教えられることは多い。丸山眞男と福沢諭吉はもちろんだが、アイザイア・バーリンと大佛次郎。『鞍馬天狗』とはそういう話だったのか。
    
    とはいえ、最も心に刻まれた一節。
    
    1994年09月22日、大正大学司書研修セミナーでの講演をもとにした「私の図書館体験」のなかで、敗戦後、国会図書館を軌道に乗せた中井正一について触れた文章。


    一九四七年頃かと思いますが、国会図書館の副館長として活動しておられた頃の中井さんの思い出を、鶴見俊輔氏が語っていて、たいへん面白い。
    鶴見さん自身の言葉によると、氏はその頃神経症的な心理状態に入っていて、何も書くことができずまいっていた。そこで、そのことを中井さんに相談すると、次のように答えられたということです。

    そういう時には、大きな活字で書いてある中国の歴史の本をよむがよい。国会図書館をやめろ、というビラを電信柱にはられて、いやがらせを受けたことがあってまいったが、そういう時に『資治通鑑』(宋の司馬光の撰、二九四巻)を毎日すこしずつ読むと、志を立てた人が出て何かやっては殺され、また別の人物がたって何かやって殺される歴史のリズムがつたわってきて、自分の毎日についてわりに平然として受け入れることができるような気がしてきた。
    (中略)
    (その『資治通鑑』の一節に)帝王の悪政を諫める臣下があれば、

    主上怒而煮之
    主上怒而炙之
    主上怒而裂之
    主上怒而斬之
    等々。

    助言者として政治に関与するインテリの位置あるいは運命の象徴的記述であります。これを読むと、ソクラテスが毒杯を贈られたのは、まだなまぬるい、と申せましょう。
291-292pp.


    あえて蛇足。ここで「インテリ」と呼ばれている人びとは歴史的に見れば古代から清朝までの中国知識人階級であるが、21世紀に敷衍すれば政治に関与しようとする人間は、地位、階級にかかわりなく誰にでもあてはまる。民主主義では誰でも政治に関われる一方で、民主主義にあっても権力が主権者に均等に配分されているわけではないからだ。そして権力とは人を殺してその責任を問われない権能だ。だから権力の行使には必ず人殺しが付随する。
    
    そして、何らかの形で文化活動をする人間はすべて政治にかかわっている。音楽をする、絵を描く、俳句をひねる、いや、こうしてブログを書いたり、YouTube に動画をアップしたり、U-Stream で放送したり、ついったーでつぶやくことも文化活動だ。さらにはそうした発信だけでなく、受信すること、音楽を聴く、動画を見る、文章を読む、ファッションに身を包む、いや、あるサイトにアクセスするだけでも文化活動になる。
   
    文化が政治とは関係ないと考えるのは、政治の本質を見誤るものだ。政治とははやい話、メシを喰ったり、糞をひり出したりすることも含まれる。そして文化とは何をどう喰うか、喰ったものをどうひり出すかから始まる。屋外で鼻をかむことを禁じた政権に統治される国では、屋外で鼻をかむ人間は「反政府分子」、今風にいえば「テロリスト」とみなされる。9/11の直後、FBIは図書館利用者の閲覧履歴を提出することを図書館に求めようとした。
   
    つまりは今のような「リセット」の時期にあっては、誰もが「インテリ」にならざるをえない。当人の意志にかかわりなく、生きようとただあがくことだけで、政治に関わる「インテリ」とみなされる。
    
    となれば、「畳の上で死ぬ」よりも、権力を保持する者に殺されてなお史書に名が残るほどの何かをするのも一興ではある。「畳の上」で死のうが、処刑台の上で八つ裂きにされて死のうが、死ぬことに変わりはない。スティーヴ・ジョブズの死に妹が見てとったように、人間にとって死ぬことは畢竟一種の「苦行」、一歩一歩階段を登るように達成することなのだから。(ゆ)