S-Fマガジン 2010年 08月号 [雑誌]    今回再録された5篇を読んでまず思ったのは、浅倉さんの日本語のリズム感の確かさ。すぐれた翻訳者、いや翻訳者にかぎらず、すぐれた日本語の書き手、あるいは言語にかかわらずすぐれた書き手は、文章のリズムが良いが、翻訳者の場合、原文のリズムと自分のリズムの折り合いを、まずつけなければならない。相性というのはここに現れるけれど、浅倉さんは原文のリズムを的確に捉えることと、それを自然な日本語のリズムの中に再現することに秀でていた。誰か特定のリズムというのではない。再録の5人のリズムはそれぞれに違う。そのそれぞれをきちんと掴んでいる。それぞれを日本語の文章のリズムに活かされている。そして、なおかつ、そこに「浅倉節」とも言うべき、独自のリズムが生まれている。
   
    浅倉さん固有のリズムと最も近かったのは、ゼラズニィではないか。こういう技巧的な、一歩間違うと装飾過剰な文章を、その華麗さを保ったまま、嫌味を感じさせずに日本語にうつすのは、ある程度先天的な共感が働かないと難しいと思う。
   
    これに比べると、グラントやロバーツは、文学伝統に則っているので、むしろやりやすいだろう。
   
    ラファティとジェロームになると、どちらかというと浅倉さんがご自分のリズムに引きつけた部分が大きいように感じられる。
   
    その上で、今回、最も感じいったのはグラント「ドローデの方程式」。これはもう完璧としかいいようがない短篇を、完璧としかいいようのない翻訳に仕立ててくださっている。原文で読む気にもならない。たとえ読んだとて、この浅倉訳を読むほどに「理解」できるとも思えない。
   
    この短篇は小説、つまり書き言葉でしか表現できない表現を生みだしている。その点ではメタ・フィクションとも言える。また、これはSF以外の何ものでもない、SF以外では表現できないことを表現している。一見そう見えても、これはファンタジーではない。現実にとって科学とは何か。科学に何ができるかを掘り下げている。それは同時に科学は何をすべきか、科学の使命はどうあるべきか、の問題を扱うことにもなる。つまりこれは科学の現状への痛烈きわまる批判でもあるのだ。
   
    こういう作品をきちんと評価し、紹介する眼と舌を養いたいと思う。
   
    ラファティは雑誌掲載だけで、単行本収録がかなわなかったということで、あらためて読めるのは嬉しい。これはSFの王道のひとつであるユートピアものの変形だが、ル・グィンの「オメラスから歩みさる人びと」に通じる。ユートピアの実現には大いなる犠牲が必要であり、その犠牲は人間性と深く結びついている。人間が人間であるかぎり、ユートピアはついに夢想の中にしか存在しない。ラファティはアイルランド人であるから、これを「老人の知恵」として語る。そして、地球上のすべてのアイルランド人にとって、「アイルランド」はユートピア以外のなにものでもない。
   
    ジェロームは人間のいやらしさをラファティとは反対側から映しだしてみせる。さすが、アイルランド人をいじめつづけたイングランド人だ。たしかにユーモアではあるが、読みようによってはこれほどブラックな、真黒なユーモアもない。それをむしろしっとりと、それほどいやらしくもない話に浅倉さんは仕立てている。ひょっとすると、これを読んで無邪気に笑う読者を、意地悪く見つめている訳者の姿が見えないか。
   
    ロバーツについては、言うべきことは何もない。何度でも言うが、全篇浅倉訳で読みたかった。どこかに原稿が隠されていないものか。
   
    ゼラズニィで何が一番好きか、と訊かれれば、なんのためらいもなく「十二月の鍵」と答える。今回の再録にこれが無いのは不満といえば不満だが、今回の「このあらしの瞬間」もなかなかよくゼラズニィしていて、まずは満足。
   
    邦訳の初出1975年6月といえば、まだSFMをちゃんと読んでいたと思うのだが、これは読んだ記憶がまったく無い。もうSFMを「卒業」した気分だったのか。その前年、森さんが辞められて、隅から隅まで読みつづける気を無くしたことはあったかもしれない。SFファン交流会の二次会でも出ていたが、森さんの後、今岡清氏が出るまで、SFM の編集長は編集者というより管理人になった。というと長島良三氏や倉橋卓氏には失礼かもしれないが、たしか両氏ともミステリ・マガジンと兼任されていたし、福島、森に比べればSFについては「素人」であり、SFM は「漂流」しはじめた、という感覚は当時リアルだったことはまちがいない。
   
    これがぼくだけの感覚ではなかったことは、マイク・アシュリーのSF雑誌の歴史の第3巻 Gateways to Forever 巻末の補遺で非英語圏のSF雑誌をとりあげた際、長島、倉橋両氏を "hard-headed bussinessmen" (420pp.) と評したことにも現れている。ここは柴野さんからの情報をもとに著者が書いているので、この評価は柴野さんのものであっただろう。
   
    同時に、大学に入って、SFM より F&SF や原書に挑戦しはじめたこともあったかもしれない。しかし、当時、読みだした頃の自分が何を原書で読んでいたのかは、さっぱり思いだせない。
   
    とまれ、「十二月の鍵」の代わりに本篇がとられたことに大きな不満がないのは、本篇がいわば「十二月」の前日譚になっているせいもある。あるいは、「十二月」は本篇の語り手の生まれ変わりが、自分なりの黄金時代を、ルネサンスを発見する、あるいは見方によっては強引に引きよせる話だからだ。オリジナルの初出をみると、本篇が F&SF 1966年6月、「十二月」が New Worlds 1966年8月。おそらくはたてつづけに書かれたのだろう。
   
    読みあわせれば、この2篇の相似は明らかで、「キザ」(中村融氏)とまで言われる叙述のスタイルもそっくり。とはいえ、「十二月」と本篇は同じものの表裏で、それぞれに力点を置く位置も置かれ方も違うから、どちらもそれぞれに楽しめる。ちなみに単行本としてはどちらも『伝道の書に捧げる薔薇』収録。
   
    ついでに言えば、「十二月」に次いで好きな作品は「フロストとベータ」と「復讐の女神」。前者は New Worlds 1966/03、後者は Amazing 1965/06。どちらも浅倉さんの訳で『キャメロット最後の守護者』収録。ちゃんと調べたわけではないが、1965年から66年にかけてはゼラズニィの「大当りの年」ではないか。というより、この4篇が生まれただけで十分「大当り」だし、この4篇があれば、長篇も含めて他は何も要らないと言ってもいい。
   
    あるいはむしろ、ほぼ半世紀(!)経って、今、この頃の1960年代半ばのゼラズニィを改めて読んでみるのは面白いかもしれない。ちょうど NESFA が短篇全集を出したことでもある。まさに彗星のように、いやむしろ超新星のようにデビューして、60年代に混迷を極めて、気息奄奄となっていたアメリカSFに、颯爽と進むべき道を示した、あの熱さとかっこよさは今もなお新鮮ではないか、と、本篇を読んで思う。エリスンやディッシュやディレーニーやが変身するのも、あるいはウィルヘルム、ティプトリー、ラスやらが現れるのも、さらには「レイバー・デー・グループ」やサイバーパンクの出現も、このゼラズニィあってこそではなかったか。
   
    それにしても、当時30前の著者がこれを書きえたのは、作家の創作活動の妙とはいえ、驚異の念に打たれざるをえない。本篇の語り手の孤独、次の角を曲がった向こうに「黄金時代」があるんじゃないか、という願望とも予感ともつかない感覚は、今の年になって初めてわかる。「十二月の鍵」にしても、初読の時はよくわからなかったのが、あの何ともかっこいいスタイルに惹かれて何度か読み返すたびに好きになっていった。
   
    ディック、ティプトリー、ラファティの評価は、「新・御三家」と呼ばれてもおかしくないほどまでに固まったと思うが、60年代のゼラズニィと70年代のヴァーリィの評価は、SFへのその貢献に比べて、異様に低いようにも思う。それにはおそらくは、両者ともに長篇作家よりも中篇作家、ノヴェラやノヴェレットを最も得意とし、そのフォーマットに最も優れた作品を残したせいもあるのではないか。
   
    そして、中篇作家であるがために不当に低い評価しかされていない書き手は、案外多いようにも思う。シルヴァーバーグもそうだし、ルーシャス・シェパードもそうだ。
   
    浅倉さんへの追悼文はそれぞれに良かったが、「偲ぶ会」やSFファン交流会で話されたことと重なる部分も多かった。
   
    なかで出色はやはり伊藤典夫氏の文章で、分量からしても、つきあいの深さ、古さからも、群を抜いて読みごたえのあるものだ。氏にはぜひ、昔のことを、きちんと書き残しておいていただきたい。結局昔のことをご存知で残っているのは、ほとんど森さんと伊藤氏だけではないか。アメリカ人が「創造」した「宇宙」を日本語に植えかえる、その苦闘はぜひ読みたいと思うし、伊藤氏は当事者でありながら、中心のすぐそばにいながら、中心そのものではなかった、まことに都合の良い位置におられたわけだ。日本語SF形成期の跡をたどるには絶好の書き手と思う。
   
    追悼特集としては充実したものではあるが、浅倉さんの追悼はこれで終わるわけではない。浅倉さんの残したものの評価はむしろこれからだろう。この特集はその端緒にすぎない。
   
    「後ろ向き」のものより「前向き」の特集を、というアマゾン読者評のコメントもその通りではあるが、前に進むためにも、これまで何がなされ、何がなされなかったかを押えることは必要ではある。矢野、野田、柴野、浅倉と、日本語SFを裏で支えてきた人びとが幽明界を異にされたことは、歴史をたどりなおし、評価しなおす契機になる。
   
    今回の特集には、浅倉久志がどういう人であったか、の説明はひとこともない。ここで初めてその名前に接する人や、この名前を意識する人にはいささか不親切とも思う。その一方で、浅倉久志とは何者ぞ、と問われれば、こういう翻訳を残した翻訳者です、まず読んでくださいと言って、よけいな雑情報をあえてばっさり切った潔さも認める。(ゆ)