トリニテの音楽は予備知識なしでそのまま丸ごと呑みこむのが肝心だ。何かに似ているとか、こういうものだとか、なんらかの予備知識をもって臨むのは、その魅力を半分以下にする。

 とはいえメンバーを見て、どういうことをこれまでやってきているかを知れば、少なくとも、こうはならないだろうという見当はつく。たとえばの話、へびめたにはならないだろうし、重低音が響くクラブ・サウンドにもなるまい。来年には忘れられているチャート狙いの計算された製品でもないはずだ。

 にもかかわらず。

 実際にライヴに接してみると、そうした予想はことごとく裏切られることになった。トリニテの音楽はジャンルを超えるとか、ジャンルにあてはまらない、というのではない。あらゆるジャンルを横断し、内蔵しているのだった。へびめたもクラブ・サウンドも、ムード音楽も、チャート・ポップスすらそこには含まれる。

 ただし、すべては換骨奪胎されて原型をとどめない。トリニテの音楽の一部に溶け込んで生まれ変わっている。

 その全体はといえば、精妙で大胆で変幻常なく、演奏が終わった後も別の次元にまで伸びてずっと続いている。そう、sheezo さんがふと口にされたサグラダ・ファミリアのように。ゲストのヴィヴィアン佐藤氏が話されていた、どこにでもできる建築のように。確固とした実体でありながら、ひとつところに留まらない。行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。そしてまたそれは液体ではなく、むしろ固体と呼ぶべき存在感をたたえ、同時に虹にも似た霊妙で遊離した位相をも備えている。

 音楽という運動にできることを、ある極限までとことんつきつめようとする。そうした志向では、たぶんジャズと呼ばれる音楽と共通するところが一番多い。聴いているうちに浮かんできたのは、一番近いのは近年のジョン・ゾーンではないか。音楽そのものが近いのではなく、立ち位置と志向が近い。

 要素としてはここではユダヤ音楽はあったとしてもごく薄い。かわりに日本的な、「子守唄音階」のような、あるいは民謡のような響きがどこかで常に流れている。この違いは当然のことでもある。加えて、ジョン・ゾーンの方が我が強そうだ。そうした違いを超えて、トリニテとジョン・ゾーンのめざすところと、その結果生まれているものは共鳴しているように聞こえる。あるいはそれは21世紀はじめの時空と真向から切り結ぶ音楽として、当然のことかもしれない。

 一方でジョン・ゾーンがあくまでどこかでジャズをひきずっている、という言い方が不適当ならば、ジャズにみずからをつなぎとめているのに対して、トリニテにとってジャズはツールのひとつだ。便利で最も強力なもののひとつではあっても、不可欠ではない。

 その上で、トリニテの音楽は、まっさらの状態で聴いてこそ、真価を発揮することを、もう一度確認しておく。

 前半は《prayer》には入っていない曲ばかり5曲。後半はヴィヴィアン佐藤氏のトークとスライドショーから、《prayer》全曲の演奏。それにアンコールに次作《月の歴史》のための新曲。

 前半の各曲はかならずしも新しい作品というわけではなかったようだ。どれもよく練りこまれて、今すぐ次の録音を出してもいいと思われた。とはいえ、後半の演奏は圧倒的だった。パッケージでの演奏から一段とテンポをゆっくりにおとし、タメを効かせてじっくりと進ませる。曲によってはアレンジをまったく変えて、まるで別の曲に変身させている。

 録音ではわからない作曲された部分と演奏者にまかされた即興の部分の区別が、ライヴではよくわかる。といってもがらりと様相が変わるのではもちろんない。演奏者の表情や音楽そのものの録音との違いからそれと分別される。全体に岡部氏の打楽器は控え目で、もう少ししゃしゃり出てもよいのではないか、と思えた。

 不満といえばそれくらいで、最初から最後まで、これ以上の音楽体験はありえない、という感覚がずっと続いた。

 壷井さんは、一昨年秋の Tokyo Irish Generation レコ発ライヴでオオフジツボの一員として見ているが、あの時は遠かったこともあって、あまり印象が残っていない。今回は目の前で、たっぷりと演奏を味わうことができた。おそらくクラシックの訓練をみっちり積まれたのだろうが、演奏している姿はまことに端正で無駄がなく、出てくる音とは対照的ですらある。

 小森さんは渋さ知らズで見ているはずだが、あそこではやはり大所帯の一員で見分けがつかなかったらしい。録音よりも出番が多かったし、楽器の特性からか、演奏する姿も壷井さんよりもむしろワイルド、その上お茶目なところもあって、見ていて楽しくなる。

 岡部さんは楽譜を見ながら演奏することが多く、かなり綿密に作曲されているらしい。一方で、このバンドの要はやはり打楽器なのだと確認できた。

 sheezo さんのピアノは音楽の土台を据えているのだが、坦々と弾いているわけでもなく、どっしり構えているというのでもない。姿だけだとむしろ即興でやっているようにすらみえる。他の3人の即興以上にスポンテイニアスなところもあって、トリニテの音楽の変幻自在な性格はそこから生まれているようでもある。

 演奏する姿は皆クールで、リラックスして、かたくるしいところもしゃちこばったところもまるでない。にもかかわらず、あるいはそれ故にというべきか、音楽そのものは緊迫感に満ちている。頭から落ちてくるものを間一髪避けていく、あるいは片端から崩れてゆく吊り橋を駆けわたっていく緊張感が張りつめている。一方でその危機自体を楽しみ、自ら引きよせているようでもある。そして、一番底の方にはひと筋のユーモアが絶えず流れている。

 清も濁も、旨味も苦味も、快感も痛みも、すべて呑みこんで、しかもおそろしく純度が高い。神々の飲み物、不老不死の妙薬はこういうものか。

 ほんとうに良いものとは、プラスの要素だけでできているのではない。プラスとマイナスと両方を備え、なおかつ充足した悦びを与えるものなのだ。

 これはおそらく、広い会場で大勢の聴衆のなかでは味わえない。ステージと客席の区別がほとんどない空間で、少数の、音楽自体に選ばれた者のひとりとして、初めて体験できることなのだ。ぼくが音楽を聴くのではない。音楽がぼくに流れこむ。そして何か別のものに変える。

 どこまでも個別、自分だけの体験であると同時に自我をかたちづくるかりそめの壁、自意識とか、世間とか、あるいは民族とか組織といった抽象的な束縛が雲散霧消して、広いところにほおり出される。ただ一人ほおり出されながら、すべてとつながっている。そこにはぼくだけしかいないのに、孤独でもなく、孤立してもいない。かぎりなく広く大きく活発なネットワークを織りなすノードのひとつになっている。一つひとつのノードをつないでいるのが音楽だ。音でありフレーズであり静寂であり全体である。

 人間が生きるのは、こういう体験を味わうためなのだ。「安心」や「安全」のためではない。ましてや「安定」でもない。そんな「安易」なものは、人類が生まれてこの方、手に入れた者は無かったし、今もいないし、これからも出現しないだろう。そうしたものは人間とは相容れない。かろうじてバランスをとりながら崖っぷちを渡ってきたので、それこそが人間をここまで生き延びさせてきた。これからもうまく落ちないで渡っていかれるかどうかはむろんわからない。しかし、それをやめてしまえば、その瞬間に人間は消滅することは確かだ。

 良い音楽は、そのことをもう一度、心に刻んでくれる。それをかみしめた夜だった。(ゆ)