後半が良かった。
前半はどこが悪いというわけではないが、こちらの受取り方とミュージシャンの送り出すものが微妙にずれていたらしい。波長が合わない、ということか。
それが、後半はズレがなくなり、焦点も合って、例によって類例のない音楽を十二分に浴びることができた。なにが理由か、原因かはよくわからない。こちらの調子もあったのか。
「新録」のための曲はもちろん、《PRAYER》に入っている曲も、毎回アレンジが違う。トリニテのライヴである曲を同じようにやったことはこれまで無いように思う。根幹のテーマであるメロディや全体の構造は同じなのに、イメージがどんどん変わる。どこかをめざしてリニアに進んでゆくというよりは、さまざまな方向を試みて、螺旋を描いているようでもある。
この螺旋自体は外へ向かっている、と昨日のライヴを見て思う。この場合、鍵を握っているのは小林氏のパーカッションで、この人の演奏はとにかく外向的だ。基本的ベクトルが外へ向いている。比べると岡部氏の演奏は求心的だ。トリニテがバンドとして成立するためには、おそらくその求心性が必要だったのだろう。そして、一度できあがったものを、もう一度変容させてゆくには、小林氏の外向性がモノを言うということではないか。
加えて、螺旋であることは結論がないことでもある。録音はある時点で切り取った姿であって、完成された形ではない。トリニテの音楽がどこにいるか測ることができるような三角点というところか。もちろん、いつもライヴに行けるわけではないから、やはり録音があることはありがたい。理想をいえば、グレイトフル・デッドのように、すべてのライヴが録音されていて、いつでも聴けるようになってほしい。毎回音楽が違うのはデッドと同じだ。そして、その音楽にひたることの悦びもまた、デッドの音楽に通じる。
そこからすると、トリニテにもし足らないものがある、というよりは次のレベルに行く場合のステップになりうるものがあるとすれば、即興のやり方だろう。今はソロを廻す形だが、これを即興の叩きあい、あるいは集団即興にもってゆくのはどうか。むろん容易なことではないが、このメンバーならばそういうものを聴いてみたい。
今回は《月の歴史》《神々の骨》の「次」になるもののための新曲も披露された。螺旋が1個で、それがどんどん大きくなる、というよりは、いくつもの螺旋が生まれていて、それらが互いにまた螺旋を描いているようでもある。
今年はあまりライヴをしなかった、と shezoo さんは言われたが、これが毎月などということになると、聴く方も辛くなりそうだ。とはいえ、年1回か2回でもいいから、3日間連続で、たとえば《PRAYER》《月の歴史》《神々の骨》をそれぞれ演奏する、というのは聴いてみたい。やる方も聴く方もヘトヘトになるだろうが、おそらく至上の体験になるはずだ。(ゆ)
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