Galileo's Dream    ロビンスンはラファティに通じる。
   
    奇をてらったわけではない。いや、両方とも「奇」をてらっている、とは言えるかもしれないが。
   
    つまり、どちらも書いている、いたのは「ほら話」英語でいう "tall tales" なのである。現代でこの類の話を書くにはSFが一番合っている。読者も多いし、受け入れられやすいというのでSFの分野で書いたのだ。
   
    もっともはじめから「SF」というなにか固まったものがあり、それに合わせて、それを書きたいから書く、という書き手は、そんなに、というかほとんどいないのではないか、とも思う。
   
    たいていは、それぞれに書きたいもの、あるいは書けてしまう、できてしまうものがあり、それをリリースしようとした時、最適な場がSFだった、というものではないか。あるいは他ではできない、リリースを断わられて、やむなくSFで、というケースも結構あるようにも思われる。
   
    ほら話もそのひとつで、パブなどでの「かたり」ならまだしも、活字としてリリースしようとすれば、他にはどこにも落とし所はなかろう。SFというのはまことに便利なものではある。
   
    ガリレオといえば地動説裁判、そしてガリレオ衛星、とまあ相場は決まっている。実際にかれがどういう人間で、どういう生活をして、何を残したか、まではまずいかない。
   
    木星の一番大きな四つの衛星をガリレオ衛星という、なんてのも、根っからの天文ファンでなければ知らないかもしれない。とは言え、知っている人間にとっては、自分が発見した衛星を望遠鏡で覗いていたら、その上に立っていた、なんて話は、もうそれだけでうれしくなってくる。理屈などどうでもいいのだ。
   
    とにかく、ガリレオをかれが見つけた衛星の上に立たせたい、あるいはその間を飛びまわらせたい。
   
    いかに天才とはいえ、17世紀はじめのイタリアに生まれ育った人間だ。しかもイタリア半島から一歩も出たことはない。敬虔なカトリックで、地動説は奉じてもそれで信仰が揺らぐわけではない。そんな人間を、相対性理論から先、ニュートンからアインシュタインまでの距離よりも大きな距離がアインシュタインから先にあるような、そんな科学のもとにできている世界にいきなり連れこんで、無事にすむはずはない。
   
    常識的に考えれば、それはそうだろう。
   
    だからこれはほら話なのだ。ポール・バニヤンの話、ジョニー・アップルシードの話、あるいは火星のビッグマンの話。呪文をとなえるとせまくなって他の人間には見えなくなる谷の話。九百人のお祖母さんの話。
   
    むかしむかし、あるところにガリレオという男がおりました。ガリレオは望遠鏡の噂を聞いて、ひとつ自分でも作ってやろうと思いました。できたもので夜空をあちこち眺めていると、あれれ、木星のそばに何かあるぞ。やあ、動いてる。あれって、もしかして星じゃないか。地球に月があるように、木星にも木星の月があるんじゃないか。やあ、四つもあるぞ。というので、ガリレオはこの発見を本に書きました。みんなはそれを読んで、びっくり仰天、やんややんやとはやしました。
   
    でも、ガリレオはだんだんつまらなくなりました。木星のまわりを回っているのはわかるが、あそこはいったいどんなところなんだろう。行ってみたいなあ。そう思いながら、毎晩望遠鏡で覗いておりました。望遠鏡はどんどん良くなって、木星の月たちもだんだん大きく見えるようになります。でも、その上まで見えるわけではありません。
   
    そんなある日、望遠鏡の噂を聞かせてくれた異邦の男が持ってきたのが、見たこともないような大きな望遠鏡。早速これで覗かせてもらうと、をを、星がどんどん近くなる、うわ、落っこちる。というので気がつくとガリレオは自分がみつけた木星の衛星のひとつの上に立っておりました。めでたし、めでたし。
   
    いや、めでたしではなくて、これからガリレオの冒険が始まるのだけれど、これが20世紀前半だったら、ガリレオは地球のことなどきれいさっぱり忘れて、木星系狭しとばかりにあばれまわり、美女を助け、悪者をやっつけて大活躍、やがて木星から先の太陽系を統一して偉大な王となり、末永く、しあわせに暮らしました。めでたし、めでたし。
   
    と、今度こそはめでたしになるかもしれない。しかし、今は21世紀だ。ポスト9/11の時空。それに、ガリレオが木星王になるというのはほら話ではない。ほら話はとぼけなくては。
   
    そこで、作者はどうしたか。
   
    ガリレオには地球と木星の間を往復してもらうことにしたのだ。
   
    そしてもうひとつ、地球でのガリレオにはその人生をしっかり生きてもらうことにした。つまり、実際に生きたガリレオはこうだっただろうという話を、こちらはもうリアリズムに徹して、ほらなどどこにもない、生身のガリレオ、不眠症と脱腸のおかげで、いつも赤い眼をして、よたよたと歩きまわり、召使たちをどなりつけ、ぶん殴り、大公や教皇や枢機卿たちにはへいこらし、雇い主のケチに怒りくるい、批判者たちを罵倒しまくり、そして、世界でまだ誰も知らないことを知って感動にうちふるえる、そういう姿を生き生きと、読者の目の前に描きだしてみせたのだ。
   
    マッドではない、ひとりの科学者の姿を、その魅力も欠点もひっくるめて、これほどあざやかにありありと描きだした話がこれまでにあっただろうか。天才ではあっただろう。科学者としてはついてもいただろう。しかし、一個の人間、夫、父、事業家、つまり世間から見たひとりの人間としては、及第点はまずやれない。いや、とうの昔に誰からも見棄てられていてもおかしくはない。
   
    そしてあの有名な裁判の場でのガリレオの姿。かれは科学を守ろうとしたのではもちろんない。ただひたすら異端の罪として裁かれること、すなわち焚刑にされることだけを避けようとした。ジョルダーノ・ブルーノの二の舞だけはごめんだ。そのためには何でもするつもりだった。
   
    地動説がキリスト教の教えに反すると思ったわけでもない。地動説こそは神の造りたもうたこの世界の姿を正しく説明するものだ、アリストテレスは、天動説は神の造りたもうた世界を正しく説明していない、と考えただけである。神は嘘をつかない。神が造りたもうたものを真正直に見ればわかる。これまでは人間の眼がまちがっていたのだ。
   
    だからガリレオは当初の判決文の中で、自分は善きキリスト教徒ではなかった、『天文対話』出版に際して検閲当局をだました、という二つの点だけは承服できない、たとえ焚刑にされてもこれだけは認められないと抗議した。
   
    この裁判でのガリレオの姿にどこか気高いものがあるとすれば、それは信ずるところを守ろうとしたからだろう。地動説は信ずるところではない。それはすなおに見れば誰の眼にも明らかなことで、教会がいかに否定しても、自分がいくらそれを奉じないと強弁しても、それによって地球が太陽の周りを回っている事実が消えたり、変わったりするわけではない。しかし、自分が善きキリスト教徒かどうかは、自分がそう信じ、他人にもそう認めさせるしか決定方法は無い。
   
    この裁判は歴史上最も有名な裁判のひとつだ。こんにちにいたるまで、その内容についてくりかえしとりあげられる。その理由は、ガリレオが焚刑を免れた、かれが生き残ったからだろう。地動説に対するローマ教皇庁の弾圧ということなら、まさにジョルダーノ・ブルーノは科学への殉教者としてもっと注目され、有名になってもよいはずだ。ガリレオは生き残った。「それでも地球はうごく」と言い残した。むろんこれは伝説だが、伝説の例にもれず、事件の本質をあらわしている。ガリレオが生き延びたこと自体が「それでも地球はうごく」と言っていたのだ。
   
    そして、この裁判がこうなったのは、実は木星での冒険があったからなんですよ、みなさん。ガリレオが木星に行かなかったら、かれは実は焚刑にされていたんです。ね、世の中、何が幸いするか、わからないでしょ。めでたし、めでたし。
   
    ああ、これがSFで無くて、何であろう。一人の稀有な科学者の生身の姿を描ききり、なおかつ、この科学者を当人が発見した天体の上で活躍させる。ほら話としてのSFの極致ではないか。
   
    これはもう作家としての円熟である。こういう力業を、トゥル・ド・フォースを、無理を感じさせずにやってのける。SFとしてのリアリズムだけなら、他にも同じくらいの力の持ち主は何人もいる。歴史部分だけとれば、一流ならばこれくらいは書けてほしい。しかし、この二つをシームレスにつないで、極上の歴史小説でもあり、SFでもある話を書けるのは、はたして他にいるだろうか。
   
    いないわけではない。ロビンスンもこの作品についてのエッセイであげていたシルヴァーバーグの『時間線を遡って』Up The Line は、遥かな先駆けであり、出来ばえとしても匹敵する。いや、本当にすぐれたタイム・トラベル小説は本来、歴史小説とSFの最高の形での統合なのだろう。とすれば、そうしたいくつかのすぐれたタイム・トラベル小説群に、今ひとつ、ひときわ大きな成果が加わった、と言うべきだろう。(ゆ)