Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その34。
シェイマス・ヒーニイがアイルランドの詩の現役代表なら、小説の現役代表はこの人ということになる。ウィリアム・トレヴァー、エドナ・オブライエン、ジェニファ・ジョンストンが長老世代。ヒューゴー・ハミルトン、セバスチャン・バリィ、ロディ・ドイル、 ケイト・トンプソン、カラム・トービーン、パトリック・マッケイブの1950年代世代が中核。その後に、ジョセフ・オコナー、カラム・マッキャン、ジョセフ・オニール、クレア・キーガンの60年代世代が続く。
今回の50選の中でも40年代生まれの作家というのは1940年生のモーヴ・ビンキーと1945年生のこの人ぐらいだ。他の世代に比べると、それだけ作家になるのが厳しい時代に遭遇したということか。そのハードルを乗り越えてきたこの二人が、現在のアイルランドの男女の小説家をそれぞれ代表するというのは、それなりに筋が通っているとも言える。
で、これはそのバンヴィルのブッカー賞受賞作。やはり代表作ということになろう。『海に帰る日』(2007-08) として邦訳も出た。めでたいことではあるが、この人ぐらい、きちんと紹介されてほしい。理由なき殺人を犯人の側から描いて前回ブッカー最終候補になった The Book of Evidence (1989) も訳されてないし、Doctor Copernicus (1976) 『コペルニクス博士』(1992-01)、Kepler (1981)『ケプラーの憂鬱』(1991-10)と三部作をなす The The Newton Letter (1982) も出ていない。そういう中でベンジャミン・ブラック名義の Christine Falls (2006) が『ダブリンで死んだ娘』(2009-04) として出ているのは言祝ぐべきか。しかし、この邦題はひどいね。
ちなみに他の邦訳としては、エッセイ Prague Pictures: Portraits of a City (2003) が『プラハ 都市の肖像』(2006-04) として、小説第2作 Birchwood (1973) が『バーチウッド』(2007-07) として、出ている。
今回、このおさらいをしていても思うが、わが国でアイルランド文学の研究者は少なくないだろうに、現代文学をきちんと追いかけて紹介している人はいないのか。飜訳にいたらないまでも、どういう書き手がいて、どういうものを書いているのか、それは全体の中でどういう位置になるのか、ということを掴めるような紹介だって無意味ではないだろう。単にこちらの探しかたが悪いのか。
これがエンタテインメント系になると、SFやファンタジー、ミステリなどは、それなりに紹介がされていて、その気になれば、概要を掴むことができるのだが、いわゆる純文系とか、児童文学(含むヤングアダルト)とか、少しずれるととたんに五里霧中になる。まさか、わが国のアイルランド文学者はみーんな、ジョイス、ベケット、イエイツばかりやっていて、他の書き手は知りません、というわけでもあるまいに。
英文学の一部として、イングランドやスコットランドといっしょくたにされているのだろうか。だとすれば、もったいない話で、だったら英語で書かれているということで、アフリカやインドの書き手も一緒に扱ったっていいだろう。アイルランドは、アフリカやインドよりも物理的距離はずっと近いとはいえ、イングランドやスコットランドとは明瞭に異なる文化をもっている(いや、スコットランドだって独自の文化だが)。少なくともアメリカがブリテンと違うのと同程度にアイルランドはブリテンとは違う。アメリカ文学が別なら、アイルランド文学だって別だ。
とまれ、詩だったらいざとなれば栩木伸明さんに聞けばよいわけだが、散文の方で栩木さんに相当する人は誰がいるのだろう。(ゆ)
シェイマス・ヒーニイがアイルランドの詩の現役代表なら、小説の現役代表はこの人ということになる。ウィリアム・トレヴァー、エドナ・オブライエン、ジェニファ・ジョンストンが長老世代。ヒューゴー・ハミルトン、セバスチャン・バリィ、ロディ・ドイル、 ケイト・トンプソン、カラム・トービーン、パトリック・マッケイブの1950年代世代が中核。その後に、ジョセフ・オコナー、カラム・マッキャン、ジョセフ・オニール、クレア・キーガンの60年代世代が続く。
今回の50選の中でも40年代生まれの作家というのは1940年生のモーヴ・ビンキーと1945年生のこの人ぐらいだ。他の世代に比べると、それだけ作家になるのが厳しい時代に遭遇したということか。そのハードルを乗り越えてきたこの二人が、現在のアイルランドの男女の小説家をそれぞれ代表するというのは、それなりに筋が通っているとも言える。
で、これはそのバンヴィルのブッカー賞受賞作。やはり代表作ということになろう。『海に帰る日』(2007-08) として邦訳も出た。めでたいことではあるが、この人ぐらい、きちんと紹介されてほしい。理由なき殺人を犯人の側から描いて前回ブッカー最終候補になった The Book of Evidence (1989) も訳されてないし、Doctor Copernicus (1976) 『コペルニクス博士』(1992-01)、Kepler (1981)『ケプラーの憂鬱』(1991-10)と三部作をなす The The Newton Letter (1982) も出ていない。そういう中でベンジャミン・ブラック名義の Christine Falls (2006) が『ダブリンで死んだ娘』(2009-04) として出ているのは言祝ぐべきか。しかし、この邦題はひどいね。
ちなみに他の邦訳としては、エッセイ Prague Pictures: Portraits of a City (2003) が『プラハ 都市の肖像』(2006-04) として、小説第2作 Birchwood (1973) が『バーチウッド』(2007-07) として、出ている。
今回、このおさらいをしていても思うが、わが国でアイルランド文学の研究者は少なくないだろうに、現代文学をきちんと追いかけて紹介している人はいないのか。飜訳にいたらないまでも、どういう書き手がいて、どういうものを書いているのか、それは全体の中でどういう位置になるのか、ということを掴めるような紹介だって無意味ではないだろう。単にこちらの探しかたが悪いのか。
これがエンタテインメント系になると、SFやファンタジー、ミステリなどは、それなりに紹介がされていて、その気になれば、概要を掴むことができるのだが、いわゆる純文系とか、児童文学(含むヤングアダルト)とか、少しずれるととたんに五里霧中になる。まさか、わが国のアイルランド文学者はみーんな、ジョイス、ベケット、イエイツばかりやっていて、他の書き手は知りません、というわけでもあるまいに。
英文学の一部として、イングランドやスコットランドといっしょくたにされているのだろうか。だとすれば、もったいない話で、だったら英語で書かれているということで、アフリカやインドの書き手も一緒に扱ったっていいだろう。アイルランドは、アフリカやインドよりも物理的距離はずっと近いとはいえ、イングランドやスコットランドとは明瞭に異なる文化をもっている(いや、スコットランドだって独自の文化だが)。少なくともアメリカがブリテンと違うのと同程度にアイルランドはブリテンとは違う。アメリカ文学が別なら、アイルランド文学だって別だ。
とまれ、詩だったらいざとなれば栩木伸明さんに聞けばよいわけだが、散文の方で栩木さんに相当する人は誰がいるのだろう。(ゆ)
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