というタイトルで、東京医科歯科大で講義をさせていただきました。一応話を終えての学生の方からいただいたご質問の主旨をとりちがえて、とんちんかんな答えをしてしまったのであらためて、ここでお答えしておきます。その方は以前より YouTube を中心にケルティック・ミュージックやアイリッシュ・ミュージックには親しんでおられるそうです。気に入っているのは一風変わった、あまり他にはない音楽だからということで、それは例えば、かつてヨーロッパ諸国が植民地の風物や文化を奇抜としておもしろがったのと同じではないか。ポスト構造主義社会の音楽、とは必ずしも言えないのではないか。というご質問でした。
これはいわゆるオリエンタリズムとしてのアプローチで、ぼくはそちらの方に話を持っていってしまったのでした。
どうもこの頃、人前で話すときにアガってしまって、話がとっちらかってしまうので、今回もぼくの説明がうまくなかったのだと思います。
ポスト構造主義社会とは何かについては内田樹氏の『寝ながら学べる構造主義』の定義を拝借しました。この本の第一章第一・二節をご覧ください。
今日、講義をさせていただいた相手の学生さんたちはおおまかに言って1980年代末から1990年代初頭に生まれた方たちでしょう。ということは、物心ついた時には、ケルティック・ミュージックやアイリッシュ・ミュージックと呼ばれる音楽が、世間一般に知れわたっていたことになります。社会の全員が知っているというわけではなく、ここでも内田氏の「常識」の定義を借りれば、社会の大多数の成員が知らないことを認めたがらない情報、です。
もう少し、具体的に言うとこういうことです。1990年代前半までのわが国では、「ケルティック・ミュージック」あるいは「アイリッシュ・ミュージック」を日常的に聞いていた人間の数はきわめて少数でした。最大に見積って全国で1,000人いたかいなかったか。
当然、ケルティック・ミュージックやアイリッシュ・ミュージックという言葉はまず誰も知りませんでした。初対面の人と話していて、音楽が好きというとたいていどんな音楽が好きなのかという話になります。そこで、ケルティック・ミュージックやアイリッシュ・ミュージックと答えても、相手は怪訝な顔をするだけでした。何ですか、それは？と訊かれるわけです。そこで、アイルランドやスコットランドの伝統音楽で、と説明しても、相手はますますわけがわからない。まったく想像がつかないのです。結局、こいつは自分が知らない音楽を聞いている変人だという結論を出される。
被害妄想と言われるかもしれませんが、こういう反応を20年も続けられると、被害妄想くらい持つようになるのもムリはないでしょう。
この状態がある日を境に一変します。今度は誰もがケルティック・ミュージックやアイリッシュ・ミュージックを知っているふりをしたがるようになるのです。以前と同じ質問をされて、おずおずと実はアイルランドの音楽で……などと言いかけると、ああ、ああいうものがお好きなのですか、という答えが返ってくるようになったのでした。
これにはとまどいました。いったい何が起きたのか、さっぱりわかりません。変化した反応に喜んでしまい、いやアルタンがねとか、ダーヴィッシュの新譜が、とかうっかりしゃべりだすと、とたんに相手の顔はまた以前のものにもどってしまったりします。
つまりその内実はともかくも、「アイリッシュ・ミュージック」あるいは「ケルティック・ミュージック」ということばはどうやら世間一般に知られるようになっているらしい。
この変化はぼくら、つまり1990年代以前からアイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックに日常的に親しんでいた人間たちにとっては驚天動地のものでした。多くて列島総人口の0.00008％にしか通じなかったことばが、気がついてみると誰でも知っていることばになっていたのです。
ぼくが「ポスト構造主義社会の音楽」と仮に名付けてみたのは、この変化をとらえてのことです。個人の嗜好の変化ではなく、社会全体、「世間」の認識の変化の対象となった音楽です。それまで、ごく限られた少数の「趣味」の対象だったもの。元々がローカルな価値観と感性に基き、ローカルな聴衆しか想定していなかった音楽。それが、価値観も感性もまったく異なる人間に、それも広く一般的に肯定的に受け容れられる。
こういう現象が起きるのは今の、我々の住んでいるものがポスト構造主義社会だからではないか。
当然、アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックだけが「ポスト構造主義社会の音楽」というわけではありません。ただし、ぼくのみるところ、アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックに関する世間の態度の変化は、音楽産業のコミットメント無しに起きています。つまり、これを売ってやろう、売れるものにしてやろうという積極的な行動が起こされ、それが変化のきっかけになったのではない。これは他のジャンルではみられません。資本の力が関与しなかった点で、ポスト構造主義社会であるからこその変化がよりはっきり現れている、とぼくはみます。
質問された方が指摘されたように、こんにち、YouTube などを通じてアイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックに親しんでいる人の数はますます増えこそすれ、減ってはいないでしょう。演奏する人の数も、統計的な数字こそありませんが、着実に増えつづけている感触があります。
このこと自体も、ポスト構造主義社会であることから起きている、とぼくにはみえるのです。個人ひとりひとりは、自分の嗜好でアイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックに出会い、これを好むようになっている、と感じるかもしれません。が、構造主義によれば、「個人の嗜好」なるものは、実はその個人が生まれ育った社会が個人に「押し付けて」いるわけです。個人がアイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックを「発見」し、その新奇さに魅力を感じ、継続的に接するようになるのは、個人を生んだ社会がそれを求めているからです。
そういう視点から振り返ると、1990年以前からアイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックに親しんでいたぼくらは、この社会、世間が、将来の必要を見越して放っていた触手、ともいえるのでしょう。
では、ぼくらに「オリエンタリズム」がなかったか、といえば、ゼロとは言いきれません。けれども、少くともぼくの意識のなかでは、上からの視線はなかった。もしあったとしても、「ミイラ取りがミイラになる」ほうが大きかった。音楽にひたりこむうちに、感性やものの見方がアイルランド寄りになってきたのです。アイリッシュ・ミュージックの感性、在り方が普通になり、判断基準になってきたのです。
たとえばケルティック・ミュージックのインストゥルメンタル＝ダンス・チューンに特徴的な短いメロディの反復。これが「特徴」であることをふだんはまったく意識していません。場合によってはこれが苦痛であることに、最近までまったく思いいたりませんでした。
オリエンタリズムについて深く勉強したわけではありませんが、もしぼくらの接し方にオリエンタリズムの要素があったとすれば、それは決して一方通行ではなく、双方向の作用でした。これがぼくらのケースに特徴的な現象であるならば、それもまたポスト構造主義社会ならではのものと言えそうです。
アイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックへの世間の態度変化に、どのような要素が働いていたか、や、この国の音楽産業がなぜアイリッシュ・ミュージック、ケルティック・ミュージックにコミットしなかったか、などについてはぼくなりに考えていることもありますが、それはまた別の機会に。（ゆ）
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