今年の聴き初め。
ライヴでも録音でも、まったく新しい世界を開いてくれる演奏に出逢うことほど嬉しい体験はない。最初のライヴでそういう体験ができたのは、こいつは春から縁起がいいわい。
サックス4本でバッハの〈ゴールトベルク変奏曲〉をやる、と聞いて、これは面白くないはずがない、と寒風をついて駆けつけた。年末からの風邪で耳が詰まり、ロクに音楽が聴けていない欲求不満も溜まっていたこともある。まだ治りきってはいないが、Winds Cafe の会場でサックス4本ならまずだいじょうぶであろう。
林田祐和: soprano sax
田村真寛: alto sax
貝沼拓実: tenor sax
坂口大介: baritone sax
の4人が左から、ソプラノ、テナー、バリトン、アルトと並ぶ。ジャズの、たとえば World Saxophone Quartet などとは別に、クラシックでも近年はサックスを演奏する人がおり、カルテットもあることは知ってはいたが、演奏に接するのは初めてだ。
最初の1音が出たときに、今日は来てよかった、と思う。あとはもうひたすら快い。バッハがこの場にいたならば狂喜して、文字通り乱舞しただろう。これこそわしのやりたかったことなのじゃ、とわめきちらしただろう。
まずもってこれはダンス・チューンなのだ。サックスで演奏されることで、そのことが疑問の余地なくわかる。体が動きだす。
加えてひそかなユーモア。バッハはこれを心底楽しみながら、作ったはずだ。今度はこうしてやろう。こうしたらどうなるかな。あれ、こりゃだめだな。こっちはどうだ。おお、これなら面白い。うんうん、なら、これだ、どうだ。うひひひひ。というバッハの表情が、ありありと浮かんでくる。
音の強弱、テンポの緩急、そして2本の手のかわりに8本の手、四つの声のハーモニーの、差し手引き手の妙。4本のサックスは音域だけではなく、音色も異なる。交互にメロディをうたい、リズムを刻み、ドローンをつけ、あるいはカデンツァを次々にうけわたしながら駆け上がり、駆け下りる。めくるめく祝祭には静謐そのものの祈りが続き、荘厳にことほぐかと思えば、フェアリーたちがはねまわる。それぞれの楽器の性質を存分に展開する編曲が心にくい。これはもう、世界のどこへ出しても第一級の音楽として聴かれるだろう。〈ゴールトベルク〉という曲の、ほんとうの魅力、作曲家も気づかない潜在能力が、今ここで、史上初めて、顕らかになったのではないか。
いや、ひょっとすると、バッハもやろうとしたのだが、当時の楽器ではあれが限界だった、ということではないか。楽器も進化し、演奏法も工夫されて、初めて本当の〈ゴールトベルク〉が輝き出ることが可能になった。そうだ、きっとそうにちがいない。
サックス・カルテットによって、手垢耳垢がぶあつく堆積した西欧古典音楽は、まったく新しい世界に入るだろう。バッハは、モーツァルトは、あるいはバルトークは、いやいやもっともっと他の音楽、そう、アイリッシュ・ミュージックだって、サックス・カルテット、少なくともクローバー・サックス・カルテットによって、まったく新しい、別の世界へ花開くだろう。
楽器としてのサクソフォンの可能性も、まだまだ展開がはじまったばかりなのだ。この楽器の性格、特に巧まずして備わったユーモアのセンスは、あるいはジャズよりもクラシックの文脈での方が、より豊饒な効果を生むかもしれない。
終演後のオークションでは、クローバーのレアなCDも落札でき、楽しみが重なる。
この演奏は春に録音し、秋に CD としてリリース予定の由。もちろん買うが、その前に、メンバーも参加するウインド・オーケストラによるベートーヴェンの〈第九〉も、こうなると聴いてみたくなる。そう、西欧クラシックはそろそろ作曲家の専制に叛旗を翻して、演奏者が自由な編成でどんどんやるべきだ。復元楽器による演奏もたしかに楽しいが、ならばその対極があってもいい。それがどれほどの成果を生むか。ここにクローバー・カルテットの〈ゴールトベルク〉があり、かなたにはアウラの〈四季〉がある。
この体験を可能にしてくれた川村龍俊さんと Winds Cafe を支える方々に感謝。(ゆ)
ライヴでも録音でも、まったく新しい世界を開いてくれる演奏に出逢うことほど嬉しい体験はない。最初のライヴでそういう体験ができたのは、こいつは春から縁起がいいわい。
サックス4本でバッハの〈ゴールトベルク変奏曲〉をやる、と聞いて、これは面白くないはずがない、と寒風をついて駆けつけた。年末からの風邪で耳が詰まり、ロクに音楽が聴けていない欲求不満も溜まっていたこともある。まだ治りきってはいないが、Winds Cafe の会場でサックス4本ならまずだいじょうぶであろう。
林田祐和: soprano sax
田村真寛: alto sax
貝沼拓実: tenor sax
坂口大介: baritone sax
の4人が左から、ソプラノ、テナー、バリトン、アルトと並ぶ。ジャズの、たとえば World Saxophone Quartet などとは別に、クラシックでも近年はサックスを演奏する人がおり、カルテットもあることは知ってはいたが、演奏に接するのは初めてだ。
最初の1音が出たときに、今日は来てよかった、と思う。あとはもうひたすら快い。バッハがこの場にいたならば狂喜して、文字通り乱舞しただろう。これこそわしのやりたかったことなのじゃ、とわめきちらしただろう。
まずもってこれはダンス・チューンなのだ。サックスで演奏されることで、そのことが疑問の余地なくわかる。体が動きだす。
加えてひそかなユーモア。バッハはこれを心底楽しみながら、作ったはずだ。今度はこうしてやろう。こうしたらどうなるかな。あれ、こりゃだめだな。こっちはどうだ。おお、これなら面白い。うんうん、なら、これだ、どうだ。うひひひひ。というバッハの表情が、ありありと浮かんでくる。
音の強弱、テンポの緩急、そして2本の手のかわりに8本の手、四つの声のハーモニーの、差し手引き手の妙。4本のサックスは音域だけではなく、音色も異なる。交互にメロディをうたい、リズムを刻み、ドローンをつけ、あるいはカデンツァを次々にうけわたしながら駆け上がり、駆け下りる。めくるめく祝祭には静謐そのものの祈りが続き、荘厳にことほぐかと思えば、フェアリーたちがはねまわる。それぞれの楽器の性質を存分に展開する編曲が心にくい。これはもう、世界のどこへ出しても第一級の音楽として聴かれるだろう。〈ゴールトベルク〉という曲の、ほんとうの魅力、作曲家も気づかない潜在能力が、今ここで、史上初めて、顕らかになったのではないか。
いや、ひょっとすると、バッハもやろうとしたのだが、当時の楽器ではあれが限界だった、ということではないか。楽器も進化し、演奏法も工夫されて、初めて本当の〈ゴールトベルク〉が輝き出ることが可能になった。そうだ、きっとそうにちがいない。
サックス・カルテットによって、手垢耳垢がぶあつく堆積した西欧古典音楽は、まったく新しい世界に入るだろう。バッハは、モーツァルトは、あるいはバルトークは、いやいやもっともっと他の音楽、そう、アイリッシュ・ミュージックだって、サックス・カルテット、少なくともクローバー・サックス・カルテットによって、まったく新しい、別の世界へ花開くだろう。
楽器としてのサクソフォンの可能性も、まだまだ展開がはじまったばかりなのだ。この楽器の性格、特に巧まずして備わったユーモアのセンスは、あるいはジャズよりもクラシックの文脈での方が、より豊饒な効果を生むかもしれない。
終演後のオークションでは、クローバーのレアなCDも落札でき、楽しみが重なる。
この演奏は春に録音し、秋に CD としてリリース予定の由。もちろん買うが、その前に、メンバーも参加するウインド・オーケストラによるベートーヴェンの〈第九〉も、こうなると聴いてみたくなる。そう、西欧クラシックはそろそろ作曲家の専制に叛旗を翻して、演奏者が自由な編成でどんどんやるべきだ。復元楽器による演奏もたしかに楽しいが、ならばその対極があってもいい。それがどれほどの成果を生むか。ここにクローバー・カルテットの〈ゴールトベルク〉があり、かなたにはアウラの〈四季〉がある。
この体験を可能にしてくれた川村龍俊さんと Winds Cafe を支える方々に感謝。(ゆ)
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