大腸がん切除のための開腹手術を受けてからちょうど1年たった。
傷口は半分ほどは消えている。最終的には薄く色が着いた線が残るくらになるのだろう。
消化機能も問題なく、毎日おおむね快便。便の色も良い。
このところ、抗がん剤にも慣れたか、点滴の間隔が長いのでうまく調節できているのか、体がひと頃よりも軽い。来月の検査の結果が良いものである可能性が、少しは高くなっていることを期待している。
1年たってみて、あらためて、生きながらえた、と実感する。消化管ががんでほぼ完全にふさがれていたのだから、点滴という技術がなければ、必要な栄養もとれず、餓死していたはずだ。貧血の方も、輸血ができない時代/地域であったならば、改善されたはずもない。どちらにしても、1年などはとうてい保たず、昨年の夏までにはおさらばしていただろう。いや、樹々がやわらかい緑に芽吹くのも見られなかっただろう。
手術前には、最悪の場合、余命2年と言われた。幸い、結果は最善で、どうやら最低でもあと4年は生きられそうだ。精進すれば、もう少し長く行けるだろう。とはいえ、1時間に1回胸のレントゲンを撮られるのに相当する、ないしそれ以上の量の放射線を1日24時間、365日浴びているわけだし、内部被爆も完全に防ぐことはできない。だから、生きている間、まっとうな暮らしが続けられるという保証はどこにも無い。免疫力を上げる食事をとり、くつろぎ、笑って免疫力を増やし、適度の運動をして体力を養うしかない。
とまれ、今は、文字どおりの「余生」、おまけの寿命、ということになる。
生きながらえたとして、それが良いこととかぎらないのは無論だ。これからもっとひどい体験、大きな苦痛がやってくる可能性は高い。あの時、死んでいた方がマシだった、と思うこともありえる。
とはいうものの、なのだ。くたばってしまうよりは、生きてその苦痛を耐えしのぶ方を、選べるものなら選びたい。死にそこなってみると、そう思える。1年でも生きながらえたことを、心底、ありがたいと思う。
死に対する態度として、ひとつの理想は、塩野七生が『神の代理人』で描くところの、教皇アレッサンドロ六世、「史上最悪の教皇」と悪評高いロドリーゴ・ボルジアのものだ。
今生きている時間は「余生」なのだから、何をやろうと最初から「無駄」だし、「未完成に終わる」ことも目に見えている。だから、あせる心配はまず無いだろう。
一度、死の淵を垣間見てしまうと、「犬のように」生きることも当然になる。
とすれば、少しはこの理想に近づけたのかもしれない。
さらにその元をたどれば、がんのおかげ、とも言える。
手術日から10日後に東日本大震災が起きた。ベッドに寝ていると、揺れがよくわかる。揺れだしてすぐ「地震だ」と吾知らず声にだして言っていた。ふだんそんなことは言わないのに。
震災は列島を、この「世界」を根柢から変えた。この1年、列島の住民の大半は、何も変わっていないと自らに思いこませようとしてきたようにみえる。しかし、「黒船」が来てしまった世界はもう元にはもどれない。ことばの本来の意味での「復興」は、この複合災害では不可能だ。
前回、列島が蒙った複合災害、太平洋戦争による荒廃では「山河」は残っていた。今回はその「山河」が壊れた。と姜尚中氏は言う。視点を変えて言い換えれば、かつて都市部にとって太平洋戦争が意味したことを、震災は東日本の農村にとって意味しているのだろう。しかも今回の方が、空間的にも規模が大きく、時間的にもより長期にわたる。
大腸がんは、この個人を変えた。どう変わったか、どの程度変わったかは、自分ではわからないが、変わっていることはわかる。今のところ変わったとわかるのは、何でもゆっくりやるようになった。
元来は短気でせっかちな方で、結果もすぐ出ないとキレてしまう。ものごとはさっさとかたづけ、できるだけフリーに使える時間を確保しようとしていた。それで確保した時間をさてどれだけ活用できるかは二の次だった。
きっかけは抗がん剤の副作用である。とりわけ点滴から帰った直後などは体が重い。ささいなことでもゆっくりとしかできない。一応日常生活に支障がないレベルまで回復しても、空気が粘着性になったような、あるいは水の中を動くような感じでしか動けない。そうなってみると、それはそれでいいじゃないか、と思えだす。まあ、思わざるをえない。なにしろ、ささっとやろうとしても、体も心も全然反応しない。しようとしているのかもしれないが、実際にはできていない。だから、日常の暮らしのごく細かいことからして、ゆっくりと着実にするようになった。
そうしてみると、これがなかなか気持ち良いのである。時間をかけるから、ていねいにやるようにもなる。やりそこなって、舌打ちしながら同じことを繰り返すことも減る。同じことをもう一度やらなければならないのは、結構苛立つ。それがささいな、とるにたらないことだったりすると、よけい腹が立つ。これはカラダにもココロにも良くはない。免疫力も落ちる。それが減るから、ますます気持ち良い。
さらに、たとえ失敗しても、あまり気にならなくなった。いくらゆっくりと着実にやろうとしても、まちがったり、やりそこなったりすることは度々起こる。この Folfox という抗がん剤は有効成分に末梢神経に対する毒性をもつものがある。それで手足が痺れるという副作用が出るが、それだけではないだろう。神経そのものも多少とも影響を受けるはずで、痺れは漢方薬で軽くなっても、神経全体の働きは鈍くなる。それを受ける体の動きも鈍い。失敗も多くなるのだ。
それが気にならない。失敗するのも当然と思えるようになった。それは薬のせいで、いわば「自己責任」ではない、と思えるからだろうか。そういうところも無いとは言えないが、それだけではない開き直りもあるように思える。人間なんだから、失敗するのはあたりまえ。失敗したらまたやりなおせばいい。何度でも、やりなおしましょう、できるまで。どうしてもできなかったら、他のやり方を試しましょう。そういう気構えが起きるようになった。
ちょっと不思議なことではある。
近頃、気がつくと歩く速度が速くなっていたりするが、そういう時 は、意識して速度を落とすようにしている。意識しないとゆっくりにならないのは、それだけ体が回復してきたか、薬に慣れてきたのだろう。
内と外と、二重の大きな、ひょっとすると根柢からの変化の過程は、まだ始まったばかりだろう。その変化の行く末を実感するぐらいは、この先も生きながらえたい。この世で何が面白いといって、変化のプロセスの現場に立会い、目の当たりにすることほど面白いことはない。
たとえ、苦痛のさなかに死んでゆくことになるにしても、やっぱりこの人生面白かったなあ、と思いながら死んでゆきたいと願う。(ゆ)
傷口は半分ほどは消えている。最終的には薄く色が着いた線が残るくらになるのだろう。
消化機能も問題なく、毎日おおむね快便。便の色も良い。
このところ、抗がん剤にも慣れたか、点滴の間隔が長いのでうまく調節できているのか、体がひと頃よりも軽い。来月の検査の結果が良いものである可能性が、少しは高くなっていることを期待している。
1年たってみて、あらためて、生きながらえた、と実感する。消化管ががんでほぼ完全にふさがれていたのだから、点滴という技術がなければ、必要な栄養もとれず、餓死していたはずだ。貧血の方も、輸血ができない時代/地域であったならば、改善されたはずもない。どちらにしても、1年などはとうてい保たず、昨年の夏までにはおさらばしていただろう。いや、樹々がやわらかい緑に芽吹くのも見られなかっただろう。
手術前には、最悪の場合、余命2年と言われた。幸い、結果は最善で、どうやら最低でもあと4年は生きられそうだ。精進すれば、もう少し長く行けるだろう。とはいえ、1時間に1回胸のレントゲンを撮られるのに相当する、ないしそれ以上の量の放射線を1日24時間、365日浴びているわけだし、内部被爆も完全に防ぐことはできない。だから、生きている間、まっとうな暮らしが続けられるという保証はどこにも無い。免疫力を上げる食事をとり、くつろぎ、笑って免疫力を増やし、適度の運動をして体力を養うしかない。
とまれ、今は、文字どおりの「余生」、おまけの寿命、ということになる。
生きながらえたとして、それが良いこととかぎらないのは無論だ。これからもっとひどい体験、大きな苦痛がやってくる可能性は高い。あの時、死んでいた方がマシだった、と思うこともありえる。
とはいうものの、なのだ。くたばってしまうよりは、生きてその苦痛を耐えしのぶ方を、選べるものなら選びたい。死にそこなってみると、そう思える。1年でも生きながらえたことを、心底、ありがたいと思う。
死に対する態度として、ひとつの理想は、塩野七生が『神の代理人』で描くところの、教皇アレッサンドロ六世、「史上最悪の教皇」と悪評高いロドリーゴ・ボルジアのものだ。
サヴォナローラの説教の中に、人間の一生はすべて、いかに良き死に方をするか、その一事のためにのみ存在する、という一句があった。だが、私は別の言葉が気に入っている。古のユダヤ人の言ったという「生ける犬は、死せる獅子にまさる」。
私も、いくつかのことをやり遂げたうえで死にたいと思っている。だが、もしその途中で、神が、おまえの生命は終ったと言われたとしたら、私は、やりかけている仕事をそのままにして、神の御召に応じるだろう。仕事の未完成を嘆かず、自分の運命も呪わずに。
だがそれまでは、犬のようにでも生きるつもりだ。私は、必ず訪れてくる死を常に考えているほど、自虐的には出来ていない。死が肩をたたいた時は、自分を彼の手にまかせるだろう。しかし、それまでは生き続け、自分の仕事をやり続けていくつもりだ。
犬のように生きるのだから、「良き死」とか、どういう死に方をしようかなどということには心を使わない。たとえ、路傍で野たれ死にしようとも、悪評の中に死のうとも、また、死後に後世の非難攻撃を受けようとも、私には少しも関係のないことなのだ。
大切なことは、決してあせってはならないということだ。反対に危険なことは、自分のやっていることが無駄なことかもしれないとか、未完成に終るかもしれないと思いだし、それではならないと考えた末、あせって思いつめてしまうことである。
今生きている時間は「余生」なのだから、何をやろうと最初から「無駄」だし、「未完成に終わる」ことも目に見えている。だから、あせる心配はまず無いだろう。
一度、死の淵を垣間見てしまうと、「犬のように」生きることも当然になる。
とすれば、少しはこの理想に近づけたのかもしれない。
さらにその元をたどれば、がんのおかげ、とも言える。
手術日から10日後に東日本大震災が起きた。ベッドに寝ていると、揺れがよくわかる。揺れだしてすぐ「地震だ」と吾知らず声にだして言っていた。ふだんそんなことは言わないのに。
震災は列島を、この「世界」を根柢から変えた。この1年、列島の住民の大半は、何も変わっていないと自らに思いこませようとしてきたようにみえる。しかし、「黒船」が来てしまった世界はもう元にはもどれない。ことばの本来の意味での「復興」は、この複合災害では不可能だ。
前回、列島が蒙った複合災害、太平洋戦争による荒廃では「山河」は残っていた。今回はその「山河」が壊れた。と姜尚中氏は言う。視点を変えて言い換えれば、かつて都市部にとって太平洋戦争が意味したことを、震災は東日本の農村にとって意味しているのだろう。しかも今回の方が、空間的にも規模が大きく、時間的にもより長期にわたる。
大腸がんは、この個人を変えた。どう変わったか、どの程度変わったかは、自分ではわからないが、変わっていることはわかる。今のところ変わったとわかるのは、何でもゆっくりやるようになった。
元来は短気でせっかちな方で、結果もすぐ出ないとキレてしまう。ものごとはさっさとかたづけ、できるだけフリーに使える時間を確保しようとしていた。それで確保した時間をさてどれだけ活用できるかは二の次だった。
きっかけは抗がん剤の副作用である。とりわけ点滴から帰った直後などは体が重い。ささいなことでもゆっくりとしかできない。一応日常生活に支障がないレベルまで回復しても、空気が粘着性になったような、あるいは水の中を動くような感じでしか動けない。そうなってみると、それはそれでいいじゃないか、と思えだす。まあ、思わざるをえない。なにしろ、ささっとやろうとしても、体も心も全然反応しない。しようとしているのかもしれないが、実際にはできていない。だから、日常の暮らしのごく細かいことからして、ゆっくりと着実にするようになった。
そうしてみると、これがなかなか気持ち良いのである。時間をかけるから、ていねいにやるようにもなる。やりそこなって、舌打ちしながら同じことを繰り返すことも減る。同じことをもう一度やらなければならないのは、結構苛立つ。それがささいな、とるにたらないことだったりすると、よけい腹が立つ。これはカラダにもココロにも良くはない。免疫力も落ちる。それが減るから、ますます気持ち良い。
さらに、たとえ失敗しても、あまり気にならなくなった。いくらゆっくりと着実にやろうとしても、まちがったり、やりそこなったりすることは度々起こる。この Folfox という抗がん剤は有効成分に末梢神経に対する毒性をもつものがある。それで手足が痺れるという副作用が出るが、それだけではないだろう。神経そのものも多少とも影響を受けるはずで、痺れは漢方薬で軽くなっても、神経全体の働きは鈍くなる。それを受ける体の動きも鈍い。失敗も多くなるのだ。
それが気にならない。失敗するのも当然と思えるようになった。それは薬のせいで、いわば「自己責任」ではない、と思えるからだろうか。そういうところも無いとは言えないが、それだけではない開き直りもあるように思える。人間なんだから、失敗するのはあたりまえ。失敗したらまたやりなおせばいい。何度でも、やりなおしましょう、できるまで。どうしてもできなかったら、他のやり方を試しましょう。そういう気構えが起きるようになった。
ちょっと不思議なことではある。
近頃、気がつくと歩く速度が速くなっていたりするが、そういう時 は、意識して速度を落とすようにしている。意識しないとゆっくりにならないのは、それだけ体が回復してきたか、薬に慣れてきたのだろう。
内と外と、二重の大きな、ひょっとすると根柢からの変化の過程は、まだ始まったばかりだろう。その変化の行く末を実感するぐらいは、この先も生きながらえたい。この世で何が面白いといって、変化のプロセスの現場に立会い、目の当たりにすることほど面白いことはない。
たとえ、苦痛のさなかに死んでゆくことになるにしても、やっぱりこの人生面白かったなあ、と思いながら死んでゆきたいと願う。(ゆ)
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