ギネスの哲学――地域を愛し、世界から愛される企業の250年    久しぶりに翻訳した本が出ます。
    
    題して、『ギネスの哲学』。
    
    といっても別に難しいものではなく、要は、儲けたものはシェアしようよ、ということ。
    
    長谷川眞理子氏によれば、生物としてのヒトは集団を作ることで初めて生存できるのだそうで、確かに、まったく単独で生きられる人間はいません。集団を作り、得たものを分けあうことでようやく生きつづけることができる。
    
    現代の人間の生活様式が、ヒトとしての根本的性質から外れてしまったことから諸々の問題が生じているわけで、カネというシステムなんかもその典型。カネを儲けると、それを自分の力だけで手に入れたと勘違いしてしまう。それだけならまだしも、だからってんで、自分だけで独占しようとする人が多い。
    
    「リーマン・ショック」に象徴される「強欲資本主義」(というのも冗長な呼称ですな)はその行きついた姿で、「オキュパイ・ウォール・ストリート」の運動が起きない方がおかしい。
    
    著作権をめぐる軋轢なんかも、著作物が生みだす利益を(著作者と同一とは限らない)著作権者が独占しようとするから起きる、とぼくなどは見ています。
    
    で、ギネスの話です。
    
    ギネスはアイルランド独自の産物ということでは伝統音楽と肩をならべます。生まれるのが18世紀後半というのも、現在の形の伝統音楽とほぼ同時期です。ギネスそのものを生みだしたのはプロテスタントですが、そのビールを愛し、育んだアイルランドの人びとの圧倒的多数はカトリックでした。その結果、ギネスはアイルランドのビールとなり、やがて大英帝国のビールとなり、ついには世界のビールになります。この道筋も伝統音楽が後を追っていますね。
    
    当然その過程でギネス社は大いにカネを儲けます。歴代経営者は当時の英国最大の大金持ちになります。かれらは儲けたカネをどう使ったか。
    
    並の経営者なら、儲けたカネをさらに増やすことだけを考えて投資するでしょう。あるいはバブル期のわが国の企業のように、有名な美術品をやたら買い込んだりすることもあります。
    
    ギネスの人びとは違いました。
    
    もちろん、実際の使い方は時代によって違いますが、基本方針としては儲けたカネをシェアしたのです。今風に言えば「利益の社会還元」ということになるんでしょうが、そのやり方はハンパではなかった。従業員の福利厚生(これがまた凄い。一例をあげればデートの費用まで会社が負担した)はもちろん、工場周辺の住民の健康促進、ダブリン市全体の貧困対策、さらにはアイルランド全体を対象とした文化振興や福祉事業と、留まるところを知らない、と言ってもいいくらい、気前良くカネを注ぎこみました。「バラ撒き」というのは、今のわが国では公的なカネの使い方としては良くないイメージがありますが、ギネス社のカネの使い方は頼まれると「ノー」とは言えないんじゃないかと思えるくらいです。
    
    中には従業員対策として行なったことが思わぬ広がりを持ち、アイルランドの未来を具体的な姿として提示し、その行方を左右することになった例もあります。19世紀末から20世紀前半にかけてギネス社の専属医師だったドクター・ラムスデンの事績は、持てる者が得たものを分け合うことでどれほどのことが可能になるか、まざまざと示しています。
    
    翻訳する対象に感情的に入れこんでしまうのは「プロ」としては失格なのでしょうが、このドクター・ラムスデンの活動を描いたところは、下読みをした時も、実際に翻訳している時も、校正で何度も読みなおした時も、その度にいつも涙が浮かんでくるのを止めることができませんでした。こうして書いているだけでも、胸が熱くなります。
    
    つまりギネス社は儲けたものを分け合う、シェアすることで「世界を変えた」のです。「世界を変える」のは悪い方へ変える場合もあるわけですが、普通はより良い方へ、涙が減り、笑顔がより増える方へ変えることであります。
    
    この本はそうしたギネスが生まれ、育ち、ついには世界最大のアルコール飲料企業になりながら、「世界を変え」てゆく、その過程を生き生きと描いたものです。
    
    なにせ、大好きなギネスが、ただ旨いだけでなく、「世界を変え」てもいた、というのは嬉しい話で、ぼくとしてはまことに楽しい仕事でした。病気でやむなく中断していた間も早く再開したくてうずうずしていました。唯ひとつ、残念なのは、ギネスと音楽、とりわけ伝統音楽との関りにほとんどまったく触れられていないこと。ですが、それはギネスが間接的に「世界を変え」てゆく話で、そういうことまで含めれば、話は音楽に限られないでしょうから、とても一冊の本で語りきれるものではなくなってしまいます。
    
    というわけで、この次ギネスを飲みながらこれを繙けば、旨いギネスが一層旨くなります。ギネス2杯半分ですが、それ以上の「旨味」があることは保証します(^_-)。
    
    刊行を記念してちょっとしたイベントをやります。明後日の日曜日、という急な話ですが、東京・新宿の「ベルク」というカフェで、14:00からトークとアイリッシュ・ミュージックのミニ・ライヴがあります。演奏はフィドルの西村玲子さんとイルン・パイプの内野貴文さん。西村さんはこの本のカバーのイラストも描いてくださいました。さすがに雰囲気出てます。お二人とも生を聴くのは初めてなので、ぼくも楽しみです。
    
    他にも二、三、イベントを企画してます。ギネスを飲みながら、ライヴを聴くという形になると思います。
    
    ということで、『ギネスの哲学』をよしなに。(ゆ)