Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その45。
1972年ダブリン生。現在ユニヴァーシティ・カレッジ・ダブリンのアイルランド史教授。これまでに9冊の著書がある他、テレビにも頻繁に出演。
本書は8冊めの著書で、この後に来月、最新作 Occasions of Sin: Sex and Society in Modern Ireland が控えている。
この50冊の中では唯一の学術書といってよい。歴史ノンフィクションではもう一冊、Des Ekin の The Stolen Village があるが、あちらはジャーナリストによる。
フェリッターの専門はアイルランド史の中でも20世紀だ。アイルランドに人間が住みついてからこんにちまでの約1万年の間で、歴史として最も面白いのは、17世紀と20世紀、とぼくは思う。どちらもこの島の社会が根柢から変化した時代だ。
大変化ということなら5世紀のキリスト教、9世紀のヴァイキング、12世紀のノルマン人の、それぞれの到来も大きいわけだが、劇的なプロセスと登場人物たちの個性の豊かさ、後世への影響となると、17と20なのだ。
なかでも20世紀のアイルランドは、同時代としての興味も湧くし、直接間接のつながりも太い。生々しい一方で、ひとまず幕を閉じたひとつの時代として、いわば「棺の蓋を覆った」状態で振り返ることができる。同時にまだまだ明らかになっていないことも多い。フェリッターの2004年の著書 The Transformation of Ireland 1900-2000 は、その20世紀アイルランドの政治社会経済文化の総合的通史として画期的な著作だが、その中の「イースター蜂起の決定的な歴史はまだ書かれていない」という一節は、ぼくにはちょっとしたショックだった。
アイルランドは小さな国ではあるけれど、その社会や歴史、そして何よりそこに住む人びとの性格はなかなかに複雑だ。一筋縄ではいかない、というが、ほとんどの人間は2本から3本の筋で生きているようにもみえる。なかには4本やそれ以上の筋を持つ者も少なくない。かれらに比べれば、イングランド人のほうが、人の悪さでは上回っても、性格としてはむしろずっと単純だ。
この本の主題であるエイモン・デ・ヴァレラ(1882-1975)は、アイルランド人のなかでも最も複雑怪奇な人物のひとりだ。ひとことで言えば、20世紀アイルランド最大の政治家、であるが、その業績の評価も毀誉褒貶が激しい。上記通史を読むかぎり、フェリッターの姿勢は結論を急がず、クールに対象に迫る。おそらくこの本も、これまでになかったような新鮮な捉え方、評価軸を提示して、単純にプロとかコンとかではない、むしろ読者自身にこの人物について、ひいては20世紀アイルランド史について、考えさせる刺激的論考を展開しているはずだ。
デ・ヴァレラが世に出る初めは、他ならぬイースター蜂起に際して、叛乱軍が市内各地を占拠したそのうちの一つの指揮官としてだ。そして、首謀者と現場指揮官のうちで処刑を免れた唯一の人物でもある。英国が処刑をためらったのは、デ・ヴァレラがニューヨーク生まれで、アメリカ市民権を持っていたからといわれる。
母親はリマリックからの移民だが、父親はキューバからの移民だった。生まれた時の名はジョージ・デ・ヴァレロといった。後に母親はかれの名をエドワードとすることを申請し、認められた。エイモンはアイルランド語名だが、これに相当する英語名は本来はエドマンドが正しい。なお、de Valera と de を小文字にするのはスペイン語の表記法だ。以上、ウィキペディア英語版による。
イースター蜂起のいわば唯一の生き残りとして、独立戦争の中でトップへとのし上がり、休戦協定を英国と結ぶ代表となるものの、独立を決めた英愛条約締結交渉への参加は拒否する。アーサー・グリフィスとマイケル・コリンズを中心とする交渉団が、南部26州の英連邦内の自治国として独立する条約を持って帰るとこれの批准に反対し、内戦を引き起こす。
内戦で破れると武力闘争路線を捨ててフィアンナ・フォールを創設し、こんにちまで続くアイルランド政治のひな型を作る。そして共和主義本流としての地位を確立して長期政権を担い、20世紀前半のアイルランドの姿を築く。
第二次世界大戦を利用して、英連邦からの離脱、アイルランド農民が英国政府に負っていた負債の「くりあげ償還」を実現し、ゲールの神話とカトリック信仰を基本イデオロギーとした共和国憲法を制定する。この1937年憲法は、いくつか重要な修正もされているものの、基本的には現行憲法である。そこから生みだされた共和国の枠組みはその後長くこの国のあり方と人びとの国に抱くイメージを規定しつづける。
一方、かれが掲げた理想国家はついに実現されることはなく、文化の発展や社会の改善に向けた政策はことごとく意に反した結果しか生まない。アイルランド共和国がその住民の大多数にとって住みやすい国へと脱皮するには、デ・ヴァレラの政策を経済面で百八十度転回したショーン・レマスの登場を待たねばならない。レマスはデ・ヴァレラの子飼いであり、その経済政策の設計者であり、政権移譲の際も他に対抗馬がいなかったほどだった。結局デ・ヴァレラは一番弟子におのれの業績を全否定されることになる。
もしアイルランド共和国に「父」がいるとすれば、それはエイモン・デ・ヴァレラだった。あるいはこのことはまだ過去形になっていないのかもしれない。
著者はこの本で、デ・ヴァレラのいわば「厳父」としての世俗的なイメージが、レマス時代に作られたもので、当人の実体とは離れていると主張しているらしい。とすれば、そのイメージは誰が何のために作ったのか、が当然問題となる。
この「アイルランド・ゼロ年代の1冊」受賞作はネットでの投票で決められたわけだが、投票締切1週間ほど前に公表されたその途中経過では、トップ10の中に本書が入っていた。他は人気や評価の高い小説家の作品ばかりの中に、学術書である本書が入っていたのは印象的だった。エイモン・デ・ヴァレラという人には、重要な政治家というにとどまらない歴史的人物として幅広い層からの関心を集める魅力があるのだろう。わが国の近代史では、多少とも似た人は見当たらない。(ゆ)
1972年ダブリン生。現在ユニヴァーシティ・カレッジ・ダブリンのアイルランド史教授。これまでに9冊の著書がある他、テレビにも頻繁に出演。
本書は8冊めの著書で、この後に来月、最新作 Occasions of Sin: Sex and Society in Modern Ireland が控えている。
この50冊の中では唯一の学術書といってよい。歴史ノンフィクションではもう一冊、Des Ekin の The Stolen Village があるが、あちらはジャーナリストによる。
フェリッターの専門はアイルランド史の中でも20世紀だ。アイルランドに人間が住みついてからこんにちまでの約1万年の間で、歴史として最も面白いのは、17世紀と20世紀、とぼくは思う。どちらもこの島の社会が根柢から変化した時代だ。
大変化ということなら5世紀のキリスト教、9世紀のヴァイキング、12世紀のノルマン人の、それぞれの到来も大きいわけだが、劇的なプロセスと登場人物たちの個性の豊かさ、後世への影響となると、17と20なのだ。
なかでも20世紀のアイルランドは、同時代としての興味も湧くし、直接間接のつながりも太い。生々しい一方で、ひとまず幕を閉じたひとつの時代として、いわば「棺の蓋を覆った」状態で振り返ることができる。同時にまだまだ明らかになっていないことも多い。フェリッターの2004年の著書 The Transformation of Ireland 1900-2000 は、その20世紀アイルランドの政治社会経済文化の総合的通史として画期的な著作だが、その中の「イースター蜂起の決定的な歴史はまだ書かれていない」という一節は、ぼくにはちょっとしたショックだった。
アイルランドは小さな国ではあるけれど、その社会や歴史、そして何よりそこに住む人びとの性格はなかなかに複雑だ。一筋縄ではいかない、というが、ほとんどの人間は2本から3本の筋で生きているようにもみえる。なかには4本やそれ以上の筋を持つ者も少なくない。かれらに比べれば、イングランド人のほうが、人の悪さでは上回っても、性格としてはむしろずっと単純だ。
この本の主題であるエイモン・デ・ヴァレラ(1882-1975)は、アイルランド人のなかでも最も複雑怪奇な人物のひとりだ。ひとことで言えば、20世紀アイルランド最大の政治家、であるが、その業績の評価も毀誉褒貶が激しい。上記通史を読むかぎり、フェリッターの姿勢は結論を急がず、クールに対象に迫る。おそらくこの本も、これまでになかったような新鮮な捉え方、評価軸を提示して、単純にプロとかコンとかではない、むしろ読者自身にこの人物について、ひいては20世紀アイルランド史について、考えさせる刺激的論考を展開しているはずだ。
デ・ヴァレラが世に出る初めは、他ならぬイースター蜂起に際して、叛乱軍が市内各地を占拠したそのうちの一つの指揮官としてだ。そして、首謀者と現場指揮官のうちで処刑を免れた唯一の人物でもある。英国が処刑をためらったのは、デ・ヴァレラがニューヨーク生まれで、アメリカ市民権を持っていたからといわれる。
母親はリマリックからの移民だが、父親はキューバからの移民だった。生まれた時の名はジョージ・デ・ヴァレロといった。後に母親はかれの名をエドワードとすることを申請し、認められた。エイモンはアイルランド語名だが、これに相当する英語名は本来はエドマンドが正しい。なお、de Valera と de を小文字にするのはスペイン語の表記法だ。以上、ウィキペディア英語版による。
イースター蜂起のいわば唯一の生き残りとして、独立戦争の中でトップへとのし上がり、休戦協定を英国と結ぶ代表となるものの、独立を決めた英愛条約締結交渉への参加は拒否する。アーサー・グリフィスとマイケル・コリンズを中心とする交渉団が、南部26州の英連邦内の自治国として独立する条約を持って帰るとこれの批准に反対し、内戦を引き起こす。
内戦で破れると武力闘争路線を捨ててフィアンナ・フォールを創設し、こんにちまで続くアイルランド政治のひな型を作る。そして共和主義本流としての地位を確立して長期政権を担い、20世紀前半のアイルランドの姿を築く。
第二次世界大戦を利用して、英連邦からの離脱、アイルランド農民が英国政府に負っていた負債の「くりあげ償還」を実現し、ゲールの神話とカトリック信仰を基本イデオロギーとした共和国憲法を制定する。この1937年憲法は、いくつか重要な修正もされているものの、基本的には現行憲法である。そこから生みだされた共和国の枠組みはその後長くこの国のあり方と人びとの国に抱くイメージを規定しつづける。
一方、かれが掲げた理想国家はついに実現されることはなく、文化の発展や社会の改善に向けた政策はことごとく意に反した結果しか生まない。アイルランド共和国がその住民の大多数にとって住みやすい国へと脱皮するには、デ・ヴァレラの政策を経済面で百八十度転回したショーン・レマスの登場を待たねばならない。レマスはデ・ヴァレラの子飼いであり、その経済政策の設計者であり、政権移譲の際も他に対抗馬がいなかったほどだった。結局デ・ヴァレラは一番弟子におのれの業績を全否定されることになる。
もしアイルランド共和国に「父」がいるとすれば、それはエイモン・デ・ヴァレラだった。あるいはこのことはまだ過去形になっていないのかもしれない。
著者はこの本で、デ・ヴァレラのいわば「厳父」としての世俗的なイメージが、レマス時代に作られたもので、当人の実体とは離れていると主張しているらしい。とすれば、そのイメージは誰が何のために作ったのか、が当然問題となる。
この「アイルランド・ゼロ年代の1冊」受賞作はネットでの投票で決められたわけだが、投票締切1週間ほど前に公表されたその途中経過では、トップ10の中に本書が入っていた。他は人気や評価の高い小説家の作品ばかりの中に、学術書である本書が入っていたのは印象的だった。エイモン・デ・ヴァレラという人には、重要な政治家というにとどまらない歴史的人物として幅広い層からの関心を集める魅力があるのだろう。わが国の近代史では、多少とも似た人は見当たらない。(ゆ)
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