スカルダガリー 1    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その49。
   
    今回の Irish Book of the Decade 受賞作。アイルランド・ゼロ年代を代表する本として、これが選ばれた。
   
    こういう大きな賞に児童書が選ばれるのは、やはり珍しいことではある。もっとも、そもそも5本も児童書が入っているのは、アイルランドにおける児童書出版の盛んなこと、質の高さの証であるとともに、出版界、あるいは文芸の世界での児童書の地位の高さをも物語る。
   
    これが日本語圏であればどうだろうか。ハリポタは大人もたくさん読んだかもしれないが、やはりそれは例外で、児童書はいかに質が高くても、たとえば村上春樹や高橋源一郎、橋本治、あるいは大江健三郎、さらには井上靖、井上ひさしといった作家たちの作品とは別世界のものにされているけしきだ。例外は宮沢賢治ぐらいか。坪田譲治や鈴木三重吉、椋鳩十、そこまでいかなくとも、あさのあつこ、いやそれよりもラノベでひとくくりにされる書き手は、はじめから同列に扱われない。山手樹一郎の少年小説が池波正太郎や山本周五郎とならべられることもなさそうだ。
   
    『ハウルの動く城』の原作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、児童ものと大人ものと両方書いている人だが、児童ものの方が自由に書けるという。児童ものの唯一の制限は露骨なセックス描写だけで、他は、たとえばプロットをいくら複雑にしてもかまわない。若い読者はちゃんとついてくる。
   
    あるサイン会場で、娘に付き添いで来ていた母親から「抗議」を受けたことがある。あなたの話は複雑すぎて、わからない、もっと簡単にしてほしい。これを傍らで聞いたその娘は作家に対し、ママの言うことなんか気にしないで、あたしはちゃんとわかるから、と保証した。
   
    テーマにしてもおとな向けはいろいろタブーがあるし、おとなが読みたがらないテーマも多い。政治や哲学はその筆頭だ。児童向けではそういう制限もない。
   
    同様のことは日本語の本にもあてはまりそうだ。
   
    話をこのアイルランド・ゼロ年代の50選にしぼっても、5点の児童ものは、それぞれにおとな向けではできないことをやっているとみえる。ケイト・トンプソンのもののように、伝統音楽が作品の不可欠の要素になっている小説は、どうやら大人向けのものには無いらしい。ジョン・ボインのものも、大人向けでは思いつかない角度から、人間の愚行の極致を描いてみせる。
   
    『スカルダガリー』は『アルテミス・ファウル』とともに、エンタテインメントに徹しているらしいが、デレク・ランディはオゥエン・コルファーよりもファンタジーを存在の一部にしているようではある。
   
    願わくはこの受賞を機に、アイルランドの児童書がどんどんと邦訳されますように。(ゆ)