ルーシャス・シェパードのライフ・ワーク「竜のグリオール」シリーズ最新作。F&SF1984年12月号に "The Man Who Painted the Dragon Griaule" > 「竜のグリオールに絵を描いた男」 SFM1987年12月号 で始まり、"The Scalehunter's Beautiful Daughter" (Asimov's 1988年9月号 > 「鱗狩人の美しき娘」SFM1991年5月号、"The Father of the Stones" Asimov's 1989年9月号 > 「ファーザー・オブ・ストーンズ」SFM1991年12月号、"Liar's House" Sci Fiction 2003年12月 ときて、これが5作目。発表は Subterannean Online の昨年夏号、直後に Subterannean Press から単行本になっている。邦訳換算約200枚のノヴェラ。なお、上記の邦訳はいずれも内田昌之さん。
最初の短篇は発表順からいえば6番目の、シェパードのごく初期の作品のひとつで、当時は「サルバドール」Salvador F&SF1984年4月号 > SFM1990年3月号 訳は小川隆氏 や "The Night of White Bhairab, F&SF1984年10月号、UNIVERSE 14 に載った The Black Coral 「黒珊瑚」小川隆訳で『ジャガー・ハンター』収録 などの影に隠れて印象は薄かった。
その頃のシェパードはF&SFの1983年9月号に "Solitario's Eye" でデビューした後、84年には6篇、85年には7篇と、パルプ時代の小説工場なみの量産をしていた。しかも84年には第一長篇 GREEN EYES 『緑の瞳』友枝康子訳、ハヤカワ文庫まで出している。ちなみにシェパードの初期作品が新潮文庫で出たのは大森さんの功績だろう。
ぼくがシェパードを「発見」したのはたしか年刊傑作選のどれかで「サルバドール」を読んだことだったはずで、あわてて手元のバックナンバーやアンソロジーをひっくり返し、とにかく見つかったものはかたっぱしから読んでいった。
この頃、やはり夢中になって追いかけたのはキム・スタンリー・ロビンスンで、こちらはたぶん1983年の "Black Air" F&SF1983年3月号 で「発見」したので、やはり UNIVERSE 14 に載った "The Lucky Strike" > 「ラッキー・ストライク」後藤安彦訳 SFM1996年9月号 にやられた。"Black Air" はスペインのアルマダのブリテン侵攻が舞台で、アイルランド語のあるフレーズが物語の鍵であり、最後は主人公のアルマダの生き残りがアイルランドに漂着する話だ。邦訳があったような気がするが、雨宮さんのサイトでも見当らない。
1984年といえば『ニューロマンサー』刊行の年だが、『ミラーシェード』もこの年だし、こうしてみると「爆発の年」ではある。この頃はギブスン、スターリングも力のはいった中短編を次々に発表していて、雑誌やアンソロジーが面白くてしかたがなかった。
で、「グリオール」だが、これがとんでもないしろものと気がつくのはやはり1988年の「鱗狩人の美しき娘」だ。読んだのは J K ポッターのジャケットが美しい Mark Zeising からの単行本だった。リアルタイムではなく、買ってしばらくたってからだったと思う。圧倒された。夢中になって読みあげ、しばし茫然となった。
それまでのシェパード作品ではF&SF1995年12月号の「スペインの教訓」小川隆訳で『ジャガー・ハンター』収録 に脳天を一撃されていたのだが、あそこでは本の頁を蹴破って現実になだれこんできた虚構が、「鱗狩人の美しき娘」では活字の中にいながらにして現実を呑みこんでいた。
遥か昔に魔法で身動きできなくなったまま巨大な丘に成長し、しかし死んではおらず、なにか不可解で悪意に満ちたかたちで世界と人間のありように影響を与えている竜。グリオールが横たわっている世界はたしかに幻の、ファンタジイの世界なのだが、この竜がきわめて具体的存在でありながら同時に文字通り巨大な象徴として、作品を読んでいる我々の生きている世界を凝縮している。
この入れ子構造は、読んでいて腰がおちつかなくなってきて、なんともいえない不安感が生じる。気分が悪いとまでは言えないが、できれば避けたい一方で、その不安を生むテクストそのものもは読みつづけずにはいられない。異様な登場人物たちの異様な環境のなかでの異様なふるまいによってつむがれる物語は、眼を離せない。グリオールだけではなく、そこに展開される具体的なできごとや叙述の一つひとつが適確巧妙な比喩としていちいち心に響いてくる。きわめて上質のエンタテインメントを読みながら、その実、自分の生きている世界の実相が有無を言わせず叩きこまれてくる。
同じことが「ファーザー・オブ・ストーンズ」でも繰り返された。こちらは現実と結ぶ網の眼がさらに細かくなっていた。
シェパードが類例のない特別な作家として認識されたのは、この時だったと思う。とにかくこの人の書くものは、断簡零墨まで全部読んでやろう、いや読まずにはいられない、と思った。生まれてこのかた、そう思わされたのは『終着の浜辺』までのバラード、『所有せざる人々』までのル・グィンぐらいだった。
「ファーザー・オブ・ストーンズ」掲載の Asimov's のコメントでは、このシリーズはもう一篇、かなり長めの中篇を書いて仕上げとする予定だという作者の言葉が紹介されていた。
ちなみにシェパードは中篇作家だ。長篇三部作など絶対に書けない。これまで3冊ある長篇も、『緑の瞳』は構成が破綻しているし、『戦時生活』はノヴェラをならべたものだし、The Golden (1993) は分量は長篇だが、構造はノヴェラだ。SFには中篇が理想の形と言われ(ジョアンナ・ラス)、実際名手も多いが、ここまで徹底している書き手はそういない。ファンタジイでは三部作が最低線のようなところもあって、さらに少ない。そういうシェパードにとっては短篇をマクラにノヴェラをつらねる「グリオール」は理想の形ではある。
しかしその「長めの中篇」は発表されることのないまま、10年以上が過ぎた。だから単行本の形でその存在を知った "Liar's House" には喜んだ。
そしてそれからさらに6年たってのこの "The Taborin Scale" である。
だが、この2作、前の3作とはいささか趣が異なる。近作では我々の世界とのつながり方が微妙にずれている。グリオールの存在感が薄れている。
薄れている、というのは適当ではないかもしれない。あるいはより深く浸透して、ふだんは感じられなくなっている、というべきか。
おそらくは後者なのだろうが、読みこみ不足でまだよくわからない。少なくとも後の2作の「難易度」は明らかに上がっている。
今回も、特に最後にシルヴィアの書いた文章になってしまうのがよくわからない。「書き手」としてのシルヴィアの存在、シルヴィアの「文章」によって、「世界にちらばったグリオール」の実態を体感させるためだろうか。
テーマははっきりしている。幼児性虐待だ。この「現象」自体は新しいものなどでないことは、カトリック教会をゆるがしている大スキャンダルからもわかるが、明確に解決すべき社会問題として浮上してきたのは、今世紀に入ってのことと思う。こういう問題がSFやファンタジイのテーマとしてとりあげられることは、20世紀にはまず無かった。
これがグリオールの存在の影響として描かれるのならば比較的わかりやすいが、ここではどうもそうではない。ペオニーを虐待した人びとはグリオールの存在とは無関係に虐待していたようにみえる。人間存在の根源により近いところにこの行為の源はあるようにみえる。ここでのグリオールはそれ自体が「悪」の根源というよりは、人間に備わる根源を剥き出しにする触媒に近い。前の2作ではグリオールという形で一度外部化されていた根源が、もう一度人間の内部にもどされ、グリオールはそれをあらためて引きずり出す役割を割り当てられているようだ。
むろん、ここにはそれ以外にも多くのものがある。テーマに関連するものだけでも、セックス一般はもちろん、家族、夫婦、親子といった関係の本質が問われる。そしてエドガーを処刑する論理。暴力の正当化。「身の安全を守る」とはどういうことか。
やはり、最初の短篇からあらためて腰を据えて読みなおす必要がある。これで一応物語のサイクル全体に一段落ついたわけだから、どこかがまとめて本にしてくれないか。もっとも、これで語るべきものはすべて語られておしまい、という感じはまったく無い。むしろ、話はこれからではないかという気がしきりにする。ただ、それが「竜のグリオール」のシリーズである必要もまた無い。ひょっとするとそれはシルヴィアの語る話になるのかもしれない。(ゆ)
最初の短篇は発表順からいえば6番目の、シェパードのごく初期の作品のひとつで、当時は「サルバドール」Salvador F&SF1984年4月号 > SFM1990年3月号 訳は小川隆氏 や "The Night of White Bhairab, F&SF1984年10月号、UNIVERSE 14 に載った The Black Coral 「黒珊瑚」小川隆訳で『ジャガー・ハンター』収録 などの影に隠れて印象は薄かった。
その頃のシェパードはF&SFの1983年9月号に "Solitario's Eye" でデビューした後、84年には6篇、85年には7篇と、パルプ時代の小説工場なみの量産をしていた。しかも84年には第一長篇 GREEN EYES 『緑の瞳』友枝康子訳、ハヤカワ文庫まで出している。ちなみにシェパードの初期作品が新潮文庫で出たのは大森さんの功績だろう。
ぼくがシェパードを「発見」したのはたしか年刊傑作選のどれかで「サルバドール」を読んだことだったはずで、あわてて手元のバックナンバーやアンソロジーをひっくり返し、とにかく見つかったものはかたっぱしから読んでいった。
この頃、やはり夢中になって追いかけたのはキム・スタンリー・ロビンスンで、こちらはたぶん1983年の "Black Air" F&SF1983年3月号 で「発見」したので、やはり UNIVERSE 14 に載った "The Lucky Strike" > 「ラッキー・ストライク」後藤安彦訳 SFM1996年9月号 にやられた。"Black Air" はスペインのアルマダのブリテン侵攻が舞台で、アイルランド語のあるフレーズが物語の鍵であり、最後は主人公のアルマダの生き残りがアイルランドに漂着する話だ。邦訳があったような気がするが、雨宮さんのサイトでも見当らない。
1984年といえば『ニューロマンサー』刊行の年だが、『ミラーシェード』もこの年だし、こうしてみると「爆発の年」ではある。この頃はギブスン、スターリングも力のはいった中短編を次々に発表していて、雑誌やアンソロジーが面白くてしかたがなかった。
で、「グリオール」だが、これがとんでもないしろものと気がつくのはやはり1988年の「鱗狩人の美しき娘」だ。読んだのは J K ポッターのジャケットが美しい Mark Zeising からの単行本だった。リアルタイムではなく、買ってしばらくたってからだったと思う。圧倒された。夢中になって読みあげ、しばし茫然となった。
それまでのシェパード作品ではF&SF1995年12月号の「スペインの教訓」小川隆訳で『ジャガー・ハンター』収録 に脳天を一撃されていたのだが、あそこでは本の頁を蹴破って現実になだれこんできた虚構が、「鱗狩人の美しき娘」では活字の中にいながらにして現実を呑みこんでいた。
遥か昔に魔法で身動きできなくなったまま巨大な丘に成長し、しかし死んではおらず、なにか不可解で悪意に満ちたかたちで世界と人間のありように影響を与えている竜。グリオールが横たわっている世界はたしかに幻の、ファンタジイの世界なのだが、この竜がきわめて具体的存在でありながら同時に文字通り巨大な象徴として、作品を読んでいる我々の生きている世界を凝縮している。
この入れ子構造は、読んでいて腰がおちつかなくなってきて、なんともいえない不安感が生じる。気分が悪いとまでは言えないが、できれば避けたい一方で、その不安を生むテクストそのものもは読みつづけずにはいられない。異様な登場人物たちの異様な環境のなかでの異様なふるまいによってつむがれる物語は、眼を離せない。グリオールだけではなく、そこに展開される具体的なできごとや叙述の一つひとつが適確巧妙な比喩としていちいち心に響いてくる。きわめて上質のエンタテインメントを読みながら、その実、自分の生きている世界の実相が有無を言わせず叩きこまれてくる。
同じことが「ファーザー・オブ・ストーンズ」でも繰り返された。こちらは現実と結ぶ網の眼がさらに細かくなっていた。
シェパードが類例のない特別な作家として認識されたのは、この時だったと思う。とにかくこの人の書くものは、断簡零墨まで全部読んでやろう、いや読まずにはいられない、と思った。生まれてこのかた、そう思わされたのは『終着の浜辺』までのバラード、『所有せざる人々』までのル・グィンぐらいだった。
「ファーザー・オブ・ストーンズ」掲載の Asimov's のコメントでは、このシリーズはもう一篇、かなり長めの中篇を書いて仕上げとする予定だという作者の言葉が紹介されていた。
ちなみにシェパードは中篇作家だ。長篇三部作など絶対に書けない。これまで3冊ある長篇も、『緑の瞳』は構成が破綻しているし、『戦時生活』はノヴェラをならべたものだし、The Golden (1993) は分量は長篇だが、構造はノヴェラだ。SFには中篇が理想の形と言われ(ジョアンナ・ラス)、実際名手も多いが、ここまで徹底している書き手はそういない。ファンタジイでは三部作が最低線のようなところもあって、さらに少ない。そういうシェパードにとっては短篇をマクラにノヴェラをつらねる「グリオール」は理想の形ではある。
しかしその「長めの中篇」は発表されることのないまま、10年以上が過ぎた。だから単行本の形でその存在を知った "Liar's House" には喜んだ。
そしてそれからさらに6年たってのこの "The Taborin Scale" である。
だが、この2作、前の3作とはいささか趣が異なる。近作では我々の世界とのつながり方が微妙にずれている。グリオールの存在感が薄れている。
薄れている、というのは適当ではないかもしれない。あるいはより深く浸透して、ふだんは感じられなくなっている、というべきか。
おそらくは後者なのだろうが、読みこみ不足でまだよくわからない。少なくとも後の2作の「難易度」は明らかに上がっている。
今回も、特に最後にシルヴィアの書いた文章になってしまうのがよくわからない。「書き手」としてのシルヴィアの存在、シルヴィアの「文章」によって、「世界にちらばったグリオール」の実態を体感させるためだろうか。
テーマははっきりしている。幼児性虐待だ。この「現象」自体は新しいものなどでないことは、カトリック教会をゆるがしている大スキャンダルからもわかるが、明確に解決すべき社会問題として浮上してきたのは、今世紀に入ってのことと思う。こういう問題がSFやファンタジイのテーマとしてとりあげられることは、20世紀にはまず無かった。
これがグリオールの存在の影響として描かれるのならば比較的わかりやすいが、ここではどうもそうではない。ペオニーを虐待した人びとはグリオールの存在とは無関係に虐待していたようにみえる。人間存在の根源により近いところにこの行為の源はあるようにみえる。ここでのグリオールはそれ自体が「悪」の根源というよりは、人間に備わる根源を剥き出しにする触媒に近い。前の2作ではグリオールという形で一度外部化されていた根源が、もう一度人間の内部にもどされ、グリオールはそれをあらためて引きずり出す役割を割り当てられているようだ。
むろん、ここにはそれ以外にも多くのものがある。テーマに関連するものだけでも、セックス一般はもちろん、家族、夫婦、親子といった関係の本質が問われる。そしてエドガーを処刑する論理。暴力の正当化。「身の安全を守る」とはどういうことか。
やはり、最初の短篇からあらためて腰を据えて読みなおす必要がある。これで一応物語のサイクル全体に一段落ついたわけだから、どこかがまとめて本にしてくれないか。もっとも、これで語るべきものはすべて語られておしまい、という感じはまったく無い。むしろ、話はこれからではないかという気がしきりにする。ただ、それが「竜のグリオール」のシリーズである必要もまた無い。ひょっとするとそれはシルヴィアの語る話になるのかもしれない。(ゆ)
コメント