あまりの面白さに一気読みに読んでしまう。それにしても、クリスチャンでもないし、パレスティナの古代史に格別の興味を持っているわけでもないのに、どうしてこうも面白く読めるのか。
ヨーロッパの文化に多少とも身を入れて興味を持っていれば、キリスト教に一定の関心を持たないわけにはいかない。そのキリスト教がどのように立ち上がってきたか、ということは確かに興味深いことではある。とりわけ、元はといえばユダヤ教内の批判勢力の一つにすぎなかったイエスの活動が、どのようにして教団として発展し、独立した宗教としてローマ世界の一角に地歩を固めてゆくか。いわゆる原始キリスト教の成立過程には、不思議な魅力がある。クリスチャンならばそれこそ「神の摂理」と言うだろうが、信者でない者にはそれではかたづけられない。そこにどういう人間がいて、どういう営みをしてそうなったか、知りたくなる。
この本はマルコ福音書が、どのような事情のもとに、どのような意図をもって書かれ、どのような思想を体現しているかを、懇切丁寧に説いている。
そこで現われてくる福音書記者としてのマルコの姿と、かれが描こうとしたイエスの姿、そしてそれをとりまく状況がまず面白い。
厳密な歴史的手法による精緻きわまる分析と、テクストの微細な綾まで読みぬく感性によって、従来の、いわば宗教の手垢のついたマルコ像、イエス像、福音書像がまず蹴散らされる。そうしてたち現われてくる、すっぴんのマルコ、イエスの姿の恰好良さはどうだろう。
ガリラヤという、古代パレスティナの中でも辺境の土に根差した、等身大のイエスが織りなすドラマ。ただしマルコによれば、存在そのものが驚くべきものであったイエスという人物の、その身の丈は通常の人のそれとはまったく比較を絶する。
そしてそのイエスを描くことによってマルコが意図した、エルサレムを象徴とする原始キリスト教内の一部への痛烈な批判。それをあくまでも福音書本文の読解に則して、冷静に具体的に記してゆく文章の背後に、現代のキリスト教への批判を読まないことは不可能だ。
マルコ福音書を護教の道具とするような誤解曲解あるいは操作を生み出すキリスト教への批判。マルコが批判している「弟子達」同様、現代のキリスト教がイエスの直系をうたいながら、実はイエスの教えを理解せず、それに「従って」いない、という批判。その教えとは、ここに示されたマルコ福音書によれば、迫害に耐え、人びとに仕える者となれ、「十字架」までその負担を担ってゆけ、というものだ。
つまりはキリスト教は勝ってしまったことで、変質したのかもしれない。それとも変質することで勝てたのか。
キリスト教とは本来、批判する者であり、したがって迫害される者であるはずだった。一部の者たちが大勢の庶民を支配し、搾取する手段と化していた当時のユダヤ教に対する批判者としてイエスは活動し、それ故に殺される。殺すしかないと相手に思わせるほど、その批判は適確痛烈であり、脅威だった。
そのイエスの教えを奉じて生まれたはずのキリスト教自体が、批判したはずのユダヤ教と同じ幣に陥り、非キリスト教徒を排除し、一部の人間による大勢の支配、搾取をめざしている。
そして、その事態は基本的に現在にいたるまで変わっていない。コンスタンティヌスの回心によってローマ帝国の事実上の国教とされて以来、キリスト教は常に支配する側に立ってきたし、今も立っている。支配される者を救うと口では言いながら、支配を正当化し、批判を抑えこむ手段として使われ、また自らその役割を積極的に担ってきた。その事実を、著者はザイールでネイティヴにキリスト教神学を教えながら叩きこまれる。
著者の批判はむろんキリスト教で止まりはしない。およそ宗教という実体、あるいは宗教と同等の役割を果たしている実体、現代の各種情報媒体(そこにはマスメディアだけでなく、インターネットをインフラとする様々なメディアも含まれる)をはじめとする実体にまで及ぶ。
マルコ福音書という古代文書の成り立ちと内容の分析という、徹頭徹尾学問的営為が、そのまま批判に直結する。そしてその学問の成果は一朝一夕になされたものではない。長い時間をかけ、膨大な作業と慎重な思索を積み重ねた末に得られたものだ。だから、この批判は事態の核心を直に射貫いている。そして磐石の重みがある。この批判に応えようとするなら、少なくとも同じくらいの時間と作業と思索を注ぎこまねばならない。
それにしても、こういう本は「神を信じないクリスチャン」にして初めて書けるものではないか、とも思う。ここで著者が批判している人びとは当然クリスチャンであり、基本的に神を信じている。クリスチャンでなければ、わざわざ苦労して新約聖書を研究するはずもない。そもそも新約聖書の成立や内容に対して問題意識を持たないのだから。批判されている内容も、信者ならばこう考えてしまうのも無理はないと思えるところも少なくない。書かれていることを冷静に読め、と著者はくり返すが、人間、心の底で信じていることを読みこまないでいることには、よほどの努力、ほとんど天才にしかできないほどの努力が必要だろう。
田川氏をクリスチャンとは認めないクリスチャンもいるが、これほど完膚なきまでに批判するのは、『キリスト教思想への招待』に明らかなようにキリスト教自体を捨てていない、捨てられないからだろう。『ルカ福音書』への註にもあるが、間違いを冒していることと、書かれていることの価値は別なのだ。
もう1回それにしても、これだけ異なる四つの福音書を全部ひっくるめて正典として採用しているキリスト教は、いったい何なのだろうか。そこにはどういう事情があったのか。どれか一つに絞ることをどうしてしなかったのか。あるいはしようとしたができなかったのか。それはなぜか。
まったく別の、時には逆のことが書いてあることでは仏典も負けてはいないが、それは仏教という宗教の本質から生まれている事態だ。キリスト教のような一神教、一つの「真理」による統一をめざす宗教にあっては、まるで違うことが書いてあるテクストをまったく同列に信仰の基礎たる正典とするなどということは、本来あってはならないはずだ。だから四福音書は本来同じことが書いてあるなどという到底ありえない無理な理屈を通さざるをえなくなる。それは違うと言うことを、それ以前に、新約聖書を歴史的に研究することを教皇庁が禁ずるなどということになる。
キリスト教とて一神教という看板は掲げながら、その実結局は多神教化してはゆく。それでもなお、この四つの書物をそろって正典とするのは、やりすぎではないか。四福音書をまとめて、しかもこの四つだけを正典とすることは、2世紀のエイレナイオスが言い出しっぺだそうだが、当然、なぜこの四つなのかも問題になる。そうした発言が出る状況はどういうものだったのか。
とすると、こうした問題意識をもって『書物としての新約聖書』を再読しなければならない。(ゆ)

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