今日は本誌情報号の配信予定日ですが、諸般の事情から遅れます。んー、2日ぐらいでしょうか。
ノーザン・アイルランドでは「行進の季節」です。今年は警察管轄権のベルファスト政府への移譲で、その条件のひとつに「行進委員会」の解散と新たな行進ルート決定機構の設立があったために、プロテスタントがカトリック地区を通過する旧ルート復活をめざしてます。もっとも「行進委員会」は実際にはまだ解散されていないので、カトリック地区への行進侵入を禁じた命令も生きてます。
この「行進」は各地のオレンジ団が組織するもので、ノーザン・アイルランドのプロテスタントがカトリックへの政治的社会的経済的優位を確認する示威行為です。かつてはカトリックが集中的に住む地域のど真ん中を通るので、これを阻止しようとしたカトリック住民との衝突も頻繁で、大規模な暴動に発展することもありました。
1990年代後半、ネー湖南岸のアーマー州ポータダウンのドラムクリー教会への行進をめぐって大規模な騒擾が起き、これに対処するために設けられたのが事前に行進ルートを決定する「行進委員会」で、主にカトリック地区への行進の侵入を禁じる決定を出すことで衝突を防ごうとしたので、プロテスタントからは嫌われています。
この騒擾では1998年に、まったく関係ない北部アントリム州バリマニィで、カトリック家庭の3人の幼ない兄弟が放火で殺されたり、ドラムクリー行進の通過を拒否しているガルヴァギー・ロード地区住民連合の顧問弁護士が1999年自動車にしかけられた爆弾で暗殺されたりしています。こうした暴力行為の結果、ドラムクリー行進に固執するプロテスタントは支持を失うことになりましたが、オレンジ団の地元支部は現在にいたるも抗議と行進申請を続けています。
「行進委員会」の施策はこれまでのところ功を奏し、警察による厳重な警備もあって、今世紀に入ってからは暴力行為は下火となり、ドラムクリー問題はすでに過去のものになった、とする意見もあります。1995年には行進の先頭に立って勝利を叫んだ当時プロテスタントの中でも最過激派だったイアン・ペイズリー自らが、聖金曜日合意にしたがい、カトリックを代表するシン・フェインと権力分担政権を組みました。ノーザン・アイルランドの政治的空気はがらりと変わっていると思われますが、ドラムクリー問題の行方は、今後のノーザン・アイルランドの社会と政治の行方を示唆するものになるでしょう。(ゆ)
ノーザン・アイルランドでは「行進の季節」です。今年は警察管轄権のベルファスト政府への移譲で、その条件のひとつに「行進委員会」の解散と新たな行進ルート決定機構の設立があったために、プロテスタントがカトリック地区を通過する旧ルート復活をめざしてます。もっとも「行進委員会」は実際にはまだ解散されていないので、カトリック地区への行進侵入を禁じた命令も生きてます。
この「行進」は各地のオレンジ団が組織するもので、ノーザン・アイルランドのプロテスタントがカトリックへの政治的社会的経済的優位を確認する示威行為です。かつてはカトリックが集中的に住む地域のど真ん中を通るので、これを阻止しようとしたカトリック住民との衝突も頻繁で、大規模な暴動に発展することもありました。
1990年代後半、ネー湖南岸のアーマー州ポータダウンのドラムクリー教会への行進をめぐって大規模な騒擾が起き、これに対処するために設けられたのが事前に行進ルートを決定する「行進委員会」で、主にカトリック地区への行進の侵入を禁じる決定を出すことで衝突を防ごうとしたので、プロテスタントからは嫌われています。
この騒擾では1998年に、まったく関係ない北部アントリム州バリマニィで、カトリック家庭の3人の幼ない兄弟が放火で殺されたり、ドラムクリー行進の通過を拒否しているガルヴァギー・ロード地区住民連合の顧問弁護士が1999年自動車にしかけられた爆弾で暗殺されたりしています。こうした暴力行為の結果、ドラムクリー行進に固執するプロテスタントは支持を失うことになりましたが、オレンジ団の地元支部は現在にいたるも抗議と行進申請を続けています。
「行進委員会」の施策はこれまでのところ功を奏し、警察による厳重な警備もあって、今世紀に入ってからは暴力行為は下火となり、ドラムクリー問題はすでに過去のものになった、とする意見もあります。1995年には行進の先頭に立って勝利を叫んだ当時プロテスタントの中でも最過激派だったイアン・ペイズリー自らが、聖金曜日合意にしたがい、カトリックを代表するシン・フェインと権力分担政権を組みました。ノーザン・アイルランドの政治的空気はがらりと変わっていると思われますが、ドラムクリー問題の行方は、今後のノーザン・アイルランドの社会と政治の行方を示唆するものになるでしょう。(ゆ)
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