはすばらしいのに。リスナーにとって快い音と録音エンジニアが考えてる音が、ほんとうに快い音からずれてるんじゃないでしょうか。楽器が鳴っている生の音をそのまま伝えてくれれば、それで十分のはずなのに。ひょっとして、エンジニアが生の楽器の音を聴いたことがない、なんてありうるのか。
朝日にJASRACの歴史が簡単に紹介されてました。なかなか面白い。
ボザールの本社に伺い、試作中の Jupity の後継機を視聴させてもらいました。ここの試聴室の写真、一番手前に映っている、胴の太いやつ。アンプ内蔵ではなく、Jupity 内蔵のアンプを改良したものがつながってました。
未完成のせいか、はじめはよくわからなかったんですが、いろいろ聴いているうちに、すごさを実感。このサイズでこの音はひょっとして Yoshii 9 も超えたんじゃないか。Jupity に比べると、低域の伸びとふくらみがハンパではありません。ジム・ヒギンズのバゥロンが目の前で鳴ってます。Marsa Vahdat のバックで鳴っているアラブ系打楽器の、革をこする音のリアリティ。
しかし、しかし、なんといってもすばらしいのはヴォーカルで、マーサ・ヴァーダットからアニー・エブレルからニーヴ・パースンズから、もうどんどん聴いてしまいます。そうそう、 シャナヒーの河原さん。
このシャナヒーの録音の優秀さに、ボザールのエンジニアのKさんと顔を見合わせました。アイルランドはじめ海外のルーツ・ミュージックの優秀録音盤にまったくひけをとりません。それに比べると、喜多直毅&黒田京子の録音は、いかにも日本の録音。どこか紗がかかってます。音楽が鳴ってる媒体の透明度が低い。音楽そのものはすばらしいのに。リスナーにとって快い音と録音エンジニアが考えてる音が、ほんとうに快い音からずれてるんじゃないでしょうか。楽器が鳴っている生の音をそのまま伝えてくれれば、それで十分のはずなのに。ひょっとして、エンジニアが生の楽器の音を聴いたことがない、なんてありうるのか。
コメント
コメント一覧 (3)
シャナビーというバンドのCDをさっそくネット上で検索して試聴させてもらいました。
「生の楽器の音」という言葉を使われていますが、「生」とはなんでしょう?音質までは判断できませんが、PA使用が前提のバランスに聞こえます。それぞれの楽器を「生」で同時に鳴らしている場面をイメージしながら聴くと、ひどく不自然です。もちろん、そんなヒネクレた想像をしなければ全然気になりませんが。当然スタジオ録音ですよね。
対して「空に吸はれし心」はホール録音で、ワンポイントではないのでバランスの調整はしていますが、PAを使用しない生演奏をイメージした音です。その時点で単純な比較は難しいでしょう。
エンジニアのNさんは元々PAエンジニアです。あるコンサート会場で、リハーサルの音を聴いて「ここは響きがいいからPAいらない」と機材を撤収してしまった、というエピソードが山下洋輔氏のエッセイで語られています。
それはさておき、2月にいーぐるで講演された方だったとは!といっても当日は聴いていなくて、後から気付いてひどく残念に思ったのでした。次回もあるということなのでぜひ伺いたいと思います。
「空に吸はれし心」では最初にホール録音というコンセプトがあり、目指している音が異なるということです。かといって「ホールで聴く音の忠実な再現」を目指したわけではないので、そこも誤解して欲しくないところですが。
「いかにも日本の録音」という括り方も気になりました。音楽をたくさん聴いている人がそのような発言をするといかにも真実味がありそうなのですが、その実体をきちんと説明することは不可能だと思います。一定の条件を揃えればある程度は傾向を分析することも可能だろうと思いますが、「日本」という括り方ではいくらなんでも大雑把すぎます。
そうですね、たしかに前提無しに「日本の録音」と書くのは不用意だったかもしれませんが、こうして反応をいただいたのも、そうした「不用意」さのおかげ、と思ったりもします。
今はくわしく書いている余裕がないのですが、たぶん
> 「空に吸はれし心」では最初にホール録音というコンセプトがあり、目指している音が異なるということです。かといって「ホールで聴く音の忠実な再現」を目指したわけではないので、そこも誤解して欲しくないところですが。
ホールかスタジオかのもうひとつ基礎的なレベルで、「めざす」ところが、ぼくには違和感がある、ということだと思います。どういう音をリスナーに聴いてもらいたいか、でしょうか。
そこのところが、ふだん聴いているアイルランドをはじめとするヨーロッパのルーツ・ミュージックの録音と、日本の、エンジニアがついてスタジオで録られる形の録音とは、あきらかに違って聞こえます。むろん、日本のそうした録音がすべて同じであるはずもありませんが、どこか共通しているのは音楽をきれいに聞かせたいという意図ではないか、とこのころは考えています。
その意図が、意識的か無意識なものかはともかく、音から「生々しさ」を減らし、音楽本来の持っている力を殺いでいるのではないか。じゃあ、その「生々しさ」とは何よ、ということにまたなるかもしれませんが、それはまた改めて。
シャナヒーの録音はヨーロッパのものに近いと聞こえますし、喜多&黒田録音は音楽そのものにはぞっこん惚れこみましたが、ヨーロッパ風の録音で聞きたい、と思ったわけです。
もうひとつ、日本の録音でぼくが良いと思えるもののひとつに、『ベーシック・オーディオ』誌付録CDの録音があります。持っているのは2、3枚ですが、昨年の谷川賢作&ミタタケのものなど、愛聴盤です。