三連荘の初日。
隆慶一郎はそのエッセイで、小林秀雄の「幻のスピーチ」について一度ならず触れている。小林の恩師、東大仏文の名物教授辰野隆退官記念講義で弟子代表として送別の辞に立った小林が感極まり、最初の一節だけで後が続かず降壇した。一瞬静まりかえった講堂は、次の瞬間割れんばかりの拍手が満たした。その時その場に居合わせた人間だけが体験できたそのできごとを記して隆は言う。
週末夜の吉祥寺。ポール・ブレディの1年ぶりのライヴというのにやけに客が少ないフロアで、最初の1曲が終わったとき、その一節が浮かんだ。
隆の書くごとく、不遜といわれてもやむをえないだろう。それでも、その感動、いや感動などということばではとうてい汲みつくせない、存在の根柢からゆさぶられる感覚はそういう想いが出てきても不思議はない、いや、出てこなくてはおさまらないものだった。そしてその感覚は、しずまるどころかどんどん強くなり、アンコールではとうとう限界を超えてしまった。流行りの表現を借りれば、なにかが降りてきていた。それもポールだけにではなく、ステージの上だけでもなく、客席にも、店内の空間そのものにも、降りてきていた。その時その場かぎりの、空前にして絶後の体験。そこにいあわせた者にしかわからない、どう伝えようもない体験。およそ人として可能なかぎりの至上の体験。これ以上は踏みこんだら最後もどってはこれない絶対領域。ブラックホールのシュヴァルツシルド面、事象の地平線の彼方に行ってしまうだろう、その寸前。そこに居合わせた人間にできることは、ただそういうことがあった、と記録することだけだ。隆慶一郎とて、「幻のスピーチ」の概要は記録できても、その時の体験を伝えることはできなかった。
そのできごとの成立に貢献していたのは、サウンドの良さだ。ふつうのマイクとは違う、録音スタジオで見るようなマイクが2本、ステージ中央に立てられていて、ポールも山口さんも、特にマイクに近寄らなくてもヴォーカルもギターも適度に増幅される。そのバランスと音質の極上なこと。
スター・パインズも含め、マンダラ系のライヴハウスはどこも音が良いが、その水準に比べても格段に良い。
マイク位置に縛られないから、ポールはかなり自由に動ける。それが最も発揮されたのは〈Nothing but the same old story〉。1980年代半ば、ブリテンで過ごした体験から生まれたこのうたは、第二次大戦中から戦後にかけてアイルランドからブリテンに渡った移民たちが置かれた情況とそこから生まれる想いをうたっている。ポールはまさにその移民の一人になりきってうたう。ほとんど演劇の範疇だ。このうたのこんな演唱は初めてだし、それはまたベストのパフォーマンスでもある。
PAシステムの音質の良さが発揮されるのは、まずなによりポールの声だ。力強く、大きくふくらみ、深く響くその声は、聞く者の全身を包みこみ、胸にするりと入りこみ、内側から満たしてくる。その快感はオルガスムスに近づく。音楽を、うたを、人間の声を聴くことの悦びが凝縮している。
そしてギター。単にうまいだけではない。ポールはギターの限界に正面きって対峙し、突破をはかり、そうしてギターの限界をおし広げる。それも楽器としてギター単体だけではなく、うたとの組合せ、相互作用においてやってのける。うたとアコースティック・ギターの組合せの潜在能力、可能性をひとつの極限まで展開している。ストローク、アルペジオ、単音演奏、リズム、メロディ、カウンターメロディ、ハーモニー、あらゆるスタイルと位相が一体となるめでたさよ。
そのすべてが今年66歳になる人間から生みだされていることをあらためて思うとき、驚きはさらに増す。先日のドーナル・ラニィもそうだったが、こいつらに老化ということは起きないのか。それとも音楽は人を若返らせるのか。よい年のとりかた、とか、円熟の味わいとか、枯淡の境地とかいうものとは、まるで無縁の音楽ではないか、ここで鳴っているのは。
あと20年ぐらいしたら、山口さんもこうなれるだろうか。その可能性は小さくないと思うが、その頃にはもうこちらはいない。
終演直後、これはこのままでは終われない、と思った。もう一度来なくてはならない。明日は無理だが、日曜日はなんとかしよう。
しかし、一夜明けて、想いなおした。あんなことを体験したら、むさぼってはいけない。明日はもっと良くなるだろう。それは確実だ。だが、それをも体験してしまえば、昨日のような体験を時をおかず再びしてしまっては、おそらく限界を超えてしまう。自分の許容量はそう大きくはない。はじめから三連荘通うつもりで準備している時とは違う。容量を超えるものを注がれると、感覚は麻痺する。すでに入っているものも壊れ、変質し、すべてが失われる。昨日の体験をたいせつにするために、今回はもう見まい。
代わりにポールのこれまでの録音を聴きかえそう。山口さんの録音を聴きかえそう。次にそなえるために。(ゆ)
隆慶一郎はそのエッセイで、小林秀雄の「幻のスピーチ」について一度ならず触れている。小林の恩師、東大仏文の名物教授辰野隆退官記念講義で弟子代表として送別の辞に立った小林が感極まり、最初の一節だけで後が続かず降壇した。一瞬静まりかえった講堂は、次の瞬間割れんばかりの拍手が満たした。その時その場に居合わせた人間だけが体験できたそのできごとを記して隆は言う。
ここにいないやつはかわいそうだな。
週末夜の吉祥寺。ポール・ブレディの1年ぶりのライヴというのにやけに客が少ないフロアで、最初の1曲が終わったとき、その一節が浮かんだ。
隆の書くごとく、不遜といわれてもやむをえないだろう。それでも、その感動、いや感動などということばではとうてい汲みつくせない、存在の根柢からゆさぶられる感覚はそういう想いが出てきても不思議はない、いや、出てこなくてはおさまらないものだった。そしてその感覚は、しずまるどころかどんどん強くなり、アンコールではとうとう限界を超えてしまった。流行りの表現を借りれば、なにかが降りてきていた。それもポールだけにではなく、ステージの上だけでもなく、客席にも、店内の空間そのものにも、降りてきていた。その時その場かぎりの、空前にして絶後の体験。そこにいあわせた者にしかわからない、どう伝えようもない体験。およそ人として可能なかぎりの至上の体験。これ以上は踏みこんだら最後もどってはこれない絶対領域。ブラックホールのシュヴァルツシルド面、事象の地平線の彼方に行ってしまうだろう、その寸前。そこに居合わせた人間にできることは、ただそういうことがあった、と記録することだけだ。隆慶一郎とて、「幻のスピーチ」の概要は記録できても、その時の体験を伝えることはできなかった。
そのできごとの成立に貢献していたのは、サウンドの良さだ。ふつうのマイクとは違う、録音スタジオで見るようなマイクが2本、ステージ中央に立てられていて、ポールも山口さんも、特にマイクに近寄らなくてもヴォーカルもギターも適度に増幅される。そのバランスと音質の極上なこと。
スター・パインズも含め、マンダラ系のライヴハウスはどこも音が良いが、その水準に比べても格段に良い。
マイク位置に縛られないから、ポールはかなり自由に動ける。それが最も発揮されたのは〈Nothing but the same old story〉。1980年代半ば、ブリテンで過ごした体験から生まれたこのうたは、第二次大戦中から戦後にかけてアイルランドからブリテンに渡った移民たちが置かれた情況とそこから生まれる想いをうたっている。ポールはまさにその移民の一人になりきってうたう。ほとんど演劇の範疇だ。このうたのこんな演唱は初めてだし、それはまたベストのパフォーマンスでもある。
PAシステムの音質の良さが発揮されるのは、まずなによりポールの声だ。力強く、大きくふくらみ、深く響くその声は、聞く者の全身を包みこみ、胸にするりと入りこみ、内側から満たしてくる。その快感はオルガスムスに近づく。音楽を、うたを、人間の声を聴くことの悦びが凝縮している。
そしてギター。単にうまいだけではない。ポールはギターの限界に正面きって対峙し、突破をはかり、そうしてギターの限界をおし広げる。それも楽器としてギター単体だけではなく、うたとの組合せ、相互作用においてやってのける。うたとアコースティック・ギターの組合せの潜在能力、可能性をひとつの極限まで展開している。ストローク、アルペジオ、単音演奏、リズム、メロディ、カウンターメロディ、ハーモニー、あらゆるスタイルと位相が一体となるめでたさよ。
そのすべてが今年66歳になる人間から生みだされていることをあらためて思うとき、驚きはさらに増す。先日のドーナル・ラニィもそうだったが、こいつらに老化ということは起きないのか。それとも音楽は人を若返らせるのか。よい年のとりかた、とか、円熟の味わいとか、枯淡の境地とかいうものとは、まるで無縁の音楽ではないか、ここで鳴っているのは。
あと20年ぐらいしたら、山口さんもこうなれるだろうか。その可能性は小さくないと思うが、その頃にはもうこちらはいない。
終演直後、これはこのままでは終われない、と思った。もう一度来なくてはならない。明日は無理だが、日曜日はなんとかしよう。
しかし、一夜明けて、想いなおした。あんなことを体験したら、むさぼってはいけない。明日はもっと良くなるだろう。それは確実だ。だが、それをも体験してしまえば、昨日のような体験を時をおかず再びしてしまっては、おそらく限界を超えてしまう。自分の許容量はそう大きくはない。はじめから三連荘通うつもりで準備している時とは違う。容量を超えるものを注がれると、感覚は麻痺する。すでに入っているものも壊れ、変質し、すべてが失われる。昨日の体験をたいせつにするために、今回はもう見まい。
代わりにポールのこれまでの録音を聴きかえそう。山口さんの録音を聴きかえそう。次にそなえるために。(ゆ)
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