音楽はこんなにも深く広く大きくなれるものなのか。前半、梅津さんがアマゾンの自然保護運動に身を捧げて殺された人のために作った曲を聴いていて涙が出てきた。怒りや怨みの音楽ではない。癒しでもない。もっと根っこのところ、人として生きることを可能にしている土台に直接響いてくる音楽。かぎりなく謙虚になるよういざなう音楽。
アップテンポの陽気な曲も、一瞬の油断が致命傷になるようなスリリングな展開も十分堪能したが、それ以上にあたたかい懐にすっぽりと抱かれながら、ずっと厳しい問いをささやかれていた気がする。そんなこと訊かれても答えようがないが、しかしその問いを自ら問いつづけることをやめれば、人間ではなくなる問い。生きものですらなくなる問い。その問いが音楽の形で問われることで、これ以上なく切実に迫ってくる。
それが頂点に逹したのは、後半、近藤ひろみさんのカリンバがフィーチュアされた曲。CDの中でも最も印象的な曲だが、微妙に変化しながら繰り返されるリフが、地球上の生命圏全体の鼓動にも聞こえた。
アンサンブルとしては、近藤、ドーナルのリズム・セクションに梅津、金子のフロント・ラインが奔放自在に飛びまくるのが基本形。しかし目をつむって聴いていると、個々の役割分担などはきれいに消えて、1個の生命として、うねりまわりながれてゆく。こちらとしてはただただまきこまれてふりまわされてながされてゆくしかないのだが、それのなんときもちのよいことよ。1曲が終熄するごとに、すっかり洗われたように、生まれかわったように、すがすがしくなる。
それにしても昨夜は梅津さんの凄さに脱帽した。「世界一のアイリッシュ・サックス奏者」は嘘でも酔狂でもない。音が違う。サックスの音色はもともとがあっけらかんと唯我独尊で、だからオーケストラから追放されたくらいだが、アイリッシュのアンサンブルでもどうにも始末に負えないところがある。場違いなのだ。アイリッシュも抑圧された人びとの音楽であることではブルーズと同じだが、感情のベクトルが違う。その違いが効果的なときもあるが、本質がずれているのはどうにもならない。
それが梅津さんのサックスはぴったりなのである。もとはアイリッシュではない曲でも、このバンドがやると基本的な感情はアイリッシュになる。つまり「おもしろうてやがてかなしき」気持ち。「もののあはれ」にも一脈通じる。同じではないが、通じる。その「かなし」のところを梅津さんのサックスの音色は運んでくる。前からあったのかもしれないが、昨夜は梅津さんのサックスから流れる「かなしさ」、「あはれ」と「をかし」がうまくブレンドされたような何かが、ひときは深く胸の底にしみこんできた。ひょっとすると、演歌をやられたことが、新たな深みをそのサックスに加えていたのかもしれない。そちらを聴いていないから断言できないが。
こういう音楽を聴くとひたすら感謝するしかない。メンバーが菩薩に見えてくる。自然に手を合わせて拝んでいる。
前座には waits が出た。ヒデ坊はCDを聴いてあやぶんでいたが、どっこい、CDからは格段に進化していて、とくにラストに披露したセカンド・ラインのリズムにダンス・チューンをのせたのはすばらしかった。メンバーの友人たちを除けば、おそらく初めて聞く人がほとんどのはずの会場からもやんやの喝采。これからもああいう冒険をどんどんやってほしい。O'Jizo の豊田さんたちも来ていて、waits のメンバーと歓談していたから、何か生まれるかもしれない。O'Jizo、ナギィ〜MIP に続くバンドが出てきて、関東もおもしろくなってきた。関西のシャナヒー、Drakskip、Sheena と東西対抗アイリッシュ・バンド合戦など、誰か企画しないか。ドレクスキップはノルディックだが、この際細かいことは気にしない(^_-)。
30分前に入ったときはガラガラで、ちょっと心配になったが、梅津さんや金子さんのファン層は背広組が多いらしく、開演直前になって増えたし、京都を見て感激した中川さんが「動員」をかけたソウル・フラワー関係者も大挙してやってきて、休憩時などは飲み物注文とトイレに行く人で身動きもならなくなるほど。そういう雑多な聴衆が皆満ち足りた顔をしていた。最後に挨拶だけに出てきたメンバーが引っこんだ後も、しばらく誰も席を立とうとしなかった。(ゆ)
アップテンポの陽気な曲も、一瞬の油断が致命傷になるようなスリリングな展開も十分堪能したが、それ以上にあたたかい懐にすっぽりと抱かれながら、ずっと厳しい問いをささやかれていた気がする。そんなこと訊かれても答えようがないが、しかしその問いを自ら問いつづけることをやめれば、人間ではなくなる問い。生きものですらなくなる問い。その問いが音楽の形で問われることで、これ以上なく切実に迫ってくる。
それが頂点に逹したのは、後半、近藤ひろみさんのカリンバがフィーチュアされた曲。CDの中でも最も印象的な曲だが、微妙に変化しながら繰り返されるリフが、地球上の生命圏全体の鼓動にも聞こえた。
アンサンブルとしては、近藤、ドーナルのリズム・セクションに梅津、金子のフロント・ラインが奔放自在に飛びまくるのが基本形。しかし目をつむって聴いていると、個々の役割分担などはきれいに消えて、1個の生命として、うねりまわりながれてゆく。こちらとしてはただただまきこまれてふりまわされてながされてゆくしかないのだが、それのなんときもちのよいことよ。1曲が終熄するごとに、すっかり洗われたように、生まれかわったように、すがすがしくなる。
それにしても昨夜は梅津さんの凄さに脱帽した。「世界一のアイリッシュ・サックス奏者」は嘘でも酔狂でもない。音が違う。サックスの音色はもともとがあっけらかんと唯我独尊で、だからオーケストラから追放されたくらいだが、アイリッシュのアンサンブルでもどうにも始末に負えないところがある。場違いなのだ。アイリッシュも抑圧された人びとの音楽であることではブルーズと同じだが、感情のベクトルが違う。その違いが効果的なときもあるが、本質がずれているのはどうにもならない。
それが梅津さんのサックスはぴったりなのである。もとはアイリッシュではない曲でも、このバンドがやると基本的な感情はアイリッシュになる。つまり「おもしろうてやがてかなしき」気持ち。「もののあはれ」にも一脈通じる。同じではないが、通じる。その「かなし」のところを梅津さんのサックスの音色は運んでくる。前からあったのかもしれないが、昨夜は梅津さんのサックスから流れる「かなしさ」、「あはれ」と「をかし」がうまくブレンドされたような何かが、ひときは深く胸の底にしみこんできた。ひょっとすると、演歌をやられたことが、新たな深みをそのサックスに加えていたのかもしれない。そちらを聴いていないから断言できないが。
こういう音楽を聴くとひたすら感謝するしかない。メンバーが菩薩に見えてくる。自然に手を合わせて拝んでいる。
前座には waits が出た。ヒデ坊はCDを聴いてあやぶんでいたが、どっこい、CDからは格段に進化していて、とくにラストに披露したセカンド・ラインのリズムにダンス・チューンをのせたのはすばらしかった。メンバーの友人たちを除けば、おそらく初めて聞く人がほとんどのはずの会場からもやんやの喝采。これからもああいう冒険をどんどんやってほしい。O'Jizo の豊田さんたちも来ていて、waits のメンバーと歓談していたから、何か生まれるかもしれない。O'Jizo、ナギィ〜MIP に続くバンドが出てきて、関東もおもしろくなってきた。関西のシャナヒー、Drakskip、Sheena と東西対抗アイリッシュ・バンド合戦など、誰か企画しないか。ドレクスキップはノルディックだが、この際細かいことは気にしない(^_-)。
30分前に入ったときはガラガラで、ちょっと心配になったが、梅津さんや金子さんのファン層は背広組が多いらしく、開演直前になって増えたし、京都を見て感激した中川さんが「動員」をかけたソウル・フラワー関係者も大挙してやってきて、休憩時などは飲み物注文とトイレに行く人で身動きもならなくなるほど。そういう雑多な聴衆が皆満ち足りた顔をしていた。最後に挨拶だけに出てきたメンバーが引っこんだ後も、しばらく誰も席を立とうとしなかった。(ゆ)
コメント