結局ジャズはまず器楽なのだ。むろんヴォーカルのディスクも取り上げられてはいるが、それも声を楽器のひとつとして捉えている。ジャズは楽器を使う音楽だ。無伴奏歌謡はジャズにならない。これは音楽の中では異端の状態だ。音楽は人間の声が土台で柱で壁で天井で、そしてその中の空気なのであって、うたに始まり、うたに終わる。それとは対極のところにジャズはある。あるいは対極のところをジャズはめざす。
それはつまるところ「ジャズというジャンルは、この本の中でも言及してきたように、アンサンブルとソロ、楽曲と即興の関係について、さまざまな試行錯誤がなされてきた分野である」(198pp.)からだ。ジャズとはこういう音楽で、そのためにあの姿、形をとってきた。他の音楽はこういうことを考えない。しようとしない。したいと思わない。しようとするときは、否応なくジャズの姿をとるしかない。
そしてその試行錯誤に最も適した楽器を使用する。人間が息を使って音を出す楽器が主に使われる。弦楽器は片隅に追いやられる。ヴァイオリンは限られた天才しかできない。凡庸なジャズ・サックス奏者は普通にいるが、凡庸なジャズ・ヴァイオリニストというものはいない。ギターも電気増幅によって音が持続できるようになったからだ。凡庸なジャズ・アコースティック・ギタリストは存在しない。ベースは例外だが、弦楽器というよりは打楽器の仲間とみなされたのだろう。ピアノも同じだ。
この試行錯誤を別のことばでいえば「遊び」である。生活必需品、衣食住は供給しないし、他人の暴力から守ってもくれない。ただのヒマ潰し、現実逃避だ。ただし、あってもなくても同じではない。人間は遊ぶから人間なのだ。そして音楽は人間だけの遊びだ。現在のところ進化の最終形態だ。音楽を演ることを楽しむ、音楽を聴くことを楽しむところまで、生命は進化してきたのだ。
言うなれば、ジャズは、生物としての人間が到達しうる最も先端の状態である。ジャズがたった百年の間に、これだけめまぐるしくも、急激に変容したのも、だから当然のことではある。百年しかないその過程を「歴史」と感じるのは、その中に人間の、ひいては生命の進化全体が凝縮されているからだ。
ここで取り上げられているのはさらに短かい。まあ、古生代までは省略して、いきなり恐竜から始めたようなものですな。その過程の中で、時々の最先端を形成し、次の世代の先駆ともなった活動の軌跡を集めたのがこの100枚、ということになろう。
それにしても「アルバム」という単位がまだ生きていることに、ぼくは不思議の念に打たれる。もともとは商売のための単位でしかなかったものが、ジャズにあっては音楽自体の要請とうまくかち合ったということだろうか。むしろジャズにとっては、LPというメディアは必ずしも居心地の良いものではなかったはずだが、そのことがかえって幸いしたのだろうか。
音楽にとって録音は副次的な活動である。それは記録であり、軌跡である。録音を作成し、販売し、それを聴くことが主な音楽活動であるとするのは錯覚でしかない。録音がデジタル化されることで、そのことがあらためて露わになった。デジタル化はアナログでは見えにくいことを暴露する。これもその一つだ。
日本のジャズ受容の特殊性が、ここでも働いているのかもしれない。日本、とりわけ戦後におけるジャズの消化は圧倒的に録音を媒介とした。ジャズだけのことではなく、音楽に限った話でもないが、ジャズは録音偏重が極端なケースでもある。もっともロックの場合はさらに偏りが進んでいるが、これは音楽自体の成立ちにも関わる。乱暴に言うと、ロックは録音を作る、ジャズの録音はできる。
興味深いのは、単位としてディスクを看板に掲げながら、いざディスクの内容を紹介するとなると、個々のトラック、楽曲が挙げられるところ。ディスク全体の構成や流れに立つ記述で面白いものもあるが、つまるところはこの曲が入っているからこのディスク、という姿勢におちつく。ディスクはやはり中短篇集、せいぜいが連作集であって、1本の長篇にはなれない。中短編集が長篇に劣るのではない。「良い短篇集は数冊の長篇に匹敵する」とは筒井康隆も言っている。しかし、どんなに優れた中短編をいくら集めても、長篇にはならない。ジャズの文脈で長篇に一番近いのは、1本のライヴ、コンサートだろう。だからこの100枚の中で長篇に最も近いのはアート・アンサンブル・オヴ・シカゴとサン・ラーのものになる。1枚1曲のようなものもあるが、それは長篇というよりは、ノヴェラ、長い中篇だ。
アルバム単位で把握しながら、具体的な評価軸は楽曲の出来になる。なぜ、素直に楽曲に行かないのか。アルバムという枠組を、なぜはさむのか。これはやはり「録音症候群」ではないか。「アルバム」という枠組はCD由来ではない、LPというメディアが分かちがたく絡んでいる。
もちろんLPを離れた論議もジャズをめぐって行われているのだろうが、ジャズへの導入口というと、判で押したようにディスク・ガイドの形をとるところを見ると、ジャズがつながれているLPというメディアの軛の強さに、あらためて驚く。視野が広く、しかも刺激的な文章が詰まっているだけに、その部分がどうにも訝しい。
訝しいというより、もどかしい、と言うべきかもしれない。これもこうした本の常としてブートレッグは御法度だ。しかし、1987年11月、ブエノス・アイレスでのスティングの公演のブートレッグで聴けるケニー・カークランドのソロは、オフィシャルの《BRING ON THE NIGHT》のものを数段上回るし、ここでのスティーヴ・コールマンの演奏もまた最高なのだ。このブートの元は現地の放送音源のはずで、オフィシャル・リリースが出ないかと淡い期待をしておく。
もどかしさはもう一つある。
ここにフェラ・クティが登場しない(巻末の対談でバラカンさんの口から洩れるだけ)のは、とことん遊ぼうとする著者の姿勢からすれば、当然なのかもしれない。フェラにとって音楽は「単なる」遊びではなかった。それは命懸けの、生きることそのものであって、圧倒的に非対称な相手と取っ組み合い、音楽という「遊び」の形をとることでかろうじて崖っ縁で踏みとどまっていた。音楽という「遊び=文化」の形をとったおかげで、最後に笑うことができた。後に残って、人間の真の姿を暴きだすのは文化だからだ。ナチが抹殺しようとした「モダンな芸術作品」が、爆撃で建物ごと埋められ、遙か後年地下鉄工事で掘り出されるように。
もっともそうして見れば、パコ・デ・ルシアも、チューチョ・バルデスも、ヒュー・マセケラも、ヤン・ガルバレクもここには登場しない。ブラジル人は登場するから、それは著者の好みだと言ってすませることもできる。
とはいうものの、なのだ。ジャズとはまずなによりもアメリカの産物、という暗黙の了解が底に流れているのを、やはり感じてしまう。
確かにジャズはアメリカに生まれてはいる。アメリカでしか生まれなかったでもあろう。そしてアメリカで育ってきたものでもある。最も面白いことは大部分アメリカで起きてもきたし、今でもいるだろう。しかし新しい冒険に乗出している者がアメリカに限らないことは、大友良英を例として挙げられてもいる。日本やアメリカで起きていることが、日本とアメリカ以外で起きていないはずはない。
そこまで期待するのは酷だろうか。しかし、「多様な試み、多様なジャンル、多様なタイプの音楽を先入観なく聴いて、そこから自分なりの新たな音楽聴取の喜びを見いだし、そうすることによって以前聴いた音楽にま新しい意味を聞きとる……という『耳の更新』を常に行う聴き手が増えることによって、『明日のジャズ』は生き生きとした豊かなものになるはずだ」(『ジャズの明日へ』)と20世紀の最後に宣言した著者であってみれば、そしてこの本の冒頭にも「ジャズも雑食のほうが楽しいとおもうよ、ぜったい」と呼びかけた著者であってみれば、もっと雑食を、と期待してしまうのは、手前勝手だろうか。
これは導入口だから、というのなら、それは違う。いりぐちであるからこそ、ジャズの世界の奥行と拡がりは可能なかぎり提示すべきだ。
それにしても、この本はいったい誰に向けて書かれたのか。巻末対談で想定読者対象の話が出てくるところを見れば、そう思うのはぼくだけではない。「『デートコースって何? 菊地がやってるマイルス風のバンド? ふーん』とかタワけたことを抜かしているコアなジャズ・ファンのおじちゃんたち」(203pp.)にはもう遅すぎるし、「ちゃぶ台の前に正座して、玉露を飲み、最中を食いながら」(37pp.)アート・ペッパーを聴く人間、なんて鉄の下駄を履いて探しても見つかるまい。そのデートコースのライヴで踊りくるっている人たちは、そもそもこんな本など必要としないだろう。
思うに、軸足は他に置きながらジャズの周囲をうろうろし、つまみ食いしながらも、深く足を踏み入れるのはためらっている、そういうリスナーが一番ありがたがるのではないか。そして、同じように「アルバムの軛」につながれている人間。つまりはぼくのような中途半端な人間にとって、霊験あらたかなのではないか。読みながら、まるでぼくのために、ぼくのためだけに、書いてくれたような感覚を何度も覚えた。
そう感じながら、あと一歩、いや半歩、踏みこんでくれたら、と思うこともまたしばしばで、そのもどかしさはどこから来るのか、というのを書きながら探ってみると、上述のようなことになる。
最後に著者が言うように、この100枚、あるいは追加も含めて300枚を、順不同、シャッフルして聴いてみるのが、最も実り多いだろう。むしろ、全部をライブラリにぶちこんで、曲もシャッフルして聴いてみるのが一番かもしれない。あるいはそこで、ここでもまだ隠されている様相が、わらわらと立ち上がってくるのではないか。(ゆ)
それはつまるところ「ジャズというジャンルは、この本の中でも言及してきたように、アンサンブルとソロ、楽曲と即興の関係について、さまざまな試行錯誤がなされてきた分野である」(198pp.)からだ。ジャズとはこういう音楽で、そのためにあの姿、形をとってきた。他の音楽はこういうことを考えない。しようとしない。したいと思わない。しようとするときは、否応なくジャズの姿をとるしかない。
そしてその試行錯誤に最も適した楽器を使用する。人間が息を使って音を出す楽器が主に使われる。弦楽器は片隅に追いやられる。ヴァイオリンは限られた天才しかできない。凡庸なジャズ・サックス奏者は普通にいるが、凡庸なジャズ・ヴァイオリニストというものはいない。ギターも電気増幅によって音が持続できるようになったからだ。凡庸なジャズ・アコースティック・ギタリストは存在しない。ベースは例外だが、弦楽器というよりは打楽器の仲間とみなされたのだろう。ピアノも同じだ。
この試行錯誤を別のことばでいえば「遊び」である。生活必需品、衣食住は供給しないし、他人の暴力から守ってもくれない。ただのヒマ潰し、現実逃避だ。ただし、あってもなくても同じではない。人間は遊ぶから人間なのだ。そして音楽は人間だけの遊びだ。現在のところ進化の最終形態だ。音楽を演ることを楽しむ、音楽を聴くことを楽しむところまで、生命は進化してきたのだ。
言うなれば、ジャズは、生物としての人間が到達しうる最も先端の状態である。ジャズがたった百年の間に、これだけめまぐるしくも、急激に変容したのも、だから当然のことではある。百年しかないその過程を「歴史」と感じるのは、その中に人間の、ひいては生命の進化全体が凝縮されているからだ。
ここで取り上げられているのはさらに短かい。まあ、古生代までは省略して、いきなり恐竜から始めたようなものですな。その過程の中で、時々の最先端を形成し、次の世代の先駆ともなった活動の軌跡を集めたのがこの100枚、ということになろう。
それにしても「アルバム」という単位がまだ生きていることに、ぼくは不思議の念に打たれる。もともとは商売のための単位でしかなかったものが、ジャズにあっては音楽自体の要請とうまくかち合ったということだろうか。むしろジャズにとっては、LPというメディアは必ずしも居心地の良いものではなかったはずだが、そのことがかえって幸いしたのだろうか。
音楽にとって録音は副次的な活動である。それは記録であり、軌跡である。録音を作成し、販売し、それを聴くことが主な音楽活動であるとするのは錯覚でしかない。録音がデジタル化されることで、そのことがあらためて露わになった。デジタル化はアナログでは見えにくいことを暴露する。これもその一つだ。
日本のジャズ受容の特殊性が、ここでも働いているのかもしれない。日本、とりわけ戦後におけるジャズの消化は圧倒的に録音を媒介とした。ジャズだけのことではなく、音楽に限った話でもないが、ジャズは録音偏重が極端なケースでもある。もっともロックの場合はさらに偏りが進んでいるが、これは音楽自体の成立ちにも関わる。乱暴に言うと、ロックは録音を作る、ジャズの録音はできる。
興味深いのは、単位としてディスクを看板に掲げながら、いざディスクの内容を紹介するとなると、個々のトラック、楽曲が挙げられるところ。ディスク全体の構成や流れに立つ記述で面白いものもあるが、つまるところはこの曲が入っているからこのディスク、という姿勢におちつく。ディスクはやはり中短篇集、せいぜいが連作集であって、1本の長篇にはなれない。中短編集が長篇に劣るのではない。「良い短篇集は数冊の長篇に匹敵する」とは筒井康隆も言っている。しかし、どんなに優れた中短編をいくら集めても、長篇にはならない。ジャズの文脈で長篇に一番近いのは、1本のライヴ、コンサートだろう。だからこの100枚の中で長篇に最も近いのはアート・アンサンブル・オヴ・シカゴとサン・ラーのものになる。1枚1曲のようなものもあるが、それは長篇というよりは、ノヴェラ、長い中篇だ。
アルバム単位で把握しながら、具体的な評価軸は楽曲の出来になる。なぜ、素直に楽曲に行かないのか。アルバムという枠組を、なぜはさむのか。これはやはり「録音症候群」ではないか。「アルバム」という枠組はCD由来ではない、LPというメディアが分かちがたく絡んでいる。
もちろんLPを離れた論議もジャズをめぐって行われているのだろうが、ジャズへの導入口というと、判で押したようにディスク・ガイドの形をとるところを見ると、ジャズがつながれているLPというメディアの軛の強さに、あらためて驚く。視野が広く、しかも刺激的な文章が詰まっているだけに、その部分がどうにも訝しい。
訝しいというより、もどかしい、と言うべきかもしれない。これもこうした本の常としてブートレッグは御法度だ。しかし、1987年11月、ブエノス・アイレスでのスティングの公演のブートレッグで聴けるケニー・カークランドのソロは、オフィシャルの《BRING ON THE NIGHT》のものを数段上回るし、ここでのスティーヴ・コールマンの演奏もまた最高なのだ。このブートの元は現地の放送音源のはずで、オフィシャル・リリースが出ないかと淡い期待をしておく。
もどかしさはもう一つある。
ここにフェラ・クティが登場しない(巻末の対談でバラカンさんの口から洩れるだけ)のは、とことん遊ぼうとする著者の姿勢からすれば、当然なのかもしれない。フェラにとって音楽は「単なる」遊びではなかった。それは命懸けの、生きることそのものであって、圧倒的に非対称な相手と取っ組み合い、音楽という「遊び」の形をとることでかろうじて崖っ縁で踏みとどまっていた。音楽という「遊び=文化」の形をとったおかげで、最後に笑うことができた。後に残って、人間の真の姿を暴きだすのは文化だからだ。ナチが抹殺しようとした「モダンな芸術作品」が、爆撃で建物ごと埋められ、遙か後年地下鉄工事で掘り出されるように。
もっともそうして見れば、パコ・デ・ルシアも、チューチョ・バルデスも、ヒュー・マセケラも、ヤン・ガルバレクもここには登場しない。ブラジル人は登場するから、それは著者の好みだと言ってすませることもできる。
とはいうものの、なのだ。ジャズとはまずなによりもアメリカの産物、という暗黙の了解が底に流れているのを、やはり感じてしまう。
確かにジャズはアメリカに生まれてはいる。アメリカでしか生まれなかったでもあろう。そしてアメリカで育ってきたものでもある。最も面白いことは大部分アメリカで起きてもきたし、今でもいるだろう。しかし新しい冒険に乗出している者がアメリカに限らないことは、大友良英を例として挙げられてもいる。日本やアメリカで起きていることが、日本とアメリカ以外で起きていないはずはない。
そこまで期待するのは酷だろうか。しかし、「多様な試み、多様なジャンル、多様なタイプの音楽を先入観なく聴いて、そこから自分なりの新たな音楽聴取の喜びを見いだし、そうすることによって以前聴いた音楽にま新しい意味を聞きとる……という『耳の更新』を常に行う聴き手が増えることによって、『明日のジャズ』は生き生きとした豊かなものになるはずだ」(『ジャズの明日へ』)と20世紀の最後に宣言した著者であってみれば、そしてこの本の冒頭にも「ジャズも雑食のほうが楽しいとおもうよ、ぜったい」と呼びかけた著者であってみれば、もっと雑食を、と期待してしまうのは、手前勝手だろうか。
これは導入口だから、というのなら、それは違う。いりぐちであるからこそ、ジャズの世界の奥行と拡がりは可能なかぎり提示すべきだ。
それにしても、この本はいったい誰に向けて書かれたのか。巻末対談で想定読者対象の話が出てくるところを見れば、そう思うのはぼくだけではない。「『デートコースって何? 菊地がやってるマイルス風のバンド? ふーん』とかタワけたことを抜かしているコアなジャズ・ファンのおじちゃんたち」(203pp.)にはもう遅すぎるし、「ちゃぶ台の前に正座して、玉露を飲み、最中を食いながら」(37pp.)アート・ペッパーを聴く人間、なんて鉄の下駄を履いて探しても見つかるまい。そのデートコースのライヴで踊りくるっている人たちは、そもそもこんな本など必要としないだろう。
思うに、軸足は他に置きながらジャズの周囲をうろうろし、つまみ食いしながらも、深く足を踏み入れるのはためらっている、そういうリスナーが一番ありがたがるのではないか。そして、同じように「アルバムの軛」につながれている人間。つまりはぼくのような中途半端な人間にとって、霊験あらたかなのではないか。読みながら、まるでぼくのために、ぼくのためだけに、書いてくれたような感覚を何度も覚えた。
そう感じながら、あと一歩、いや半歩、踏みこんでくれたら、と思うこともまたしばしばで、そのもどかしさはどこから来るのか、というのを書きながら探ってみると、上述のようなことになる。
最後に著者が言うように、この100枚、あるいは追加も含めて300枚を、順不同、シャッフルして聴いてみるのが、最も実り多いだろう。むしろ、全部をライブラリにぶちこんで、曲もシャッフルして聴いてみるのが一番かもしれない。あるいはそこで、ここでもまだ隠されている様相が、わらわらと立ち上がってくるのではないか。(ゆ)


コメント
コメント一覧 (2)
ただ、この本について言えば、とても刺激的で、をを、これは聴いてみよう、みたい、と思わせられるところがたくさんあります。すでに聴いている音源でも、なるほどこういう聴き方があるのか、とメウロコな体験も何度もしました。読まれることを薦めます。