The Master    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その40。
   
    この50選中 Brooklyn とともに2冊めのトービーン。Brooklyn の前作にあたる。

    アイルランドにとって歴史は「文化資産」のひとつだ。少し古い国ではどこでもそうと言えるが、アイルランドではほとんど「天然資源」の趣すらある。ということは、霊感の源泉ともなれば、逃れようとて逃れられない重荷ともなる。作家という職業はその歴史に対して敏感にならざるをえない。あるいは、アイルランドにあっては、歴史に敏感でなければ作家にはなれない。したがって、様々な方法でこれと折り合いをつけるよう努力する。その苦闘の跡を、あるいは手練手管の妙を眺めるのも読者としての楽しみのひとつであったりもする。

    カラム・トービーンは歴史に対して真正面から誠実に相対している作家の一人だ。その誠実さ、歴史を真向から受け止めるその角度の精度において、おそらく現在右に出る者はいないかもしれない。

    例えば気鋭の史家ディアマド・フェリッターと組んだ The Irish Famine: A Documentary (2001)。元は別々に刊行されたものを1冊にまとめたものの由で、第一部がトービーンのエッセイ、第二部がフェリッターが選んだ当時の各種文献からの抜粋を集めたもの。これに引用文献リスト、さらに勉強したい人のための推薦文献リスト、索引が付く。
   
    ここでのトービーンの主張ないし提案のひとつは、歴史に想像力を働かせることだ。実証主義は土台だが、土台だけでは生きた歴史にならない。〈大飢饉〉が実際にどのようなものであったのか、当時の人びとがどのような状況に置かれ、何を感じ、何を考え、どうふるまったか、を明らかにしようとする時、「史実」が記録された史料、たとえば救貧法関連の記録、私信、閣議記録、当時の報道をいくら読みこんでも、こぼれ落ちる部分がある。そして、史実をすくいあげようとする歴史家の指をすり抜けてゆくものにこそ、歴史の真実が含まれている。
   
    トービーンが小説で表現しようとするのは、この歴史の断片、通常史実とは呼ばれないような、 歴史の諸相に生命を吹きこみ、たとえ事実ではなくとも真実ではあるものなのだろう。
   
    とはいうものの、トービーンの書く小説を歴史小説と呼ぶのもためらわれる。かれは何か、体系的な「史観」を提供しているわけではない。もっとずっと広い視野で歴史を掴みながら、デターユを掘り起こす。おそらくトービーンの小説に最も近いものは島崎藤村の『夜明け前』ではないか。

    この The Master の主人公はアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズだ。その晩年、ロンドンでの演劇上演の失敗から南イングランドのライに隠遁し、そこで生涯の傑作となる小説を次々に生みだした時期の作家の内面を描く。人生の危機にあって、作家としての理想を追求して世間との接触をほとんど断ち、作家としての存在もほとんど黒子と化してゆく。
   
    と書いてみると、ピンチョンやサリンジャーを連想するが、あるいはかれらは先輩ジェイムズの顰みにならったのか。
   
    創作という行為と作家が住む日常の、現実の世界との関係が主なモチーフの一つとなろうか。ここではジェイムズが「異邦人」であることが鍵かもしれない。同じ英国のアメリカ人T・S・エリオットとは違ったベクトルをジェイムズはめざしていたようだ。エリオットは心身ともに英国人となるべく、世間と積極的に交わり、大御所としての存在をめざす。ジェイムズはあくまでもアメリカ人のまま、世間との接触を断ち、孤高のクリエイターへと沈潜する。
   
    というようなことが書いてあるのかどうか。20世紀世界文学の中でのジェイムズの位置の確認も兼ねるか。篠田一士は『二十世紀の十大小説』でフォークナーとドス・パソスをとりあげて、ジェイムズは落とした。ジェイムズは20世紀ではなく、19世紀の完成ということか。プルーストやジョイスと並べるのではなく、フロベールやバルザック、ディケンズ、あるいはトルストイ、ドストエフスキーと並べるべきなのだろう。一方でジェイムズには20世紀の先取りもあるように思えてしかたがない。少なくとももはや19世紀ではやっていけないことを感じとり、「次」を模索していた、というと意識的にやっているようだが、むしろクリエイターとしての本能で従来のやり方ではできないものを掴もうとしていたように思える。同様のことはコンラッドにも感じる。
   
    ヨーロッパは19世紀から無理矢理引き剥がされた。本音を言えばまだまだ19世紀でいたかっただろうに。なんと言っても19世紀はヨーロッパの世紀なのだから。もっとも引き剥がした張本人もヨーロッパ自身ではある。つまりは19世紀から20世紀への移行はあのような極限まで暴力的なものにならざるをえなかったのだろう。
   
    その引き剥がしのプロセスを創作過程として体験したのが、ジェイムズであり、コンラッドではなかったか。フォークナー、ドス・パソス、ジョイスといった書き手はすでに転換を終えた世界に棲息している。極限の暴力で「白紙」になった世界に、新たな文字を刻もうとしている。ジェイムズとコンラッドは、19世紀小説にケリをつけ、20世紀文学への地均し、というよりマッピングをする作業を引き受けた。そうと自覚していたかどうかは別として。
   
    アイルランドにとって19世紀から20世紀への移行は、大掴みすれば、従属から独立への移行だった。独立というより、そんなに不満ならば、あとは勝手にやってろ、もう面倒はみないとほうり出された。ほうり出されて、必死になってもがいた苦闘の軌跡がアイルランドの20世紀だ。20世紀も末になって、その苦闘は思いもかけぬ形で報いられるわけだが、ここからふりかえった時、19世紀はどう見えるか。あるいは19世紀から20世紀への移行はどう見えるか。おそらくは今ようやく、アイルランドは19世紀と20世紀を冷静にふりかえることができるようになったのだろう。
   
    〈大飢饉〉についての上記の本もそうがだ、トービーンはそのふりかえりの作業を自分なりにやっているとみえる。この作品もヘンリー・ジェイムズの苦闘を通じて、アイルランドの苦闘を描きだそうとしているのか。(ゆ)