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    ドイツではしかし、マルヌの戦いの真実は、ついに完全に公にはされなかった。〔戦いが行われた〕9月6日から16日にかけてメディアは、パリ周辺からの退却を戦術的なもの、戦線を再編してフランスの首都をあらためて攻撃する準備であるとし、他の地域での勝利、とりわけ東部戦線での勝利とならべて位置付けた。かくて軍事的展望としては本質的に偽りのイメージが形成されることになり、これをマスメディアだけでなく、ドイツ国内の主要な権力集団の大半も信ずることになった。就中、軍自体がこれを敗北と認めることができず、軍として第一の役割を果たすことができなかったことで、ドイツ社会の中心としての立場に暗黙のうちに疑問が呈されていたことも認めることができなかった。戦いの後で、三十三名の将軍が解任された。しかし軍は集団としての責任を認めず、むしろ命令に反して戦線に穴を開けたことでクルック〔最右翼の第一軍団司令官〕を、最初に退却を決めたことでビューロウ〔クルックの東隣第二軍団司令官〕を、第一軍団にも同様に退却するよう命じたことでヘンシュ〔総司令部モルトケ麾下の参謀〕を、事態を回復できたはずの突破を達成しなかったことでハウゼン〔第三軍団司令官〕とルプレヒト皇太子〔第五軍団司令官〕を、最高指揮官《フェルドヘール》では無かったと自ら暴露したことでモルトケ〔参謀総長、ドイツ帝国陸軍建設者大モルトケの甥〕を、それぞれ非難した。事態の説明を個人の欠陥に求め、特定のミスが決定的だと主張することで、ドイツ陸軍はマルヌは実は事実上勝っていたのだと結論づけることも可能とした。したがってマルヌの結果は、戦争目的を戦略的に評価しなおす土台にもならなかったし、組織としてのドイツ軍の自己評価の基盤とされなかった。その時その場で、真実を誠実に把握することが無かったから、後のことは混乱と妥協の産物となった。マルヌの戦い直後の一部の軍団司令部では、モルトケはシュリーフェン計画に忠実過ぎたと批判した。一九一九年になると、モルトケの失敗はシュリーフェン計画を忠実に実行しなかったからだと広く信じられていた。つまり議論は実行にあたっての考え方をめぐるものに終始し、戦略全体の是非は対象にならなかった。戦争の遂行にあたっての問題は、知性によって理想的な解決策をほどこすことができるという信念が、そこにはあいかわらず現れていた。そして、軍指揮官の仕事とは何かについて、この最も基本的なレベルにおいても、ドイツ軍は全体としての意見の一致を生み出せないことも示していた。
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Huw Strachan, The First World War: To Arms, 261-2pp.