日は暮れようとして居た。以太利人のマンドリン弾きが夫婦と娘と三人連れでわれわれの船に上つて来た頃は、もうM君は私の側に居なかつた。私は独りで悄然《しょんぼり》と港町の見える甲板に立つて居た。東洋の港を見て来た眼でその周囲を眺めると、何となく欧羅巴の方の空気がそこへは通つて来て居るやうにも思はれた。にはかに鈴のついた楽器を振鳴す音が起つた。歌も始まつた。ボツボツ港見物の連中が帰つて来る頃を見計つて、夫婦の音楽者がマンドリンを弾き始めた。その節につれて娘は私の見て居る前で歌ひながら踊つた。あの同室の歌うたひが食堂で一生懸命に歌つたのを聞いた時には面白くも可笑しくもなかつた私が、反つてこんな銭取りにする娘の声に誘はれた。
一曲済んだ。音楽者の細君は亭主の冠つて居た麦藁帽子を裏返しにして、それを皆なの間へ持廻つた。買物をして港の方からそこへ帰つて来る客がある。娘は聞き手の揃ふのを見計つて復た歌ひ出した。旅で西洋の芸人なぞに逢ふのも始めてだ。思はず私は涙が迫つて来た。
島崎藤村『海へ』第一章「海へ」大正6年=1917年4月
大正2年1915年4月、神戸からフランス船エルネスト・シモンで旅立った藤村は31日間の船旅の後スエズに着き、運河を通過して地中海側の出口ポート・サイドに逹する。
「音楽者」という語の新鮮なこと。これはやはり「おんがくもの」としか読めない。
「大きな言葉」よりも「小さな言葉」を重視する藤村。市井の人びとの日常を克明に描くことで「最も弱く柔らかく、しかも最も根深く強」いものの実相を空前絶後のスケールとリアリティで読者に体験させる藤村。クラシックの声楽家の音楽は歯牙にもかけず、流浪の芸人の歌と踊りに涙する藤村。
この時のイタリア娘がうたったのがどんなうただったのかも気になるが、実際にどこの出身だったのかにも興味が湧く。今はそんなことは考えられないが、この頃は地中海北岸の音楽者たちが普通に南岸各地を放浪していたのかもしれない。イタリア半島南部やサルディニア、コルシカの音楽にあれだけアラブ音楽の色が濃いのも、アラブ人ミュージシャンたちが持ち込んだというよりは、こうした地域の音楽者たちがアラブ世界を巡業してあるいた成果なのではとも思う。
「鈴のついた楽器」はタンバリンだろう。
「マンドリン」はひょっとするとウードまたはその近縁の楽器ではないか。もっともこう書いているということは、藤村はどこかでマンドリンを見ている、すなわち演奏も聞いているはず。
マンドリンが日本に紹介されるのは、ウィキペディアによれば1901年比留間賢八(1867-1936)がイタリアから楽器を持ちかえった時。この頃、イタリアでは全土でマンドリン演奏が大流行していた由。とすれば、この楽器もマンドリンかもしれない。比留間の弟子には朔太郎、里美��、藤田嗣治もいたというから、藤村が演奏に接していてもおかしくない。
ちなみに比留間はマンドリンとともにクラシック・ギターも持ち帰り、日本における両者の祖となっている。
思えば幕末以来の日本列島人が懸命に移入に努めてきたのはヨーロッパの文化の中でも「大きなことば」で書かれ、話されていた部分だった。それは「任務」ではなく、「遊山」に行った荷風も同じだ。
ヨーロッパ文明の大伽藍は「大きなことば」だけでなく、「小さなことば」によって支えられていることに、我々のご先祖は気がつかなかった。「小さなことば」は聞こえず、見えず、「大きなことば」だけに夢中になった。その結果が今ここにある。
もちろん同じことはおそらく列島だけでなく、半島や大陸、あるいは他のアジア各地にも言えることなのだろう。というより、近代化を余儀なくされた非ヨーロッパ地域には、多かれ少なかれあてはまるだろう。その中で相対化することにも意義はあろうが、当面問題にしたいのは列島内での過程であり、結果だ。
そして「大きなことば」の方により気をとられることがその後今にいたるまでやんだわけではない。ただ、二十世紀も第四四半期になって、ぼくらは「小さなことば」にも耳を傾け、読みとる術を手探りするようになってきた。伝統音楽への関心はその一つの現れではある。
ここで「小さなことば」でうたわれる歌と踊りへの反応を記録しているのは、おそらく藤村が初めてではなかったか。
それで藤村がヨーロッパの「小さなことば」による文化を紹介したわけではない。ないが、あの『夜明け前』の世界を構築してゆく時に、「小さなことば」の体験が相応の役割を果たしていることは想像がつく。さらには「小さなことば」に感応する受容器を藤村が備えていたこと、それを働かせる観察力を備えていたことが、『夜明け前』創作への原動力となっただろうことも想像がつく。
この後のフランス滞在、帰朝の旅、また後年の新大陸、欧洲歴訪で「小さなことば」に対してどういう反応を記録するか、は藤村の紀行を読むポイントの一つになる。
それにしてもこの『海へ』はすばらしい。これが今読めるのは全集だけというのは、あまりにも不当な仕打ちだ。(ゆ)
一曲済んだ。音楽者の細君は亭主の冠つて居た麦藁帽子を裏返しにして、それを皆なの間へ持廻つた。買物をして港の方からそこへ帰つて来る客がある。娘は聞き手の揃ふのを見計つて復た歌ひ出した。旅で西洋の芸人なぞに逢ふのも始めてだ。思はず私は涙が迫つて来た。
島崎藤村『海へ』第一章「海へ」大正6年=1917年4月
大正2年1915年4月、神戸からフランス船エルネスト・シモンで旅立った藤村は31日間の船旅の後スエズに着き、運河を通過して地中海側の出口ポート・サイドに逹する。
「音楽者」という語の新鮮なこと。これはやはり「おんがくもの」としか読めない。
「大きな言葉」よりも「小さな言葉」を重視する藤村。市井の人びとの日常を克明に描くことで「最も弱く柔らかく、しかも最も根深く強」いものの実相を空前絶後のスケールとリアリティで読者に体験させる藤村。クラシックの声楽家の音楽は歯牙にもかけず、流浪の芸人の歌と踊りに涙する藤村。
この時のイタリア娘がうたったのがどんなうただったのかも気になるが、実際にどこの出身だったのかにも興味が湧く。今はそんなことは考えられないが、この頃は地中海北岸の音楽者たちが普通に南岸各地を放浪していたのかもしれない。イタリア半島南部やサルディニア、コルシカの音楽にあれだけアラブ音楽の色が濃いのも、アラブ人ミュージシャンたちが持ち込んだというよりは、こうした地域の音楽者たちがアラブ世界を巡業してあるいた成果なのではとも思う。
「鈴のついた楽器」はタンバリンだろう。
「マンドリン」はひょっとするとウードまたはその近縁の楽器ではないか。もっともこう書いているということは、藤村はどこかでマンドリンを見ている、すなわち演奏も聞いているはず。
マンドリンが日本に紹介されるのは、ウィキペディアによれば1901年比留間賢八(1867-1936)がイタリアから楽器を持ちかえった時。この頃、イタリアでは全土でマンドリン演奏が大流行していた由。とすれば、この楽器もマンドリンかもしれない。比留間の弟子には朔太郎、里美��、藤田嗣治もいたというから、藤村が演奏に接していてもおかしくない。
ちなみに比留間はマンドリンとともにクラシック・ギターも持ち帰り、日本における両者の祖となっている。
思えば幕末以来の日本列島人が懸命に移入に努めてきたのはヨーロッパの文化の中でも「大きなことば」で書かれ、話されていた部分だった。それは「任務」ではなく、「遊山」に行った荷風も同じだ。
ヨーロッパ文明の大伽藍は「大きなことば」だけでなく、「小さなことば」によって支えられていることに、我々のご先祖は気がつかなかった。「小さなことば」は聞こえず、見えず、「大きなことば」だけに夢中になった。その結果が今ここにある。
もちろん同じことはおそらく列島だけでなく、半島や大陸、あるいは他のアジア各地にも言えることなのだろう。というより、近代化を余儀なくされた非ヨーロッパ地域には、多かれ少なかれあてはまるだろう。その中で相対化することにも意義はあろうが、当面問題にしたいのは列島内での過程であり、結果だ。
そして「大きなことば」の方により気をとられることがその後今にいたるまでやんだわけではない。ただ、二十世紀も第四四半期になって、ぼくらは「小さなことば」にも耳を傾け、読みとる術を手探りするようになってきた。伝統音楽への関心はその一つの現れではある。
ここで「小さなことば」でうたわれる歌と踊りへの反応を記録しているのは、おそらく藤村が初めてではなかったか。
それで藤村がヨーロッパの「小さなことば」による文化を紹介したわけではない。ないが、あの『夜明け前』の世界を構築してゆく時に、「小さなことば」の体験が相応の役割を果たしていることは想像がつく。さらには「小さなことば」に感応する受容器を藤村が備えていたこと、それを働かせる観察力を備えていたことが、『夜明け前』創作への原動力となっただろうことも想像がつく。
この後のフランス滞在、帰朝の旅、また後年の新大陸、欧洲歴訪で「小さなことば」に対してどういう反応を記録するか、は藤村の紀行を読むポイントの一つになる。
それにしてもこの『海へ』はすばらしい。これが今読めるのは全集だけというのは、あまりにも不当な仕打ちだ。(ゆ)

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