前日、あまりの急激な気温の変化にやられて終日寝こんだ。その後遺症はまだ尾を引いていて、調子ははなはだ良くない。午後の約束は勘弁してもらったものの、夜のライヴは同行者がいて、ぼくが行かないと二人とも入れない。半ば匍うように、というと大袈裟だが、できるだけ腹に詰めみ、キヨーレオピンを飲んで出かける。
バウロンのトシさんから、これだけは見てくれと散々念を押されていたハモニカクリームズの、今夏の総決算ライヴ。次郎吉は開演30分前ですでに椅子席は満杯で、やむなく隅っこに立つが、開演を待つうちにつらくなってくる。幸い、店の人が目の前のテーブルに折り畳みの椅子をひとつ置いたのを、誰も座らないうちに失敬する。座ればなんとかもちそうだ。
客層は野毛で見ている人も多いのだろう、いつものアイリッシュとは違う顔ぶれ。学生はあまり見当たらず、20代半ば以上、我々あたりが最年長か。女性客が多い。次々と客が入ってきて、狭い店内は満杯。
むろん、このバンドはアイリッシュのバンドではないが、4人のうち3人がアイリッシュを日頃のベースとしている以上、多少ともそちらに振れるのはやむをえないだろう。
だが、実際に体験できた音楽はむしろアイリッシュから大きく踏み出していて、かといって折衷でもなく、単純なミクスチャーでもない。軽々に「異種交配」などとも言えない。何とも不思議なものだった。
あえて言えば、モザイクだろうか。それぞれの個性がそのままぶつかり合い、とび散り、連鎖反応を起こし、溶け合うと見えて融合しない。
たとえば、ハモニカ以外の3人がアイリッシュから踏み出してゆくその様がまた3人3様で、踏み出しの幅も方向も違うのだ。一見一番大きく踏み出しているのはフィドルで、自在にスイングし、遊んでは、ゴリゴリのアイリッシュにとびもどり、またブルーズ・フィドルへシームレスに移ってゆく。出発点はアイリーン・アイヴァースかもしれないが、こうなるとスタッフ・スミスやシュガーケイン・ハリスと並べてみたくなる。
次はギターだが、ギターはもともとアイリッシュでは異端だから、むしろこの楽器本来の位置にもどっているとも言えるかもしれない。つまりそれはどんなリズムでも叩きだすことができるし、ある曲がブルーズになるか、アイリッシュになるかを決めるのはギターであるとも言える。そう、それは時にジャズにももっていけるのだ。
踏み出しという点では最も控え目だったのはバウロン。まあ、タブラが鳴りだせば、どんな音楽でもインドの大気の中で鳴っていると聞こえるように、打楽器は案外、その土地の空気を濃厚にまとうのかもしれない。トシさんは他にもいろいろな打楽器を駆使していて、それはそれで面白いのだが、せっかくギターがしっかりビートを支えているのだから、バウロンはもっと遊んでもいいのではないか。
この3人の踏み出し具合からして、ハモニカもまたいつもの枠からはかなり踏み出しているのだろうと推測する。それが一番よくわかったのは、1曲、エタ・ジェイムズのブルーズをやった時で、ここでのハモニカの生き生きした演奏はまさに水を得た魚。ほっとする、という本人の言葉には納得する。ぼくも世界中の音楽をあれこれ聞いていて、それはそれで大変面白く、楽しいのだが、しばらくそちらに遊んで、またふとアイリッシュやイングリッシュにもどるとほっとする。ああ、ここがふるさとだと思う。
いつもやり慣れたものではないところで真剣勝負する、その緊張感がこのバンドの身上なのだ。メンバー各自がいわば爪先立ちでやっている。手の届くぎりぎりのちょっと手前でやっている。そこにはそれでしか味わえない楽しみがある。綱渡りでもある。何が起きるかわからないスリル。
そして、昨日の演奏には、綱渡りのコツを呑み込んだという手応えが感じられた。それさえ掴めば、綱の上で逆立ちもできる、宙返りもしてみせよう、というなにか。実際にはまだそこまではいかないが、そこに向かってこれから行きますけん、まあ、見ててくんしゃい。お楽しみはこれからよ。とりあえず、今日のところは小手調べ。そう、このバンドが本当に成熟した時、どんな音楽を奏でるか。それはもう想像するだけで目が眩む。
同行した二人は古い仲間で、幅広い音楽を聞いてきた同世代のオヤジたち。二人とも、こんなことになっていたのか、とこれまた感無量のおももちだった。そう、こんなことになっていたのだ。時代は一回りしていたのだ。
音楽に国境は無い、などというのは嘘っぱちだが、音楽は国境を超えられる。2曲のアンコールまで含めて、たっぷり3時間近く。気がつけば、すっかり調子も良くなって、るんるん気分で帰宅の途についたのだった。(ゆ)
バウロンのトシさんから、これだけは見てくれと散々念を押されていたハモニカクリームズの、今夏の総決算ライヴ。次郎吉は開演30分前ですでに椅子席は満杯で、やむなく隅っこに立つが、開演を待つうちにつらくなってくる。幸い、店の人が目の前のテーブルに折り畳みの椅子をひとつ置いたのを、誰も座らないうちに失敬する。座ればなんとかもちそうだ。
客層は野毛で見ている人も多いのだろう、いつものアイリッシュとは違う顔ぶれ。学生はあまり見当たらず、20代半ば以上、我々あたりが最年長か。女性客が多い。次々と客が入ってきて、狭い店内は満杯。
むろん、このバンドはアイリッシュのバンドではないが、4人のうち3人がアイリッシュを日頃のベースとしている以上、多少ともそちらに振れるのはやむをえないだろう。
だが、実際に体験できた音楽はむしろアイリッシュから大きく踏み出していて、かといって折衷でもなく、単純なミクスチャーでもない。軽々に「異種交配」などとも言えない。何とも不思議なものだった。
あえて言えば、モザイクだろうか。それぞれの個性がそのままぶつかり合い、とび散り、連鎖反応を起こし、溶け合うと見えて融合しない。
たとえば、ハモニカ以外の3人がアイリッシュから踏み出してゆくその様がまた3人3様で、踏み出しの幅も方向も違うのだ。一見一番大きく踏み出しているのはフィドルで、自在にスイングし、遊んでは、ゴリゴリのアイリッシュにとびもどり、またブルーズ・フィドルへシームレスに移ってゆく。出発点はアイリーン・アイヴァースかもしれないが、こうなるとスタッフ・スミスやシュガーケイン・ハリスと並べてみたくなる。
次はギターだが、ギターはもともとアイリッシュでは異端だから、むしろこの楽器本来の位置にもどっているとも言えるかもしれない。つまりそれはどんなリズムでも叩きだすことができるし、ある曲がブルーズになるか、アイリッシュになるかを決めるのはギターであるとも言える。そう、それは時にジャズにももっていけるのだ。
踏み出しという点では最も控え目だったのはバウロン。まあ、タブラが鳴りだせば、どんな音楽でもインドの大気の中で鳴っていると聞こえるように、打楽器は案外、その土地の空気を濃厚にまとうのかもしれない。トシさんは他にもいろいろな打楽器を駆使していて、それはそれで面白いのだが、せっかくギターがしっかりビートを支えているのだから、バウロンはもっと遊んでもいいのではないか。
この3人の踏み出し具合からして、ハモニカもまたいつもの枠からはかなり踏み出しているのだろうと推測する。それが一番よくわかったのは、1曲、エタ・ジェイムズのブルーズをやった時で、ここでのハモニカの生き生きした演奏はまさに水を得た魚。ほっとする、という本人の言葉には納得する。ぼくも世界中の音楽をあれこれ聞いていて、それはそれで大変面白く、楽しいのだが、しばらくそちらに遊んで、またふとアイリッシュやイングリッシュにもどるとほっとする。ああ、ここがふるさとだと思う。
いつもやり慣れたものではないところで真剣勝負する、その緊張感がこのバンドの身上なのだ。メンバー各自がいわば爪先立ちでやっている。手の届くぎりぎりのちょっと手前でやっている。そこにはそれでしか味わえない楽しみがある。綱渡りでもある。何が起きるかわからないスリル。
そして、昨日の演奏には、綱渡りのコツを呑み込んだという手応えが感じられた。それさえ掴めば、綱の上で逆立ちもできる、宙返りもしてみせよう、というなにか。実際にはまだそこまではいかないが、そこに向かってこれから行きますけん、まあ、見ててくんしゃい。お楽しみはこれからよ。とりあえず、今日のところは小手調べ。そう、このバンドが本当に成熟した時、どんな音楽を奏でるか。それはもう想像するだけで目が眩む。
同行した二人は古い仲間で、幅広い音楽を聞いてきた同世代のオヤジたち。二人とも、こんなことになっていたのか、とこれまた感無量のおももちだった。そう、こんなことになっていたのだ。時代は一回りしていたのだ。
音楽に国境は無い、などというのは嘘っぱちだが、音楽は国境を超えられる。2曲のアンコールまで含めて、たっぷり3時間近く。気がつけば、すっかり調子も良くなって、るんるん気分で帰宅の途についたのだった。(ゆ)

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