縞模様のパジャマの少年    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その5。
   
    当世風に訳せば「アイルランド・ゼロ年代の1冊」というところだろうか。「ゼロ年代」というのはどうもすわりが悪いが、他に適当な呼称もないままに使っておく。
   
    著者は1971年ダブリン生まれ。主にヤング・アダルト向けの長篇を、現在までに8冊書いている。5作目のこの本は国際的なベストセラーとなり、映画化もされた。邦訳も出ているので、内容については省く。9歳のドイツ人少年の目を通してホロコーストを語るというのは、手法として冒険だろうと思うが、どうやら著者は危ない橋を渡りきっているようだ。

    小説を読むのに設定がありえないと言うのはルール違反である。小説の「外」の基準をあてはめているからだ。小説はその「内部」の設定で読まれなければならない。これを例えれば、小説は一つひとつが完結した世界であり、専用にカスタマイズされたOS上で走るので、それは他の小説のOSとも、あるいは小説を含む「現実世界」のOSとも違うものだ。

    いかに「現実」をベースにしていようと、そこで語られるものがいかに既知の事実にかぎりなく近かろうと、小説は現実でも事実そのものでもない。あくまでも虚構である。現実のある部分、ある側面、他の方法、手続ではその本来の性質を伝えにくいものを伝えるための仕掛けだ。したがって、小説の設定の蓋然性を当の作品の外の世界の基準で判断するのは、小説の虚構性の否定だ。そこに書かれていることは事実である、現実そのものである、と規定する行為だ。端的に言えば、虚構と現実の混同である。これを逆の方向から見るならば、歴史を題材とした小説に書かれていることはすべて史実であると受け取ることに等しい。つまりは当の読者にとっても、またその周囲にとっても、きわめて危険な行為である。

    この作品について言うなら、ホロコーストという状況自体が、通常なら「ありえない」はずだ。ありえないはずの、しかし実在の事件を語るには、通常の手続ではその衝撃が伝えられないだろう。その衝撃を伝えるための装置がこの設定である。したがって設定を問題とするならば、伝えようとした衝撃が伝わっているかどうかで評価しなければならない。伝わっているならば、リアリティがあるということになる。(ゆ)