
順番は沖縄の方が先だ。きっかけはチャンプルーズ。〈ハイサイおじさん〉であり〈東崎(あがりざち)〉である。
奄美はずっと後になって、きっかけは里国隆だった。これはある意味で不幸な出会いだったかもしれない。里のうたは奄美の伝統からは独立した、独自のうただったからだ。だから奄美のシマ唄にはもう一度出逢わねばならなかった。一方で、里のうたの強烈な個性に、奄美の独自性に眼を開かれたのは確かだ。奄美は本土とはもちろん、沖縄とも違うという刷り込みが、里から入ることによってなされたのだ。
さらに後になって、奄美と沖縄のシマ唄の違いが音階にあると教えられる。奄美までは本土音階。沖縄は琉球音階。今回、初めて教えられたのは、音階の境界が行政区画の境界である与論島と沖縄本島の間ではなく、沖永良部島と徳之島の間にあること。言われると、確かに後半のうたくらべでは沖永良部のうたは琉球音階で、聞きなれた奄美シマ唄とは違う。
そういえば沖永良部島のうたはそれとして聞いたことはなかったので、会場で売られていたCDを購入。おそらくは同じことは他の島にも言えるので、島によってそれぞれに個性的なうた、レパートリィがあるはずだ。そういうものをきちんと聞きたい。先日聞いた、与那国の唄者を思いだした。
とまれ、奄美と沖縄は違うと思っていた本土の人間にとっては、この両者をつなぐという発想には脳天逆落としをくらったような衝撃があった。言われてみれば、なぜ違うのか。その淵源は400年前の薩摩の侵攻、植民地化にある、と言われて、なるほどと思う一方で、それがどうしてこれだけの違いになるのかはまだ分明ではない。その点はこれから、パネラーの一人でもあった上里隆史氏の著作などで追いかけよう。
薩摩藩の琉球諸島植民地化については、また別個の勉強が必要だ。シマ唄にはこの植民地支配をネタにしたうたもたくさんあり、アイルランドの例を援用すれば想像はある程度つく。幕末、倒幕を経済的に支えた資源がここから出ていたであろうこと、明治期になってたとえば西郷兄弟が植民地政策のいわば尖兵になるのもここですでに経験があったからだろう、と推測もつく。が、その内実はもっと勉強しなければならない。
このイベントは発案者・企画者である喜山壮一氏が与論島出身であることから出発している。奄美と沖縄の間にあって、双方をつなぐ位置にある島。政治的には奄美に属する一方で、文化的には沖縄とつながる。与論島のうたをまだ聞いたことがないが、それは琉球音階のはずだ。喜山氏はりんけんバンドを初めて聞いた時、そのことばが半分くらいはわかり、そしてあのビートに血湧き肉躍ったという。毎日沖縄本島北部のヤンバルを眺めて育った喜山氏にしてみれば、そこと自分の生まれ育った島の間に境界があるほうがおかしく感じられたのだろう。
ちなみにこの「ヤンバル」を、パネラーの一人、奄美大島出身の圓山和昭氏が知らず、上里氏に説明を求めたのには正直のけぞった。沖縄とは縁のないヤマトンチュであるぼくが聞きかじっていることばを奄美大島出身者が知らなかったのは、奄美と沖縄の間の遥かな距離をはからずも顕わにした瞬間だった。
前半のシンポジウムは、奄美出身者、沖縄出身者二人ずつの四人が、それぞれの地元と相手への想いを語りながら、つなぐもの、手立てを考える形で進行した。四人は奄美、沖縄出身とはいえ、それぞれに生い立ちも事情も異なる。そこから、奄美、沖縄のとらえ方にも、微妙な違いが出てくる。
その違いも興味深かったのだが、東京生まれ東京育ちの人間にとって、それぞれがよって立つ「シマ」を明確に背負っていることがまず印象的だった。本人たちにとって、それは必ずしもプラスの作用だけを持つ要素ではないのだろうが、そもそもそんな「シマ」などはじめから無い人間にはまことにまぶしい。この人たちにはなにはともあれ、語るべき、考えるべき「シマ」がある。たとえば「港区と渋谷区をつなごう」などという発想は、どうひっくりかえってもありえない。そもそもこの二つは独立してもいないのだから。
そうなのだ。つなぐにはまず、それぞれが独立していなければならない。奄美とは何か。沖縄とは何か。いやむしろもっと細かく、与論島とは何か、宮古とは何か、沖縄本島、奄美大島それぞれの集落が何か。
シンポジウムの一応の「結論」がそういうことになったのは、むしろ当然と、納得した。
前半が共通要素を探るというよりも、たがいの違いがあぶりだされていたのは、ことばというメディアの性格かもしれない。それとは対照的に、うたを媒介にした後半は、その違ううたをならべ、比較することで事実上「つながっている」世界が現出していた。
同じうたの各地のヴァージョン、または同じ系統のうたを聞きくらべるというのは、ヨーロッパの伝統音楽でも個人的に時々やるので、単独で聞いているだけでは見えない部分が見えてきて楽しい。今回はこれをライヴで聞かせてくれるので、まことに贅沢な体験だった。
4曲めの〈畦越い(あぶしぐい)〉(ハイヤセンスル)系ではカチャーシーが始まって踊りだす人もいて、最後の〈六調〉では、会場全体、出演者も観客も一体になって踊りくるっていた。八重山にも〈六調〉があるのは、今回初めて知ったことのひとつではある。
イベントの模様は数台のカメラで記録されていたし、いずれシンポジウムも含めて、どこかに記録が発表されることを期待しよう。
喜山氏も冒頭に言っていたように、奄美と沖縄をつなぐのは、喜山氏にとって切実な問題意識から出ている。正直なところ、ヤマトンチュであるぼくには、その切実感は遠い。しかし、両者が底ではつながっているという認識は、両者それぞれの音楽を聞くときに、また新鮮な体験をもたらしてくれる。この日の後半の体験はまさにそれだった。メウロコというよりも、まったく新しい奄美音楽、沖縄音楽、そして両者が統合された琉球音楽が、あそこには現出していた。
同時にそのそれぞれが独立していること、その中でもまた島=シマによって、独自のうたがあり、踊りがあることも浮かびあがってくる。奄美のシマ唄、沖縄音楽という漠然としたとらえかたではなく、与論島のうた、宮古のうた、久米島のうた、ヤンバルのうた、奄美大島竜郷町の集落・円(圓山氏の出身地)のうた、が浮かびあがってくるはずだ。
むしろ、奄美音楽、沖縄音楽、あるいは琉球音楽は、それら個々の音楽の集合体であるのだろう。
かくて、この最も身近な「ワールド・ミュージック」、薄くはあってもどこかで確実に血がつながっていながら異質の音楽との新たなつきあい方まで示されたのだった。
後半のミュージシャンは初めてその音楽を耳にする方がほとんどだった。シーサーズの持田さんは別として、一度でも聞いたことのあるのは加計呂麻島出身の徳原大和氏ぐらい。かれは確か朝崎郁恵さんのライヴでサポートしていた。とはいえ、当然のことながら、皆さんまことに達者。伝統の厚さをあらためて思いしらされる。
異色といえば、持田さんに狩りだされた大熊ワタルさんのうたを聞けたのは予想外の儲けもの。かれがステージでうたったのは初めてか。
願わくはこの試みが今回だけでなく、今後も様々の形で継続されていかれんことを。(ゆ)
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