聴いているうちにほーっと肩の力が抜けてきた。そうそう、この感覚なのだ。アイリッシュ・ミュージックのライヴはこうでなくっちゃ。この、なんというか、あくぬけないところ、ぶきようだがにくめない。好不調の波がモロに出る甘さ。

    プロではない、と言う人もいるだろうが、それを言うならアイリッシュ・ミュージックとはそもそもプロの音楽ではない。アイリッシュ・ミュージックが、たとえばジャズのような意味でプロの担うものになるとすれば、それはもうアイリッシュ・ミュージックではない。アイリッシュ・ミュージックの魅力はあくまでも、究極のアマチュアリズムから生まれるのであって、アルタンやルナサのような、あるいはドーナル・ラニィやニーヴ・パースンズのような人たちでも、その点は変わらない。チーフテンズにいたってはアマチュアリズムをひとつの様式として完成し、その型を押し通すことで世界制覇した。
   
    音楽の質の点からみれば、特に前半はたとえばシェイマス・オハラでの O'Jizo の月例セッション・ライヴの方がよほど高いだろう。O'Jizo のライヴでは音楽に感動し、メンバーの技量に感嘆し、おおいに満足して帰ることになる。だがしかし、この夜のグラーダのように、肩の力を脱いてはくれない。知らず知らずにたまっていた緊張をほぐし、心の血管を開いて流れをよくしてはくれない。これはもう個々のミュージシャンの技量とか資質とかとは別のことに属する。
   
    自分たちの調子がどうかは、かれら自身がいちばん良くわかっている。だからこそ、前半は緊張し、おそらく多少アガってもいたかもしれない。それが後半、みちがえるように堅さがとれ、いつものように音楽を楽しめるようになっていたのは、ひょっとすると客が少なかったせいではなかったか。友人らしき在日アイルランド人たちの一団がいたこともサポートになっただろう。最後にフィドルのデヴィッドとフルートのステファンがそれぞれに見せたソロのシャン・ノース・ステップ・ダンシングはそれはそれは見事だった。
   
    主催者としては客の入りは多いにこしたことはないし、フルハウスの熱気は見る方としても嬉しい。とはいえ、昨日のように、隣の客と余裕のあるスペースがとれ、ゆったりとした気分で見られるのもまた、なかなかに良いものだ。ミュージシャンにしてみれば少ないときの客は本当に自分たちの演奏を見にきてくれた人びとであり、満員のときの客よりも信頼感は増す。
   
    主催者にしてみれば、わざわざ交通費をついやし、カネを払って見にきてくれる客には最高の体験をさせたいと思うのは当然ではある。とはいえ、何が客にとって最高かは個人によっても違うし、同じ個人でもその時によって違う。本人にさえ、その時にならなければわからないことだって少なくないのだ。
   
    グラーダは確かにベストの調子ではなかった。おそらくそれ故に、アイリッシュ・ミュージックとして、少なくともアイルランド人がやるアイリッシュ・ミュージックとして何が最も大切なものか、もう一度少なくとも異邦人にとって何がアイリッシュ・ミュージックをアイリッシュ・ミュージックたらしめているのか、あらためて確認させてくれた。それも別に声高に叫ぶわけでもなく、実にさりげなく、ただ、調子の悪い演奏を聴かせるというだけのことによってだ。念のために言うが、これは皮肉でもなんでもない。

    このところずっと、アイリッシュ・ミュージックとは対極にある音楽にひたっていたせいもあっただろう。グラーダの調子の悪さもちょうどよかった。尻上がりに調子が良くなっていったのもよかった。他の体験ではとうていありえないほど、さわやかに、すがすがしくなって、雨の降った東京の街路を帰途についたのだった。(ゆ)