年若くして文章の道に出発するほどのものは、先ず自分の持つものを粗末にしないことこそ願わしい。言葉の感覚には敏くありたい。その感覚に鈍くては文章の道には到り得ない。失敗を恐れて、試みることを躊躇するようなものも、またこの道を行き尽くせない。われら幼少の頃には、食物なぞも好き嫌いが多かったが、追々成人するにしたがって何でも食えるようになり、血気さかんに食慾も進む年頃に達しては何を食って見てもうまく、おおよその食物を選り好みするということもなかった。そういうところを通り越してからは、むしろ食を減ずるようになったが、そのかわり食物の味は増して来た。さかんに多く食うというよりは、精しく味わって食うことの方に変わって来た。文章とてもその通り、そう若いうちから、噛みしめるような味を出そうとつとめなくとも、多く読み、多く書き、そして多く忘れた後には、その人その人にそなわる味はおのずから出て来ると思う。文思、湧くがごとし。青春の時は先ずそうありたい。島崎藤村『桃の雫』(昭和11=1936.06)
ちなみに『桃の雫』の全文は青空文庫でも読める。上記『随筆集』には一部収録。念のため。
「多く読み、多く書き、そして多く忘れた後に」と書く藤村、収録書籍刊行時64歳。前年の秋に一代の傑作『夜明け前』完成。
このことは文章に限らず、およそ「芸」と呼ばれるものについてはあてはまる。音楽なら「多く聴き、多く演り、そして多く忘れた」後に、踊りなら「多く見、多く踊り、そして多く忘れた」後に、その人なりの味わいが出てくる。(ゆ)

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