
この50選発表時点で読んでいた2冊のうちのもう1冊。
この人については、メルマガ本誌本年四月号の(ゆ)の記事でとりあげていますが、読まれていない人もいると思うので、改めて。
ティム・ロビンスンは1935年イングランドのヨークシャ生まれ。ケンブリッジで数学を修めた後、海外で教師をしたり、視覚芸術家として活動したりした後、1972年にゴールウェイ湾のアラン諸島最大の島アランに移住。1984年、その北の対岸コナマーラのラウンドストーンに移住。現在もそこに住んでいます。アイルランドに住みついて活動している点ではケイト・トンプソンと同じ。
アイルランドでは芸術活動に伴う収入には所得税がかからないので、かつてはブリテンから作家やミュージシャンが大挙して移住したこともありました。この二人はそうした人びととは違って、アイルランドの土地と人に惚れこんだ結果、住みつき、アイルランドの魅力を文章にしてくれています。
トンプスンは小説として、ロビンスンはエッセイとして、それぞれにユニークな把握と提示をしています。
どちらかというとロビンスンの方は、外国人であることを活用し、土着の視点では見えないところを見、聞こえないものを聞き、感じられないことを感じている、といえるでしょう。
また、数学者としての素養と訓練は、ロビンスンの観察力、把握力を磨いていますし、文章も明晰で喚起力が強いもので、こういう性格の文章はアイルランド土着の書き手にはあまり見られません。
1977年にバレンの、1980年にアラン島の、1992年にコナマーラの地図を自身の出版社から刊行します。普通の地図には載っていない細かい地形、地名が丹念に集められて掲載された独自の地図です。どれもすべて実際に自分の足で歩いて確認した情報です。
1986年、最初の著書 Stones of Aran: Pilgrimage を出版。好評をもって迎えられます。これは現在、現代の古典を収録している New York Review of Books の叢書に第二部の Labyrinth (1995) とともに収められています。
以後、現在までに10冊の著書があります。エッセイ集、小説集、視覚芸術家としての作品の写真集、写真家とのコラボレーションなど様々ですが、主著は上記『アランの石』二部作と『コナマーラ』三部作。
この『コナマーラ:風に耳をすませて』は9冊目。最新作は Connemara: The Last Pool of Darkness (2008)。『コナマーラ』第三部は前2冊の間隔からすると今年刊行のはずですが、今のところまだ予告などはありません。
『アランの石』で確立したロビンスンのスタイルは、ある限られた土地を丹念に歩き、その地勢、そこに生きるいきもの、歴史を丹念に観察、調査、検証を行い、それらをすべて消化した上で、あらためてひとつのヴィジョンとして文章に定着する、というものです。これは地図を作成する過程で、アラン島をくまなく、それこそその足が踏んでいない地面は無いくらいにくまなく歩きまわるうちに形成されたスタイルでしょう。
むろん一人の人間がすべてを知るわけにはいかないので、ロビンスンの関心は主に、鉱物と植物、それに歴史と人間関係に向かいます。その関心と観察の細かいこと。細部にこそ神は宿りたもう。肉眼の極限にまで降りてゆくような観察で明らかにされる細部の描写から、思索は深まる同時に広がって、今度は全宇宙を包含するほどになる。
『アランの石:巡礼』では、アラン島を東端の砂浜を出発して時計まわりに海岸線を一周します。『迷宮』では、同じ東端から内部を歩きます。
『コナマーラ:風に耳をすませて』では、南西部のラウンドストーンからはじめて、その北にラウンドストーン・ボグから内陸部を歩き、「九つのピン」と呼ばれるコナマーラの背骨を成す山に登ります。『最後の闇の水溜り』では北西部、メイヨー州との州境から海岸を南下します。第三部では、コナマーラの南部、アイルランド語伝統の濃いコナマーラでもその中心であり、公式のゲールタハトでもある南部海岸地帯を歩く予定。
というわけで、『アランの石』と『コナマーラ』は、身辺雑記でもあり、紀行でもあり、博物誌でもあり、歴史でもあり、説話集でもあり、哲学書でもあり、つまり言葉の最も本質的な意味で文学であります。アイルランドのごく一部の狭い狭い空間とそこに流れた時間に竿さして、アイルランドの全体像を描きだす。さらには人間世界の、そして人間が置かれた世界の全体像を描きだす。細部を重ねることによって。
万人向けの本ではありません。しかし、その気になれば、誰でも入ることができる。一応リニアな作りではありますが、どこから読んでもよい。これだけ読んでもよいし、著者の作った地図とともに読めばまた格別の味わいがあるでしょうし、地元の写真、動画などとを伴にすれば、さらに面白い。もちろん、実際に自分もそこを歩きながら読めれば最高ではあります。
翻訳を業とする者として、アイルランドを心の故郷とする者として、この『コナマーラ』と『アランの石』はぜひ自分の手で日本語に移してみたい作品であります。が、はたして自分の手に負えるものかどうか、それすらあやしい。と思いまどいつつ、あちらこちらと、また著者の他の著作を読み返す日々であります。なお、ロビンスンの著作はまだ邦訳はありません。(ゆ)
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