先週木曜日、横浜は日本大通りにある「横浜開港記念会館」で開かれたこのライヴに行ったのは、ジョンジョンフェスティバルのメンバーが3人ともメインのバンドに参加していたためだ。ここは大正期の姿を残す古い建物で、重要文化財の由。なるほどおもしろい外観の建物で、こういうところでライヴというのも趣があるな、とは思ったが、周囲の街衢がまったくこれを考慮していないので、どうも浮き上がった感じは否めない。まあ、ひとめでこれがそれだなとわかるのはメリットかもしれない。

 この催しはペリーの黒船の来航によって日米の付き合いが始まって160年を記念するのが趣旨で、その黒船に乗ってやってきた軍楽隊の音楽を再現しようという試みである。この軍楽隊についてはいろいろ史料も残っていて、当時のイラストや曲目表から、ミンストレル・ショーであったことがわかっている。顔を黒く塗るのはまあ別として、それ以外は衣裳や照明にいたるまできちんと再現し、アメリカのポピュラー音楽がこの列島で初めて響いた様を実際に聴かせ、聴いてみようというわけだ。

 「外国」の音楽が列島にやってきたのはこの時が初めてではない。そもそも雅楽は大陸から渡来したわけだし、ヨーロッパの音楽にしても、戦国末期に来ている。とはいえ、雅楽は宮廷音楽だったし、信長や家康が聴いていたのは教会音楽がメインであっただろう。北米で独自の発達をした「ポピュラー音楽」がわたってきたのは黒船とともにであり、以来、われわれはずっとそれを聴きつづけ、さらには演りつづけてこんにちにいたっている。その成果はこの日、ここで形になった通り、日本語ネイティヴだけで当時の音楽を再現できるようになっていることにも現われている。さらには黒船の楽隊が演じていた音楽から派生したアメリカのポピュラー音楽、ここで演じられたのはブルーグラスやディキシーランド・ジャズだったが、そういう音楽を本場とまったく変わらない形で体験できるまでになった。

 ライヴは二部構成で、第一部が黒船のミンストレル・ショーを再現したバンドによる演奏、第二部がその源流となり、またそこから派生した音楽の演奏。全体のナヴィゲーターを東理夫氏が勤める。東氏は本業は作家だが、ブルーグラス愛好家で演奏者でもあるらしい。

 この企画全体はそのために財団法人をあらたに立ち上げ、学術的にもきちんとしたものにしようとしていて、ライヴだけでなく、当時の史料や楽器の展示や講演なども含んだものだ。もっとも、あたしは不真面目にもライヴだけを目当てに行ったので、展示や講演は見る暇がなかった。行ってみたらそういうものがあると知ったくらいで、主催者としてはあまり歓迎したくはない客であったろう。

 そういう趣旨であるから、ライヴの前に財団法人の理事長の挨拶やら賓客の紹介やら、さらにはアメリカ国務省日本語研修所所長の挨拶もあった。あの所長は日本との関係ということで狩りだされたのであろうから、ここで演奏された音楽に興味があったかどうかはわからない。アメリカの白人だって皆がみんな、ブルーグラスやアイリッシュやディキシーランドを好きとはかぎらないわけで、かれがこの日のライヴをどう聴いたか、訊いてみたい気もする。

 音楽自体はそれほど真新しいというか、目からウロコが落ちたということはなく、なるほどこういうものであろうな、と思えるものだった。むしろ、当時の日本人たち、幕府の役人たちだったわけだが、かれらがこれをどう聞いたのかは興味が湧いた。そもそもこれを「音楽」と受け取ったのかどうか。会場で配られたチラシに三井徹氏が書かれていたように、当時の日本人にとっての音楽とはまったくかけ離れたものであっただろう。どうやらこの催しを「楽しんだ」ことは確かなところらしいが、たとえばぼくらが「音楽」として聴くように楽しんだのでは無いのではないか。ミンストレル・ショー自体が単純に音楽を聴かせるというよりは、踊りや寸劇を含むバラエティショーであったわけで、日本側も観客を「楽しませる」娯楽、エンタテンイメントとして「楽しんだ」のではないか、とも思える。

 それにしても、どうしてこういうことを、つまり黒船の音楽の再現を思いつかれたのか。確かに、関係する書物を読んでいると、この音楽を聴きたい、とは思ったものだが、それを実現してしまう人がいたのには、正直驚いた。言い出しっぺであり、推進役として実現にまでこぎつけたのは、黒船再現バンドのバンマスでもある原さとし氏だそうだが、かれはどうしてそこまで入れこめたのか。

 原氏にとっての鍵はどうやらバンジョーらしい。かれ自身、ブルーグラス・バンジョーの名手であり、黒船バンドの絵にあったバンジョーがきっかけにも、推進力にもなったと思われる。そもそもミンストレル・ショーに関心を持つのは、たとえばアイリッシュ・ミュージックのファンよりはアメリカン・ルーツ・ミュージックに興味のある人であろうし、となればわが国ではまずブルーグラスの愛好者になるだろう。オールドタイムの愛好者でもかまわないわけだが、どうもブルーグラスとオールドタイムのファン層は重ならないらしい。

 なにしろこの日、ステージで演奏した人たちの中にはバンジョーの名手が3人いた。この日はやらなかったが、ジョンジョンフェスティバルのアニーもバンジョーをやるし、あるいは他にもいたかもしれない。

 第二部はまずジョンジョンフェスティバルが2曲やり、ディキシーランド・ジャズがやり、そしてブルーグラスという順番だったが、ブルーグラスの演奏を見てまず思ったのは、その「伝統」の厚さである。つまり、ブルーグラスがわが国で受容され、演奏されてきた伝統の厚みだ。目をつむれば、ここは日本かと疑えるし、目を開けても、ステージにいるのは日系アメリカンと言われても疑問には思うまい。

 そこで興味深かったのは、この3つの受容のスタイルの違いだ。それがそれぞれの音楽の出自によるものか、あるいはこちらの世代によるものかはまだわからない。

 しかし、違いは明瞭だ。アイリッシュは一番トンガっていた。独自の展開を志向しているのだ。そしてアイリッシュ・ミュージック自体にそうしたことを許容し、あるいはむしろ推奨するような開放性が備わっていることも確かではある。

 ブルーグラスでは、ディキシーランドもだが、演奏する人たちはひたすら相手になりきろうとする。もちろん独自の要素はあるが、一定の枠がはっきり存在し、その中で展開される。その意味ではブルーグラスもディキシーランドも内向的である。定まった枠から出ようとは思わない。愛好者はその世界の「閉鎖性」そのものに惚れこんでいるのではないだろうか。

 その「閉鎖性」は決してマイナスな要素ではなく、いわば俳句の字数にも相当するだろう。定型であるゆえに追求できることもある。

 そこでもう一つ思いついたのは、ブルーグラスにしてもディキシーランドにしても、「商業音楽」、商品として売るために成立していることだ。定型はそのためでもあるはずだ。出るたびに形が変わってしまっては「商品」としては落第だ。ロック、ジャズ、レゲエ、ソウル、ブルーズ、ヒップホップ、みなその点では同じ。次々に新しいフォーマットが生まれるが、生まれたフォーマット自体が変化することはない。

 アイリッシュ・ミュージックのような伝統音楽にあっては定まったフォーマットは無い。あるように見えるのは、たまたま「今」そういう形をとっているのであって、少しずつではあるが、常に変化している。変化の幅が小さい、あるいは目立たないゆえに同じに見えるだけだ。言い方を変えれば、伝統音楽は変化することを恐れない。むしろ、それを担う人びとの嗜好に応じて積極的に変化する。そうでなければ、アイリッシュ・ミュージックにおけるリールやポルカの導入も、蛇腹の導入もありえないし、〈パッフェルベルのカノン〉が定番になることもない。そして、変化することで生き延びている。変化は全体が一斉に変わるものでもない。むしろ、多様性が増す形をとる、あるいは多様性を確保する方向に向かう。

 そこでオールドタイムを見ると、こちらはブルーグラスに比べると商業音楽として定まっていないようでもある。アイリッシュ・ミュージックに近い。ファン層が別れるのもそこではなかろうか。乱暴に言ってしまうとブルーグラスにはオールドタイムの「いいかげんさ」がガマンできない。オールドタイムにはブルーグラスの「厳格さ」が堪えられない。

 ブルーグラスがミンストレル・ショーに親近感を持つとすれば、商業音楽としての共通性からではないか。単に祖先のひとつだから、というのではなさそうだ。そしてオールドタイムはミンストレル・ショーとならべてみれば、むしろその祖先にもなるだろう。

 「商品化」は同時に「普遍化」も伴う。商品化以前の音楽が備えていた土着性ないし「匂い」を隠し、エッセンスを押し出す。もともとのコンテクストから切り離し、それよって、商品化以前の音楽が想定している聴衆の外への訴求力を、結果として獲得する。西欧クラシックの拡散も同じだ。ミンストレル・ショーが生まれた19世紀は商品化による普遍化の時代でもある。16世紀に、あるいは7世紀に「外国」の音楽が入ってきたときに、その音楽が列島に広く普及することはなかった。幕末に入ってきた「外国」の音楽は普及してゆく。

 そう見ると、ここにオールドタイムが無かったのは当然であり、アイリッシュ・ミュージックが「浮いて」いたのもまた当然だ。

 こういう試みに関心をもち、ライヴを聴きにやってくる人たちはどういう人たちなのだろうと不思議だったのだが、どうやら大部分はブルーグラスのファンだったようだ。400人ほど入るという講堂は満席で、老人といえる人たちがほとんどだった。ぼくなどは若い方ではなかったか。歓声もブルーグラスの人たちに多く飛んでいた。

 いろいろな意味でおもしろい、刺激の多いライヴだった。音楽そのものも楽しめたが、それと同じくらい、もくもくと興味が湧いてきた。これを実現された方々と、誘ってくれたトシバウロンに感謝。(ゆ)