CNET のエニグモ=コルシカに関するブログ「デジタル化のパスカル・パオリ」を読んで浮かんだことのメモ。
エニグモ=コルシカはどうもぼくには確信犯に見える。それも販売そのものが目的なのではなく、議論を巻きおこすことが第一目的であって、最終的には現在の著作権システムに穴を穿けることをめざしているのではないか。そうみると、こうした記事を書くこと自体、その意図に乗ってしまっているわけでもあるのだが、ここはそれでもかまうまい。現行の著作権システムが錆びついていることは、それによって守られていると思いこみたい人びとにとっても明らかだろうからだ。
もっとも、エニグモ=コルシカの意図は明確に「著作権システムに穴を穿けてやる」と言い切れるものでもないだろう。結果的に穿いてもやむをえない、穿いたらしめたもの、ぐらいではないか。コルシカ・サイトはいわば観測気球であるわけだ。他の事業を見ても、エニグモをやっている人たちが、著作権法をよく知らないでコルシカを仕掛けたとはとても思えない。むしろニーズの存在を感知し、それを満たすための方策を考えたようにみえる。出版業界についてもよく調べていて、紙にすがりついているだけでは雑誌に未来は無いことも見通している。おそらくエニグモとしてはコルシカの次の段階に商売のネタを見ているのだろう。それが何かは知らないが。
そこで問題はやはり出版業界に返ってくる。なぜコルシカのようなサーヴィスを、出版社自身がこれまでできなかったか。
答は予想できる。著作権システムが壁になっているからだ。
そう、出版社自身を守るはずの著作権システムが、環境の変化にあって硬直化してしまい、今度は出版社自身を縛っている。
今や「コンテンツ」つまり情報や知識や知恵を材料として個人あるいは集団が作った「作物」はデジタル化されなければ、利用されない。この趨勢は加速こそすれ、逆流することはない。
そして現行の著作権システムは「著作物」のデジタル化を基本のところで想定していない。現在の処理のやり方はデジタル化された、あるいは最初からデジタルで作られた「著作物」を、暫定的にあるいはヴァーチャルにアナログ化して処理している。
現行の著作権の概念は紙の上に印刷された作物を対象にしている。印刷術が開発されることで、著作権が生まれる。著作権とは著作物で食べてゆくための装置だ。筆写の時代には、著作をしてもそれで食べられるわけではない。印刷によって筆写とは次元を異にして複製が容易になったために、著作物で食べられる可能性が生まれた。しかし保証はされない。著作権が確立されていない時代、地域では出版社だけが潤う現象もあった(例えばロバート・バーンズ)。「著者」が著作物で食べることを確実にするために編みだされたのが著作権だ。これは結局、著者と出版社が共存共栄できるために広く採用された。
著作権は複製を前提にしている。複製できないものに著作権は設定されない。著作権とは事実上、複製する権利だ。デジタルの問題は複製を誰もが簡単にローコストでできてしまうことから生まれている。アナログを複製するにはコストと手間がかかる。本というパッケージを買うのは、一冊まるごとコピーして製本したり、筆写するよりも、買う方が手間もかからず、安くすむからだ。
したがってアナログは複製をコントロールすることが可能だ。そして現行の著作権は複製をコントロールできることが前提になっている。
そのシステムが、誰もが複製できてしまう事態に直面したときとったのは、「守り」の姿勢だった。自らは変わらずに、そのシステムを押しつけることだった。
一度そうしてしまうと、すべての変更ができなくなる。一カ所でも変えると、ドミノ現象が起きると感じられる。堤防の蟻の一穴のたとえだ。それまでは潤滑油として黙認していた「洩れ」の部分までふさごうとする。あるジャズ喫茶の老舗に突然数十年分の莫大な著作権料を請求したというのは、この例だ。
だから今の著作権をめぐる議論は、利用者側が著作権の「柔軟な」行使を求めると、権利者団体側はより厳密な適用を求める、ということになる。その結果、権利者自身がデジタル化しようとしてもできない自縄自縛の事態が生じる。その間に、アナログの次元だけで展開されている著作物による収入はどんどんと減り、それが著作物の質の低下を呼び、さらに収入の減少を加速させる。
一方で既存の著作権システムを守ろうとする姿勢は過激化し、著作権を守ることは一時の「テロとの戦い」と同様な錦の御旗となる。既存の著作権システムを守るためなら、どんなことでも許されると考える。端的な例が、フランスで法制化された、「違法ダウンロード常習者をインターネットから切断する」行為だ。こんにちの社会でインターネットはもはやライフラインや公共交通機関と同様のインフラだ。それからの切断は人の生存にかかわる。ここでは基本的人権より著作権保護が上に置かれている。そこでヨーロッパを中心に「海賊党」が現れることになる。著作権はその本来の位置にもどし、基本的人権の方を優先すべきだという主張だ。
「違法ダウンロード常習者」は犯罪者なのだからそれを社会から隔離するのは当然だというのは本末転倒だ。なぜなら、そのダウンロードが違法かどうか決めるのは社会ではない、権利者だからだ。権利者が、ダウンロードしていいよ、とひとこと言えばそのダウンロードは「合法」になる。すると、一権利者がある人間の生殺与奪の権利を握るわけだ。これは法律の存立基盤そのものに反するはずだ。
とはいえ、あるダウンロードが違法か合法か、権利者が決められる事態は、やはりデジタルだからこそだ。アナログではこういう状況は生まれない。これはつまり、デジタル化が進むことで、複製を独占するための装置という著作権概念の実体が顕わになったということだろう。デジタルの時代に複製の独占は不可能だ。その前提を受けいれ、著作権システムを組替えなければ、「コルシカ」は形を変えて次々と出てくる。それもどんどん巧妙になる。今回の「コルシカ」は既存の出版業界へ寄生する形だ。将来の「コルシカ」は既存の出版業界を飛び越す形になる可能性もある。アマゾンからして、コルシカと同様のことを考えていないはずはない。
そう、ぼくは既存の出版業界を応援する立場だ。このままずるずると崩壊してほしくはない。そのためにも、著作権システムの組み換えに率先して踏みだしてほしい。それはすなわち、既得権益の一部放棄を意味するだろう。しかしデジタル技術の出現と普及は、印刷術の出現と普及に少くとも匹敵する、ひょっとするとそれ以上の巨大な変化であることは、もう明らかではないか。(ゆ)
エニグモ=コルシカはどうもぼくには確信犯に見える。それも販売そのものが目的なのではなく、議論を巻きおこすことが第一目的であって、最終的には現在の著作権システムに穴を穿けることをめざしているのではないか。そうみると、こうした記事を書くこと自体、その意図に乗ってしまっているわけでもあるのだが、ここはそれでもかまうまい。現行の著作権システムが錆びついていることは、それによって守られていると思いこみたい人びとにとっても明らかだろうからだ。
もっとも、エニグモ=コルシカの意図は明確に「著作権システムに穴を穿けてやる」と言い切れるものでもないだろう。結果的に穿いてもやむをえない、穿いたらしめたもの、ぐらいではないか。コルシカ・サイトはいわば観測気球であるわけだ。他の事業を見ても、エニグモをやっている人たちが、著作権法をよく知らないでコルシカを仕掛けたとはとても思えない。むしろニーズの存在を感知し、それを満たすための方策を考えたようにみえる。出版業界についてもよく調べていて、紙にすがりついているだけでは雑誌に未来は無いことも見通している。おそらくエニグモとしてはコルシカの次の段階に商売のネタを見ているのだろう。それが何かは知らないが。
そこで問題はやはり出版業界に返ってくる。なぜコルシカのようなサーヴィスを、出版社自身がこれまでできなかったか。
答は予想できる。著作権システムが壁になっているからだ。
そう、出版社自身を守るはずの著作権システムが、環境の変化にあって硬直化してしまい、今度は出版社自身を縛っている。
今や「コンテンツ」つまり情報や知識や知恵を材料として個人あるいは集団が作った「作物」はデジタル化されなければ、利用されない。この趨勢は加速こそすれ、逆流することはない。
そして現行の著作権システムは「著作物」のデジタル化を基本のところで想定していない。現在の処理のやり方はデジタル化された、あるいは最初からデジタルで作られた「著作物」を、暫定的にあるいはヴァーチャルにアナログ化して処理している。
現行の著作権の概念は紙の上に印刷された作物を対象にしている。印刷術が開発されることで、著作権が生まれる。著作権とは著作物で食べてゆくための装置だ。筆写の時代には、著作をしてもそれで食べられるわけではない。印刷によって筆写とは次元を異にして複製が容易になったために、著作物で食べられる可能性が生まれた。しかし保証はされない。著作権が確立されていない時代、地域では出版社だけが潤う現象もあった(例えばロバート・バーンズ)。「著者」が著作物で食べることを確実にするために編みだされたのが著作権だ。これは結局、著者と出版社が共存共栄できるために広く採用された。
著作権は複製を前提にしている。複製できないものに著作権は設定されない。著作権とは事実上、複製する権利だ。デジタルの問題は複製を誰もが簡単にローコストでできてしまうことから生まれている。アナログを複製するにはコストと手間がかかる。本というパッケージを買うのは、一冊まるごとコピーして製本したり、筆写するよりも、買う方が手間もかからず、安くすむからだ。
したがってアナログは複製をコントロールすることが可能だ。そして現行の著作権は複製をコントロールできることが前提になっている。
そのシステムが、誰もが複製できてしまう事態に直面したときとったのは、「守り」の姿勢だった。自らは変わらずに、そのシステムを押しつけることだった。
一度そうしてしまうと、すべての変更ができなくなる。一カ所でも変えると、ドミノ現象が起きると感じられる。堤防の蟻の一穴のたとえだ。それまでは潤滑油として黙認していた「洩れ」の部分までふさごうとする。あるジャズ喫茶の老舗に突然数十年分の莫大な著作権料を請求したというのは、この例だ。
だから今の著作権をめぐる議論は、利用者側が著作権の「柔軟な」行使を求めると、権利者団体側はより厳密な適用を求める、ということになる。その結果、権利者自身がデジタル化しようとしてもできない自縄自縛の事態が生じる。その間に、アナログの次元だけで展開されている著作物による収入はどんどんと減り、それが著作物の質の低下を呼び、さらに収入の減少を加速させる。
一方で既存の著作権システムを守ろうとする姿勢は過激化し、著作権を守ることは一時の「テロとの戦い」と同様な錦の御旗となる。既存の著作権システムを守るためなら、どんなことでも許されると考える。端的な例が、フランスで法制化された、「違法ダウンロード常習者をインターネットから切断する」行為だ。こんにちの社会でインターネットはもはやライフラインや公共交通機関と同様のインフラだ。それからの切断は人の生存にかかわる。ここでは基本的人権より著作権保護が上に置かれている。そこでヨーロッパを中心に「海賊党」が現れることになる。著作権はその本来の位置にもどし、基本的人権の方を優先すべきだという主張だ。
「違法ダウンロード常習者」は犯罪者なのだからそれを社会から隔離するのは当然だというのは本末転倒だ。なぜなら、そのダウンロードが違法かどうか決めるのは社会ではない、権利者だからだ。権利者が、ダウンロードしていいよ、とひとこと言えばそのダウンロードは「合法」になる。すると、一権利者がある人間の生殺与奪の権利を握るわけだ。これは法律の存立基盤そのものに反するはずだ。
とはいえ、あるダウンロードが違法か合法か、権利者が決められる事態は、やはりデジタルだからこそだ。アナログではこういう状況は生まれない。これはつまり、デジタル化が進むことで、複製を独占するための装置という著作権概念の実体が顕わになったということだろう。デジタルの時代に複製の独占は不可能だ。その前提を受けいれ、著作権システムを組替えなければ、「コルシカ」は形を変えて次々と出てくる。それもどんどん巧妙になる。今回の「コルシカ」は既存の出版業界へ寄生する形だ。将来の「コルシカ」は既存の出版業界を飛び越す形になる可能性もある。アマゾンからして、コルシカと同様のことを考えていないはずはない。
そう、ぼくは既存の出版業界を応援する立場だ。このままずるずると崩壊してほしくはない。そのためにも、著作権システムの組み換えに率先して踏みだしてほしい。それはすなわち、既得権益の一部放棄を意味するだろう。しかしデジタル技術の出現と普及は、印刷術の出現と普及に少くとも匹敵する、ひょっとするとそれ以上の巨大な変化であることは、もう明らかではないか。(ゆ)
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