ルーシャス・シェパードが今月18日に死去、とLocus が昨日の朝報じる。享年70。デビュー時すでに40歳だったせいか、いつまでも若い印象があったが、いつの間にか古希を迎えていたのだった。

 シェパードを初めて意識したのはいつだったろう。たぶん年刊傑作選のどれかで "Salvador" を読んだ時ではなかったか。フレドリック・ブラウンの「闘技場」の再話ともいえる話で、近未来の中米に投影したヴェトナム戦争を背景に、人間の「非人間的」側面というか要素というか、「暗黒面」を粘着性の高い文章で圧倒的リアリティをもって描きぬいていた。人間にはそうした暗黒面が人間である以上否応なくついてまわるものだ、いや、一般に「非」人間的といわれる側面こそが、人間を人間たらしめているのだと、頭というよりは胸の底、横隔膜のあたりにズシンと叩きこまれたような衝撃だった。

 それからシェパードを手当たり次第読みだした。サイバーパンクよりも何よりも、この人の作品には、「今」という感覚が濃厚だった。目の前で展開されているのは、超現実あるいは現実の裏でのことであろうとも、語られているのは自分が生を享けたこの世界、という感覚は絶対的だった。その世界の、こういう形でしかあぶり出せない位相が、あらがいようもなく、つきつけられる。

 手許にあった雑誌、アンソロジーをしらみ潰しにあさっては読んでいった。Locus の記事では UNIVERSE 13 の "The Taylorville Reconstruction" がデビュー作とあるが、F&SF の "Solitario's eye" の方が先という記憶がある。「サルバドール」の、一種異様な熱を帯びた闇の味覚はどれにも健在だった。ひとつだけ異色だったのが "The fundamental things" で、乾いたユーモアに驚いたものだ。

 このユーモアは小説よりもエッセイに色濃く出ることが多い。F&SF に連載していた映画評などに典型的だが、時にそれが爆発することもあった。ハリー・ポッターの映画の一本目が公開されたときだったと思うが、その行く末を予想した文章にはしばし笑いが止まらなかった。一方で、「ハリポタ・ファン」の中には、大いに腹を立てる人も少なくないと思われた。

 「サルバドール」の次に、同じくらい衝撃を受けたのが "A Spanish lesson"、就中作者が作品の枠から踏み出して重い問い掛けを放つラストに茫然となった。

 そして "Nomans Land" の恐怖。これは「究極の恐怖小説」だと、今でも思う。怖くて再読できない。

 "Barnacle Bill the spacer" は堂々たる「スペース・オペラ」に "The fundamental things" のユーモアが、より陰翳を深くして潜み、絶妙の味を出している。

 とはいえ、シェパードといえばやはり「竜のグリオール」のシリーズということになる。最初の作品「竜のグリオールに色を塗った男」は、初読ではその重要性を完全に見逃した。真価がわかったのは、人並に第2作「鱗狩人の美しい娘」で、Mark Ziesing が出した瀟洒なハードカヴァーだ。そして "The father of stones" にはただただ圧倒された。その時点で、このシリーズは、あと1本、長めのノヴェラを書いて完成と著者が言うのをどこかのインタヴューで読んで心待ちにした。が、出ない。15年経って "Liar's House" が出たときは、だから踊りあがって悦び、本が届くと飛びついた。

 さらに7年後に出た "The Taborin Scale" も予約して届くと同時に読んだ。

 読んだのだが、どうにもはぐらかされたという想いがぬぐえない。後の2作は前3作とは明らかにテーマもアプローチもスタイルも変わっている。もちろん変わったこと自体は当然でもあろうが、どうも良くない方に変わったのではないか。

 だから集大成たる THE DRAGON GRIAULE が届いたときには、新作が含まれていたが、読む気になれずに積読のままだ。

 この時期、前世紀末あたりから、小説を読めない症状が続いていたのだが、それでもシェパードのこのシリーズだけは、自分でも驚くほどあっさりと読むことができた。それだけに、失望感は大きかった。

 とはいえ、シェパードの新しい小説をもう読めなくなる、とわかった今、あらためて全作品の再読を始めようとすれば、やはりここから始めるしかないだろう。他ならぬグリオール・シリーズの長篇が予告されていることでもある。これが遺作になるのだろうか。

 シェパードは中篇の作家だ。長篇は書けない。かれの長篇は長さは長篇でも構造はノヴェラだったり、ノヴェラの連作だ。その代わり、中篇には無類の上手である。こういう人はサイエンス・フィクションではよく見かける。ポール・アンダースン、ロバート・シルヴァーバーグ、ジョン・ヴァーリィ、ロジャー・ゼラズニィ、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。アンダースンやシルヴァーバーグは長篇も上手いが、本領は中篇だ。ヴァーリィは長篇よりも中篇の方が遙かに良い。ゼラズニィも一番得意だったのは中篇だろう。中篇の翻訳は出にくいから、こういう人たちはなかなかまっとうに評価されない。そして、サイエンス・フィクションにはノヴェラがベストの形式、と言ったのはジョアンナ・ラスだったと思うが、こうした人たちの作品を思えば、至言と思う。

 シェパードは上記の人たちに比べても中篇がさらに得意で、中篇専門作家といってもいいくらいだ。中篇、アメリカでいう novella や novelette という形式は、かれのためにある。シェパードを読む鍵は、内容だけでなく、形式にもあるはずだ。

 ルーシャス・シェパードは、サイエンス・フィクションから生まれた、アメリカ最高の作家、と思う。文学上の系譜からいえば、サイエンス・フィクションの本流ではなく、おそらく南部ゴシックの流れを汲む。フォークナーにもつながり、さらにはマーク・トウェインにまで遡るかもしれない。

 とはいえ、ディックやヴォネガットのようにアメリカ文学のカノンに組込まれることはないだろう。ディレーニィのように敬意を集めることもおそらくない。ラファティやティプトリーのように、マニアックに愛されることもない。

 にもかかわらず、かれが現代アメリカ最高の小説家であることは動かない。山田風太郎が日本最高の小説家であるように。風太郎は長篇が得意だが、作風も似ていなくもない。ドライで冷徹なユーモアが底に流れているのも共通している。風太郎を読むことが20世紀後半の日本を読むことであると同様、シェパードを読むことは、ポスト・ヴェトナムのアメリカを読むことだ。そこでは、人間は人間的であろうとすればするほど否応なく「非」人間的になってゆくという、究極の悲劇(それこそが「原罪」ではないか)同時に喜劇が、ヒリヒリとしたリアリティを備えて展開される。それは21世紀の最初の四半世紀に、ぼくらが直面している世界そのものだ。シェパードを読めば、世界が「わかる」。

 『タボリン鱗』で、巨竜グリオールは長い長い眠りから覚め、立ち上がろうとして崩れおちる。グリオールは「文明」だろうか。それとも「世界」なのだろうか。あるいは「人間」という存在そのものの鏡像なのか。

 30年の文業の成果は多くはないが、少なくもない。「余生」のテーマとしてはちょうど良い。楽しい作業には必ずしもならないとしても、手応えは充分以上、生きてあることの実感は存分に味わえる。

 さらば、シェパード。おんみの魂の自由に時空を翔けめぐらんことを。合掌。(ゆ)