来週 04/21(日)午後、Winds Cafe でやる予定の「もう一つのチーフテンズ」の予告篇です。


04/21(日) 午後1時半開場
東京・西荻窪 TORIA Gallery トリアギャラリー
入場無料(投げ銭方式) 差し入れ大歓迎!(特にお酒や食べ物)

*出入り自由ですが、できるだけ開演時刻に遅れないようご来場ください。

13:30 開場
14:00 開演
17:00 パーティー+オークション


 以下の文章は前々回の来日の際、来日記念盤として出たベスト盤《エッセンシャル》をネタに『ラティーナ』2007年4月号に書いた記事です。チーフテンズについてのぼくの基本的認識をまとめたので、今回はこれを音で実際に確認してみましょうという企画です。

 これもその後判明したまちがいを修正し、漢数字をアラビア数字に替え、改行を多くしました。


エッセンシャル・チーフタンズ


 あなたがチーフテンズの名を知ったのはいつだろうか。

 1975年か。1988年か。それとも1991年だろうか。

 最初の日付は翌年であるかもしれない。スタンリー・キューブリックの映画『バリー・リンドン』に、チーフテンズの音楽が使われた年であり、日本公開は翌76年であるからだ。あるいはまたこの年、バンドは初のロイヤル・アルバート・ホール公演を成功させ、『メロディ・メイカー』誌の「グループ・オヴ・ジ・イヤー」に選ばれた。

 二番目の日付の人は結構多いだろう。ヴァン・モリスンとの共演盤《アイリッシュ・ハートビート》発表の年である。バンドがポピュラー音楽の主流へと進出してゆく最初の突破口であり、バンドにとっても、アイリッシュ・ミュージック全体にとっても大きな転回点である。

 三番目の人はやや少ないかもしれない。この年、チーフテンズは初の来日を果たす。細野晴臣、清水靖晃のプロデュースにより、東京・汐留で開かれたワールド・ミュージックの祭典「東京ムラムラ」の一環だった。


 筆者はどうか。明確な記憶が無い。ふり返ると1977年という日付が浮ぶ。《ライヴ!》発表の年である。この前後、ブリテンやアイルランドの伝統音楽が「ブリティッシュ・トラッド」と呼ばれて、わが列島に紹介されはじめている。チーフテンズもその中にった。その頃から「チーフテンズ」と呼び習わしているから、ここではこの表記で通させてもらう。「チーフタンズ」と書くと、焼酎片手に「塩で焼いてくれ」と言いたくなるのだ。

 この時期にこういう音楽が入ってきた理由の一つは、本国で盛りあがっていたからである。ブリテン、アイルランドでのフォーク・リヴァイヴァルに改めて弾みがついていた。アイルランドに限っても、ボシィ・バンドとデ・ダナンのレコード・デビューがやはり1975年。76年にはチーフテンズ自身の録音《BONAPARTE'S RETREAT》でドロレス・ケーンがデビューしている。オシーンのデビュー録音も同年だ。先頭を走っていたとしても、チーフテンズだけが盛りあがっていたわけではない。

 ひとつお断り。わが国のリスナーが当時からかれらの音楽をアイルランドの音楽として明確に認識していたことはない。こんにちのように、下手をするとスコットランドやイングランドの音楽まで「アイリッシュ・ミュージック」の名でくくられることはありえなかった。事態は逆だった。1970年代のわれわれにとってアイルランドはまだ「英国」の一部だったのである。状況が変るのは80年代に入ってからだ。


 今年2007年、チーフテンズは6年ぶり通算9回目の来日をしようとしている(1992年から2001年まではほぼ1年おきに来日を重ねた。初来日のときに同じ日の組合せだったターラブのグループが、やはり今年7月、16年ぶり二度目の来日をするのも、不思議な縁である)。これを記念して国内でもリリースされるベスト盤《エッセンシャル》のブックレット裏表紙におそらく1975年頃と思われるバンドの写真がある。映っているのは7人。《アイリッシュ・ハートビート》のジャケットではヴァン・モリスンを除いて6人。初来日も同じメンバー。今回はサポート・メンバーを除いて4人での来日である。

 すべてに共通しているメンバーは創設メンバーのパディ・モローニ、それにショーン・キーン。ケヴィン・コネフは1976年に参加。マット・モロィは1979年、録音で言えば《ライヴ!》の3枚後、《BOIL THE BREAKFAST EARLY》からの参加だ。

 正式のメンバーとして関わったのは最初のバゥロン奏者デイヴ・ファロンを含めて10名。全員男性。マットの加入後はメンバーの入替えはない。《ウォーター・フロム・ザ・ウェル》(2000)の後、マーティン・フェイが引退。2002年にデレク・ベルが死去。

 チーフテンズの名が最初に現れるのは1963年のファーストで、結成はその前年とされるが、これはパディ・モローニが当時プロデューサーをしていたクラダ・レコードのためのワン・ショット・プロジェクトだった。本格的に活動しはじめるのは60年代後半で、1974年にデレク・ベルが参加して編成が定まる。1975年、ロイヤル・アルバート・ホールでの成功を受けて、ようやく全員フルタイムのミュージシャンになった。それまではモローニとベル以外のメンバーにとって、バンドは副業だった。

 1975年がアイリッシュ・ミュージック自体の盛上りとの相乗効果であったとすれば、1988年の突破はワールド・ミュージックの盛上りとの相乗効果といえる。そこにはもう一つ、前年の《ヨシュア・ツリー》によるU2の世界制覇も与っていただろう。

 ヴァン・モリスンをチーフテンズが担いだきっかけはおそらくまた別に一つある。ムーヴィング・ハーツの存在だ。クリスティ・ムーアとドーナル・ラニーを中心とするこのロック・バンドを、ヴァン・モリスンは一時そっくりそのまま自分のバック・バンドにしたいと考えていた。

 プランクシティに始まるロック世代のアイリッシュ・ミュージック革命はチーフテンズと並んで現代アイリッシュ・ミュージックの拡大を支えてきた。この二本の柱はこういう場合よくあるように、強烈な対抗意識をたがいに持っている。そしてその対抗意識が豊かな成果を生み出してきてもいる。チーフテンズの側で言えば、ドーナル・ラニーが音楽監督を務めた《ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム〜アイリッシュ・ソウルを求めて》(1991、改訂版2003)に対抗して生まれたのが《アナザ・カントリー》(1992)であり、この流れはさらに《ダウン・ジ・オールド・プランク・ロード》(2002〜2003)のプロジェクトに結実する。

 ヴァン・モリスンとの共演の成功に味をしめたチーフテンズは、様々なミュージシャンとの共演を積極的に行う。共演によって相手のジャンルに進出し、新たなリスナーを開拓してゆく。

 それによって生み出された音楽には二つの傾向がある。一つは他のアイルランドのミュージシャンには作ることができない形の豊かな産物。その最大の成功例は中国での交流《イン・チャイナ》(1985)とスペインとの交流《サンティアーゴ》(1996)だ。

 もう一つは市場拡大が第一の目的と見えるもの。こちらでの総決算は《ロング・ブラック・ヴェイル》(1995)と《ティアーズ・オブ・ストーン》(1999)。ここでのチーフテンズはアイリッシュ・ミュージックのバンドというよりは、ポピュラー音楽界のフェアリー=妖怪の相貌を見せる。前触れもなくどこにでも顔を出し、お茶目で、一緒にいると楽しく、どんな音楽も呑みこむ一方で自分たちの音楽はまったく変えず、捕まえた相手をひきずりこむ、愛すべき老人たち。

 この結果、自分たちが拡大に貢献してきたはずのアイリッシュ・ミュージックから、チーフテンズ自身が、浮きあがってしまった。海外での人気は高まっても、アイルランド国内では顧みられない。アイリッシュ・ミュージックの成果を語る文脈で、チーフテンズの名が出てこない。チーフテンズはアイリッシュ・ミュージックとは何か別のもの、それ自体で完結した存在に見えだした。

 チーフテンズ自身、そうした状況への自覚はあった。20世紀が幕を閉じようとする頃、かれらは原点回帰を試みる。きっかけは《ファイヤー・イン・ザ・キッチン》(1998)の形で発表されたセッションだ。カナダ東部、スコットランドの音楽伝統を色濃く残すケープ・ブルトンのミュージシャンとの交流で、自然発生的な音楽の悦楽を思いだした、いや思いださせられたのだ。というのもこのセッションでは、チーフテンズのほうが引きずりこまれているからである。他ジャンルとの共演では、チーフテンズは常に周到な準備とアレンジで臨んでいる。

 この悦楽の記憶をもってバンドはアイルランドに帰り、《ウォーター・フロム・ザ・ウェル》を作る。「キッチンの火」にかけるのは「井戸から汲んできた水」だろう。CDと同時に作られたDVDが、メンバーが個々に自分の原点を語るシーンから始まるのは象徴的だ。つまり、このプロジェクトは、メンバー各自にとっての原点の再確認であって、バンドとしての原点の確認ではなかった。

 メンバーの一人ひとりはアイルランドの音楽伝統を呼吸して育ち、生きてきている。その土台があればこそ、チーフテンズはどんな音楽を相手にしても、自分たちの土俵に引きずりこむことができた。

 一方でバンドとしての音楽は、その音楽伝統からははずれている。チーフテンズのフォロワーはほとんどまったく現れていないし、こんにちのアイリッシュ・ミュージックはチーフテンズがめざしたものではない。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの基本的生理、自然発生とユニゾンからははずれた「よそゆき」の音楽だからだ。

 チーフテンズ・スタイルの基礎は、ショーン・オ・リアダのキョールトリ・クーランにある。史上初めて、コンサート・ホールでアイルランドの伝統音楽を演奏したグループである。チーフテンズの創設メンバーはキョールトリ・クーランのメンバーでもあった。オ・リアダはそこで、アイルランド伝統音楽にクラシックの手法とコンサート形式をもちこむことで、アイルランドの都市住民の中で伝統音楽のリスナーを開拓しようとした。

 チーフテンズはその基本方針を忠実に守ってきた。チーフテンズだけの演奏では、楽器同士の音の相違を活用する。典型的なのは一つのメロディを繰りかえす際、楽器の間で受けわたす手法だ。一回目がパイプとハープなら、二回目はフルートとフィドル、三回目はホイッスルとフィドル、という具合。徐々に楽器が加わってゆき、最後に全員が合奏する形もよく使う。クラシックのオーケストレーションと同じだ。

 そうして見るとチーフテンズはカロラン直系の末裔である。カロランは貴族のパトロンたちの間を「ツアー」し、行く先々でハープを聴かせ、あるいは相手のために曲を作った。チーフテンズは世界各地の大衆のパトロンたちの間を「ツアー」してアイリッシュ・ミュージックを聞かせ、地元のスターと共演してきた。カロランの作った音楽は、当時ヨーロッパで流行していたヴィヴァルディなどのイタリア音楽とアイルランド伝統音楽の折衷である。チーフテンズの音楽はクラシックと伝統音楽の折衷である。素材は伝統音楽だが、手法はクラシックだ。

 1960年代後半のアイルランドで伝統音楽を知らない都市住民対策に開発された手法を、チーフテンズは20世紀末の世界各地でアイリッシュ・ミュージックを知らない都市住民に応用してきた。その一方で、チーフテンズの音楽自体は1960年代末とまったく変わっていない。この30年間のアイリッシュ・ミュージックの変化は、何一つ反映されていない。

 「よそゆき」にはもう一つ、プレゼンテーションの側面がある。チーフテンズは常に、眼の前の聴衆はアイリッシュ・ミュージックを知らないという前提で音楽をやっている。毎回新たにゼロからやろうとする。

 パディ・モローニはライヴの始めに必ずアイルランド語で挨拶をする。しばしべらべらとしゃべった後、初めて気づいたふりをして、ごめんごめんごめんと英語に切替える。判で押したパフォーマンスだ。

 それは同時に、自分たちはわけのわからない言葉をしゃべる「異文化」からやってきたことの宣言でもある。アイリッシュ・ミュージックは誰も知らない世界の片隅の音楽なのだ。皆さんはこれから、その珍しいものを体験する。覚悟してください。

 チーフテンズの長い旅も終わりに近づいている。最後の役割は、若い世代に音楽を渡し、その若者たちを世界に向けて押出すことだろう。最近の、最大の成功例はスペインはガリシアのカルロス・ヌニェスである。チーフテンズ、というよりこの場合はパディ・モローニというべきだろうが、その後継者はアイルランドではなく、スペインに現れた。ピラツキ兄弟をはじめとする、カナダの若者たちも、チーフテンズを踏み台にしてゆくだろう。そして今回わが国初登場のトゥリーナ・マーシャル。たとえチーフテンズのこれまでの全業績が何も無かったとしても、彼女を伝統音楽家として世に送り出したことだけで、チーフテンズが存在した意義はあった。

 デレク死して、トゥリーナが生まれた。パディ死すとも、カルロスがいる。チーフテンズを始めた頃、演奏者が十指に満たないと言われたイルン・パイプは、今や日本も含め、世界中にプレーヤーがいる。マットのファースト・ソロ(1976)は、アイルランド音楽史上初のフルート・ソロ・アルバムだった。これまたアイリッシュ・フルートは現在世界各地に確固たる地位を占める。

 冒頭に触れた《エッセンシャル》のブックレット裏表紙の写真には、不思議な暖かさと明るさで惹きつけられる。前の三人は左からショーン・ポッツ、マイケル・タブリディ、ショーン・キーン。後ろの四人はやはり左からパディ・モローニ、パダー・マーシア(ケヴィン・コネフの前任者)、マーティン・フェイ、そしてデレク・ベル。プロになったばかりの頃だろうか。筆者はそこに、好きな音楽だけを、思いきりやれるようになった歓びを見る。これから30年、好きな音楽をひたすらやりつづけることで世界を変えることになるとは知るはずもないその笑顔は、しかし秘かな予感を秘めていないか。

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参考文献
『アイリッシュ・ハートビート:ザ・チーフタンズの軌跡』ジョン・グラット/大島豊・茂木健=訳、音楽之友社、2001