村井康司さんの名著『ジャズの明日へ』の中に、「ジャズはテクニックのくびきがおそろしく強いジャンルだ」との一節がある。
無理矢理一言で言いかえてしまうと、ヘタは相手にされない世界、ということなのだが、含蓄はかなり深いことばである。誰だって、どんな名人、巨匠とて、最初はヘタなのだから。
実はアイリッシュ・ミュージックも、「テクニックのくびき」がひじょうに強い音楽ではないかと気がつく。
一見まったくそうは見えない。誰でもできそうである。ヘタでも聞いてもらえる。演奏にしても、鑑賞にしても、敷居がおそろしく低い。むしろ、ヘタが排除されないことがアイリッシュ・ミュージックの「暖かさ」「温もり」であるかのように喧伝されている部分もある。いや、ぼく自身、そういう喧伝の片棒を担いできてもいる。
それは外見だけで、実際はそうではない、敷居は低くて誰にでも入れるかもしれないが、一度中に入ると奥は深くて広くて、それこそ下手をすればドツボにはまるぞ、あるいは生きては帰れないぞ。
ということを、ビートないしリズムの角度から説きほぐそうとしたのが、本誌における洲崎一彦の連載だったわけだが、それだけではない、メロディの解釈、装飾音の使い方などの角度からしても、あらためてアイリッシュ・ミュージックは相当に「テクニックのくびき」が厳しい。
思うにアイリッシュ・ミュージックの外見上の「敷居の低さ」はアイリッシュ・ミュージック自体に備わる本質的なものではない。それはむしろ、アイリッシュ・ミュージックを包含するアイルランド社会全体の性格なのではないか。
最初の接触の段階ではフレンドリーで、誰でも歓迎し、相手が自分たちの文化や社会や歴史に対する無知や親しみの浅さを露呈しても、それをもって責めたり、バカにすることはしない。相手にわからないようにからかったり、ジョークのネタにしたりはするかもしれないが。
ところが、もう一歩中へ入ろうとすると、話が違ってくる。冷淡になったり、見下したりするわけではない。ただ、暗黙のうちにある閾値が設定されていて、そこに達しないものは無視される。まあ無視というのも強すぎるだろう。黙ってみている。ほうっておく。積極的に排斥もしない。時に有望そうな相手には手を貸すこともある。しかし、手取り足取り、細やかに面倒を見て、自分たちの世界に招きいれるようなことは、まず無い。
これがアイリッシュ・ミュージックから見たアイルランド社会の性格、それもかなり基本的だろうと思われる性格である。
アイリッシュ・ミュージックのテクニックは派手なものではない。ジャズの場合、そのテクニックは即興の形で顕れる。これ自体は外から見て、聞いて、ごく明解だ。ジャズなどふだんほとんど聴かない人間でも、コルトレーンのソロが高度のテクニックに支えられていることは、聞けばわかる。
アイリッシュ・ミュージックのテクニックも即興の中に顕われるのだが、アイリッシュの即興は誰が聞いてもすぐわかる形のものではない。むしろ、聞きなれないリスナーにとっては、どこが即興かもわからない。即興をしているのかどうかすらわからない。
アイリッシュ・ミュージックの即興が最もわかりやすい形で顕れているのはマーティン・ヘイズのライヴ演奏だろう。ただ、あれはむしろジャズの手法を採り入れたもので、アイリッシュ本来の即興とはいささか趣が異なる。むろん、百%ジャズではなくて、アイリッシュの即興も入っているので、そこがかれの天才たるところではある。
しかし、聞きなれてくると、だんだん即興の良し悪しがわかるようになってくる。どこがツボか、そのツボがちゃんと押さえられているかどうか、わかるようになってくる。才能のある人は比較的早く、わかるようになるかもしれない。しかし凡人でも時間をかけて、良いといわれる演奏をくりかえし聞くことで、わかるようになる。「いーぐる」の後藤さんの言う「ジャズ耳」という概念を借りれば、「アイリッシュ耳」ができてくる。
聞くのはまだそれでも、時間をかけさえすればなんとかなる。しかし、これを演奏で示そうとするととたんに敷居はとんでもなく高くなる。「テクニックのくびき」が厳しいのだ。そこで要求されるのは、単に技術の高さだけではないからだ。伝統音楽には「暗黙のきまり」または「奥義」があるからだ。一般的なポピュラーやクラシックも含めた「標準音楽」とはそこが違う。
クラシックや、またジャズもある程度そうだが、クラシックをクラシックたらしめている、あるいはジャズをジャズたらしめている「奥義」は大部分、オープンになっている。それさえ守れば、演奏者の出自には無関係に、それはクラシックである、ジャズである、と世界的に認められる。いわば、ルールをオープンにして「標準化」し、それを守るものは「コミュニティ」のメンバーとして認めるようにしたことで、クラシックやジャズは標準的地位を獲得していったというべきだろう。当然その過程で切り落とされていったものもある。その点では、バッハやモーツァルトやベートーヴェンの時代のヨーロッパのローカル音楽と現代の「クラシック」は別物だ。
「奥義」はどこの伝統音楽にもある。それは演奏のレベルがある程度上がり、その音楽の世界の中に入りこんでいかないと開示されない。それも、ではこれから汝に奥義をさずけようなどと明確な形で示されるわけではない。演奏者の側がある日ある時、そういうものの存在に気がつく形でしか示されない。そして、そこへ到達する道もまた演奏者が独自に見つけ、切り開かねばならない。助言や援助は得られるかもしれないが、誰も手をとって引き上げてはくれない。自力であがるしかない。そして、精進を続ければ、確実に上がれるという保証もまたない。
そしてこの「奥義」をどうにかして体得しないと、その人がやっているものがアイリッシュ・ミュージックであるとは認められない。体得しない場合、それは「まねごと」「まがいもの」とされる。あるいは単にメロディを借りたもの、関連はあるかもしれないが別のもの、とされる。「おケルト」の類は前者の、「ラスティック」や「フォークメタル」と呼ばれるジャンルは後者の代表。
逆に「奥義」を体得していれば、どんな形でやろうと、例えば電気楽器を使おうと、他のジャンルや伝統音楽と交配しようと、それもまたアイリッシュ・ミュージックの一つの形としての評価を受ける。
一方で「奥義」は普遍的性格も備える。アイルランドの社会に生まれ育たなくとも、体得は可能だ。アイルランドの社会と密接に結びついてはいるものの、社会は「奥義」にとって必須条件ではない。「奥義」は他者の存在を否定しないからだ。伝統音楽は常に「外部」との混淆物だ。他者との異種交配の産物だ。いや、異種交配が絶え間なく行われている、絶え間なく変化している、その現場だ。変化そのものが形をとったものだ。たとえ一見変わっていないようにみえても、おそろしくゆっくりではあるが、確実に変化している。
老舗の味、変わらないもののシンボルとされている味は、必ず常にわずかずつだが変わっている。そうでなければ、同じとは感じられない。まったく変えないでいると、味が落ちたと言われる。人間の感覚は常に変わっているからだ。
音楽伝統も同じだ。変わらないと見えるということは変わっているからそう見える。まったく変わらないでいるとすれば、それは博物館の陳列品と同じだ。
言い換えれば、伝統音楽が伝統音楽であるためには、常に他者の「血」が入ることが不可欠なのだ。人間の社会は内部だけで閉じてしまうと、遺伝子のプールが縮小し、共同体全体が退化してゆく。伝統音楽の「奥義」が「奥義」でありつづけるためには、他者がこれに参入し、わずかずつではあっても変えてゆくことが必要なのだ。
クラシックやジャズは「奥義」を「標準化」することで他者の参入による変化が不可能になった。「奥義」の固定化はジャンルの固定化と縮小再生産を招き、ひいては衰頽につながっている。
クラシックはさて置いて、ジャズに回復の道があるとすれば、「奥義」の変化を許すことだろう。その「歴史」を神話化するのではなく、相対化する。一本のリニアな物語ではなく、多数の平面が重なり、無数の解釈が可能な混沌と捉える。どうしても混沌は困るというのなら、ヴァーチャルなゲーム世界はどうだ。ルールや設定はあるが、プレーヤーの行動を縛るのではなく、それぞれの趣向にそって自由に楽しめる世界だ。
『バット・ビューティフル』に描かれるジャズはたしかに無類に美しいが、あまりに悲しすぎる。あるいはジャズに籠められた悲しみを愛でるあまり、これを神話にまで祭りあげている。あれはあくまでも著者ダイヤーにとっての神話だ。ならば、あれとはまったく対照的なジャズ、悲しみを笑いとばす喜びにあふれた、なおかつ同じくらい美しいジャズがあってもいいはずだ。「時系列にそって」聞くならばそれ以外のジャズはありえないというのなら、時系列をはずせばいい。西欧クラシックは「時系列にそって」聞くときが最高だ、とは誰も言わない。ロックンロールを誕生から「時系列にそって」聞こうとは誰もしない。なぜ、ジャズだけが「時系列」をそんなに尊重するのか。ジャズ自体の生命力を犠牲にしてまで「時系列」にこだわるのは、それが神話でしかない証拠ではないか。
「外部」の人間はだから、伝統音楽が伝統音楽であるために必要不可欠の要素でもある。
さらにまた、伝統音楽がそれが生まれ育った土地、社会と不可分の関係にあるということは、土地や社会の変化にも敏感に反応する。音楽伝統を生んでいる社会の変化を反映しなければ、伝統自体からはずれることになる。
もうひとつ。伝統音楽は、生まれ育った土地、社会から離脱しようというベクトルもまた備えている。
より正確には、社会そのものが自己変革、脱皮への欲求を基本的性格、本質的要素として備えていて、それが音楽に顕われるのではないか。
それは音楽だけのことではなく、文芸や美術や演劇や舞踏や、およそ文化活動、表現活動と呼ばれる人間の活動のすべてに共通するものだろう。むしろ、そうした活動は、社会の自己改造、新たな存在への脱皮の欲求の顕われなのかもしれない。すべての文化活動には、それを生み出した社会を変える契機が含まれている。権力を握った者が文化活動を監視し、抑圧しようとするのはおそらくそのためだ。
その掲げるイデオロギーやスローガンにかかわらず、文化活動、表現活動に対する態度で、その権力者の性格、めざすところ、つまりは正体が顕わになる。
この伝統音楽に、ひいては文化全体に備わる離脱のベクトルにも、「外部」の人間は感応することができる。
文芸の場合、これに相当するのが「翻訳」行為と言えなくもない。音楽演奏に比べればかなり間接的だが、これは言語というメディア自体が間接的だからだろう。とまあこれは余談。
この「奥義」をテクニックの範疇に入れるのは少々無理があるかもしれない。確かに純粋に音楽的なものからははみ出す要素も含まれる。しかし、一方でそれは精神的なもの、倫理や信仰や思想とは結びつかない。むしろ、肉体にしみこむもの、考えるのではなく、感じるものだ。あるいは脳で考えたり感じたりするのではなく、筋肉と骨で考え感じるものだ。
だからジャズとは意味合いが違うが、やはりアイリッシュ・ミュージックは「テクニックのくびき」が強い。(ゆ)
無理矢理一言で言いかえてしまうと、ヘタは相手にされない世界、ということなのだが、含蓄はかなり深いことばである。誰だって、どんな名人、巨匠とて、最初はヘタなのだから。
実はアイリッシュ・ミュージックも、「テクニックのくびき」がひじょうに強い音楽ではないかと気がつく。
一見まったくそうは見えない。誰でもできそうである。ヘタでも聞いてもらえる。演奏にしても、鑑賞にしても、敷居がおそろしく低い。むしろ、ヘタが排除されないことがアイリッシュ・ミュージックの「暖かさ」「温もり」であるかのように喧伝されている部分もある。いや、ぼく自身、そういう喧伝の片棒を担いできてもいる。
それは外見だけで、実際はそうではない、敷居は低くて誰にでも入れるかもしれないが、一度中に入ると奥は深くて広くて、それこそ下手をすればドツボにはまるぞ、あるいは生きては帰れないぞ。
ということを、ビートないしリズムの角度から説きほぐそうとしたのが、本誌における洲崎一彦の連載だったわけだが、それだけではない、メロディの解釈、装飾音の使い方などの角度からしても、あらためてアイリッシュ・ミュージックは相当に「テクニックのくびき」が厳しい。
思うにアイリッシュ・ミュージックの外見上の「敷居の低さ」はアイリッシュ・ミュージック自体に備わる本質的なものではない。それはむしろ、アイリッシュ・ミュージックを包含するアイルランド社会全体の性格なのではないか。
最初の接触の段階ではフレンドリーで、誰でも歓迎し、相手が自分たちの文化や社会や歴史に対する無知や親しみの浅さを露呈しても、それをもって責めたり、バカにすることはしない。相手にわからないようにからかったり、ジョークのネタにしたりはするかもしれないが。
ところが、もう一歩中へ入ろうとすると、話が違ってくる。冷淡になったり、見下したりするわけではない。ただ、暗黙のうちにある閾値が設定されていて、そこに達しないものは無視される。まあ無視というのも強すぎるだろう。黙ってみている。ほうっておく。積極的に排斥もしない。時に有望そうな相手には手を貸すこともある。しかし、手取り足取り、細やかに面倒を見て、自分たちの世界に招きいれるようなことは、まず無い。
これがアイリッシュ・ミュージックから見たアイルランド社会の性格、それもかなり基本的だろうと思われる性格である。
アイリッシュ・ミュージックのテクニックは派手なものではない。ジャズの場合、そのテクニックは即興の形で顕れる。これ自体は外から見て、聞いて、ごく明解だ。ジャズなどふだんほとんど聴かない人間でも、コルトレーンのソロが高度のテクニックに支えられていることは、聞けばわかる。
アイリッシュ・ミュージックのテクニックも即興の中に顕われるのだが、アイリッシュの即興は誰が聞いてもすぐわかる形のものではない。むしろ、聞きなれないリスナーにとっては、どこが即興かもわからない。即興をしているのかどうかすらわからない。
アイリッシュ・ミュージックの即興が最もわかりやすい形で顕れているのはマーティン・ヘイズのライヴ演奏だろう。ただ、あれはむしろジャズの手法を採り入れたもので、アイリッシュ本来の即興とはいささか趣が異なる。むろん、百%ジャズではなくて、アイリッシュの即興も入っているので、そこがかれの天才たるところではある。
しかし、聞きなれてくると、だんだん即興の良し悪しがわかるようになってくる。どこがツボか、そのツボがちゃんと押さえられているかどうか、わかるようになってくる。才能のある人は比較的早く、わかるようになるかもしれない。しかし凡人でも時間をかけて、良いといわれる演奏をくりかえし聞くことで、わかるようになる。「いーぐる」の後藤さんの言う「ジャズ耳」という概念を借りれば、「アイリッシュ耳」ができてくる。
聞くのはまだそれでも、時間をかけさえすればなんとかなる。しかし、これを演奏で示そうとするととたんに敷居はとんでもなく高くなる。「テクニックのくびき」が厳しいのだ。そこで要求されるのは、単に技術の高さだけではないからだ。伝統音楽には「暗黙のきまり」または「奥義」があるからだ。一般的なポピュラーやクラシックも含めた「標準音楽」とはそこが違う。
クラシックや、またジャズもある程度そうだが、クラシックをクラシックたらしめている、あるいはジャズをジャズたらしめている「奥義」は大部分、オープンになっている。それさえ守れば、演奏者の出自には無関係に、それはクラシックである、ジャズである、と世界的に認められる。いわば、ルールをオープンにして「標準化」し、それを守るものは「コミュニティ」のメンバーとして認めるようにしたことで、クラシックやジャズは標準的地位を獲得していったというべきだろう。当然その過程で切り落とされていったものもある。その点では、バッハやモーツァルトやベートーヴェンの時代のヨーロッパのローカル音楽と現代の「クラシック」は別物だ。
「奥義」はどこの伝統音楽にもある。それは演奏のレベルがある程度上がり、その音楽の世界の中に入りこんでいかないと開示されない。それも、ではこれから汝に奥義をさずけようなどと明確な形で示されるわけではない。演奏者の側がある日ある時、そういうものの存在に気がつく形でしか示されない。そして、そこへ到達する道もまた演奏者が独自に見つけ、切り開かねばならない。助言や援助は得られるかもしれないが、誰も手をとって引き上げてはくれない。自力であがるしかない。そして、精進を続ければ、確実に上がれるという保証もまたない。
そしてこの「奥義」をどうにかして体得しないと、その人がやっているものがアイリッシュ・ミュージックであるとは認められない。体得しない場合、それは「まねごと」「まがいもの」とされる。あるいは単にメロディを借りたもの、関連はあるかもしれないが別のもの、とされる。「おケルト」の類は前者の、「ラスティック」や「フォークメタル」と呼ばれるジャンルは後者の代表。
逆に「奥義」を体得していれば、どんな形でやろうと、例えば電気楽器を使おうと、他のジャンルや伝統音楽と交配しようと、それもまたアイリッシュ・ミュージックの一つの形としての評価を受ける。
一方で「奥義」は普遍的性格も備える。アイルランドの社会に生まれ育たなくとも、体得は可能だ。アイルランドの社会と密接に結びついてはいるものの、社会は「奥義」にとって必須条件ではない。「奥義」は他者の存在を否定しないからだ。伝統音楽は常に「外部」との混淆物だ。他者との異種交配の産物だ。いや、異種交配が絶え間なく行われている、絶え間なく変化している、その現場だ。変化そのものが形をとったものだ。たとえ一見変わっていないようにみえても、おそろしくゆっくりではあるが、確実に変化している。
老舗の味、変わらないもののシンボルとされている味は、必ず常にわずかずつだが変わっている。そうでなければ、同じとは感じられない。まったく変えないでいると、味が落ちたと言われる。人間の感覚は常に変わっているからだ。
音楽伝統も同じだ。変わらないと見えるということは変わっているからそう見える。まったく変わらないでいるとすれば、それは博物館の陳列品と同じだ。
言い換えれば、伝統音楽が伝統音楽であるためには、常に他者の「血」が入ることが不可欠なのだ。人間の社会は内部だけで閉じてしまうと、遺伝子のプールが縮小し、共同体全体が退化してゆく。伝統音楽の「奥義」が「奥義」でありつづけるためには、他者がこれに参入し、わずかずつではあっても変えてゆくことが必要なのだ。
クラシックやジャズは「奥義」を「標準化」することで他者の参入による変化が不可能になった。「奥義」の固定化はジャンルの固定化と縮小再生産を招き、ひいては衰頽につながっている。
クラシックはさて置いて、ジャズに回復の道があるとすれば、「奥義」の変化を許すことだろう。その「歴史」を神話化するのではなく、相対化する。一本のリニアな物語ではなく、多数の平面が重なり、無数の解釈が可能な混沌と捉える。どうしても混沌は困るというのなら、ヴァーチャルなゲーム世界はどうだ。ルールや設定はあるが、プレーヤーの行動を縛るのではなく、それぞれの趣向にそって自由に楽しめる世界だ。
『バット・ビューティフル』に描かれるジャズはたしかに無類に美しいが、あまりに悲しすぎる。あるいはジャズに籠められた悲しみを愛でるあまり、これを神話にまで祭りあげている。あれはあくまでも著者ダイヤーにとっての神話だ。ならば、あれとはまったく対照的なジャズ、悲しみを笑いとばす喜びにあふれた、なおかつ同じくらい美しいジャズがあってもいいはずだ。「時系列にそって」聞くならばそれ以外のジャズはありえないというのなら、時系列をはずせばいい。西欧クラシックは「時系列にそって」聞くときが最高だ、とは誰も言わない。ロックンロールを誕生から「時系列にそって」聞こうとは誰もしない。なぜ、ジャズだけが「時系列」をそんなに尊重するのか。ジャズ自体の生命力を犠牲にしてまで「時系列」にこだわるのは、それが神話でしかない証拠ではないか。
「外部」の人間はだから、伝統音楽が伝統音楽であるために必要不可欠の要素でもある。
さらにまた、伝統音楽がそれが生まれ育った土地、社会と不可分の関係にあるということは、土地や社会の変化にも敏感に反応する。音楽伝統を生んでいる社会の変化を反映しなければ、伝統自体からはずれることになる。
もうひとつ。伝統音楽は、生まれ育った土地、社会から離脱しようというベクトルもまた備えている。
より正確には、社会そのものが自己変革、脱皮への欲求を基本的性格、本質的要素として備えていて、それが音楽に顕われるのではないか。
それは音楽だけのことではなく、文芸や美術や演劇や舞踏や、およそ文化活動、表現活動と呼ばれる人間の活動のすべてに共通するものだろう。むしろ、そうした活動は、社会の自己改造、新たな存在への脱皮の欲求の顕われなのかもしれない。すべての文化活動には、それを生み出した社会を変える契機が含まれている。権力を握った者が文化活動を監視し、抑圧しようとするのはおそらくそのためだ。
その掲げるイデオロギーやスローガンにかかわらず、文化活動、表現活動に対する態度で、その権力者の性格、めざすところ、つまりは正体が顕わになる。
この伝統音楽に、ひいては文化全体に備わる離脱のベクトルにも、「外部」の人間は感応することができる。
文芸の場合、これに相当するのが「翻訳」行為と言えなくもない。音楽演奏に比べればかなり間接的だが、これは言語というメディア自体が間接的だからだろう。とまあこれは余談。
この「奥義」をテクニックの範疇に入れるのは少々無理があるかもしれない。確かに純粋に音楽的なものからははみ出す要素も含まれる。しかし、一方でそれは精神的なもの、倫理や信仰や思想とは結びつかない。むしろ、肉体にしみこむもの、考えるのではなく、感じるものだ。あるいは脳で考えたり感じたりするのではなく、筋肉と骨で考え感じるものだ。
だからジャズとは意味合いが違うが、やはりアイリッシュ・ミュージックは「テクニックのくびき」が強い。(ゆ)
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