四谷のジャズ喫茶「いーぐる」のシステムでグレイトフル・デッドの録音を聴こうという試みの第二弾は、デッドのコンサート録音一本を丸々聴くというものでした。
これを企画した理由の一つは、デッドの音楽の真価はライヴ体験によって初めてわかるのではないか、と思ったからです。
グレイトフル・デッドのユニークさの一つにそのライヴに同じものが一つとして無い、ということがあります。一連のツアーの全ての録音が聴ける1972年春のヨーロッパ・ツアーや1990年春のアメリカ東部のツアーを聴いてもそのことは実感されます。
通常のロック・バンドなどのポピュラー音楽のコンサートでは、一定の時期は毎回同じ演目を繰り返します。選曲、曲順もほとんど変えず、間奏をはじめとする即興部分が多少変わる程度です。ライヴは新作のレコードを売るための、いわば宣伝になります。
デッドのライヴ音源をあれこれ聴いていると、デッドのライヴを全部聴こうとして、バンドと共に移動し続ける「トラベル・ヘッド」と呼ばれる人びとが生まれるのもむしろ当然のことにも思えます。ライヴを録音したテープを交換、配布するコミュニティが発達するのも、これまた必然でもありました。
ライヴを聴衆が録音することを、デッドは公認していました。ガルシアは1975年にこう言っています。
「かまわないよ。録音したいというなら、これから先も全然かまわん。他人にああしろこうしろとは言えないし、あれは持っててもいいがこれはいけないなんてこともおれにはいえない。気に入った体験を記録できることも、その録音を手に入れることこともできるというのは当然だ。それにおれたちも自分で録音してテープ・コレクションしてるしな。音に対するおれの責任は演奏するところまでで、その先その音がどこへ行くかは気にしないね」
Blair Jackson, GARICA, Penguin Books, 1999, 277pp.
もっとも聴衆による録音が盛んになるのは1970年代からで、テープ・コミュニテイは、同年代半ばの、ばんどによるツアー活動休止期間をきっかけに確立したようです。
デッドがこうしたライヴを行なっていったのは、かれらにとってはライヴをすること、演奏することが何よりも大事だったので、レコードを作ったり、それを売ったりすることは二の次三の次だったからです。この点ではかれらはロック・バンドというよりはジャズのミュージシャンでした。あるいはまた、例えばアイリッシュ・ミュージックをはじめとする伝統音楽の姿勢でもあります。
ガルシアはデッドのツアーの合間を縫うようにしてジェリィ・ガルシア・バンドのライヴを重ねていますが、デッドとは違う活動をしたいためだけではなかったと思われます。ガルシアのソロ活動のパートナーだったジョン・カーンは、ガルシアがとにかく演奏することが好きだったことを証言しています。その様は好きというよりも、やめたくないという方が当たっていたようです。
ロック・バンドがメジャー・レーベルと契約することを目指し、レコードが売れることを喜ぶのは、ロックの誕生にミュージシャンの都合というよりは、音楽産業の都合のほうが大きく働いていたこともあります。その上で、デッドがロックの形式を選んだのは、当時それが最も自由で、何でもありで、様々な実験をやりやすかったからでしょう。金銭的成功を求めてのことではなかったのです。
ロックに対するこの関係は、デッドと並んでロックの生んだ偉大な存在であるフランク・ザッパの場合と通底します。ザッパはライヴでの演奏そのものもさることながら、己の作品の表現形式として最適なものを求めた結果であるところは異なります。
であってみれば、デッドの音楽の真髄に触れようとすれば、ライヴを聴くに如くはない、それも断片ではなく、1本のコンサートを通して聴くに如くはないことになります。このことがぼくの独断ではないことは、コンサート丸々一本を収録した録音が大量に公式リリースされていることからも明らかです。その数は2015年春の時点で約160本に上ります。
デッドの曲の大部分は、ライヴでまず披露され、繰り返し演奏するうちに形が整えられていき、やがてスタジオ録音に収録されています。スタジオ録音ができてもそれで終わりではなく、ライヴにかけられる毎に変わっていきます。
とまれ、グレイトフル・デッドの音楽の本質はライヴにあります。ライヴの場で起きるハプニングを楽しむこと。それをジャズやフリー即興、あるいはクラシックの様式ではなく、ロック・バンドの形で行うことです。ドラムス、ベース、鍵盤、ギターという組合せとうた。そしてデッドはこの形式で真の集団即興を展開していった、ほとんど唯一の集団でした。
ぼくがデッドにのめり込んだのもこうした録音を聴いていくことによってですが、それにつけてもデッドのライヴを実際に体験できなかったことが悔やしくなってきます。せめて、それに近い体験はできないか。たとえば、大きな会場で本物のPAシステムを組み、コンサート1本の録音を再生する。というのが無理ならば、「いーぐる」のシステムで聴くことは現在可能な範囲で最もライヴ体験に近いものになるだろう。幸いマスターのご快諾を得て、これが実現できました。
今回聴くコンサートとしてこれを選んだ理由を述べておきます。
まず、何よりもこれがデッドのピークのライヴの1本であること。
デッドのピークは3つある、というのがぼくの見立てです。一つは1972年。二つ目が1977年。そして三つめが1990年です。いずれも4月から5月にかけてのツアーの録音が集中的にリリースされています。
この1977年春のツアーは4月22日フィラデルフィアに始まり、5月28日コネティカット州ハートフォードまで、37日間に26本のコンサートをしています。このツアーを格別なものにしていた要因のひとつは、前年1976年夏まで、1年半の間、デッドがほとんどライヴをやらなかったことがあります。
1974年の夏、デッドのメンバーは延々とツアーを続ける生活に嫌気が刺し、突然、ライヴ活動休止を宣言します。秋冬のツアー計画は中止され、10月下旬に5日間、当時ホームグラウンドであったサンフランシスコのウィンターランドをブッキングし、これを最後にステージにあがることをやめます。むろん、音楽活動そのものは続けていましたし、個々のメンバーはライヴも行いますが、バンドとしてはほぼ完全に引退します。
なお、ウィンターランドでのライヴは後にアカデミーも受賞するレオン・ガストが監督し、9台のカメラを駆使して、"The Grateful Dead Movie" として映像化されます。これについては様々なエピソードが生まれますが、それはまた別の話。
1976年6月、バンドはステージに復帰します。6月、7月、9月とツアーしますが、10月半ばから翌1977年2月後半まで、大晦日の年越しを除き、ライヴをしていません。1977年の初めは新作レコードの録音に費し、この春のツアーは活動再開後、初の本格的ツアーでした。
休止以前のものからの変化としてまず目につくことは、ミッキー・ハートの復帰です。ハートはデッドのマネージャーをしていた父親がバンドのカネを横領して逐電したため、1971年からバンドを離れていましたが、ライヴ活動休止期間中に再びバンドにもどっていました。
演奏はかつてなくタイトになり、1曲の演奏時間も平均して短めになる一方、テンポは遅めになります。
グレイトフル・デッドの演奏スタイルは初めの10年間にかなりめまぐるしく変わってゆきますが、この1977年の変身がいわば羽化となり、これ以後1995年の解散まで、基本的に変わることはなくなります。
この変化をもたらしたものはハートの復帰だけではありません。休止する前後にデッドは大きく方針転換します。それまでかれらはすべてを自分たちの手でやろうとしていました。自社レーベルを立ち上げ、配給も行ない、空前絶後のPAシステム「ウォール・オヴ・サウンド」を維持・運営し、ライヴのブッキング、移動の手配まで、すべて自前でしていました。1974年にライヴ・ツアーを休止することにした理由の一つは、このための負担が重くなりすぎたことでした。自社レーベルや「ウォール・オヴ・サウンド」にカネがかかり過ぎた結果、デッドは経済的にも苦しくなっていました。真のアーティストにとって貧乏は作品の質を高める方向に働きます。
デッドは当時新興のレーベルであるアリスタと契約します。アリスタの薦めにしたがい、外部プロデューサーの採用に同意します。新たなレコードのプロデューサーに指名されたのはキース・オルセン。当時フリートウッド・マックの1975年のアルバムをプロデュースしたばかりでした。
オルセンはロサンゼルス北郊ヴァン・ナイスのスタジオにデッドを缶詰めにして鍛えます。ベーシック・トラックの録音には6週間ばかりかかりましたが、
「最初の3週間は1曲も録れなかった。私は『こんなんじゃ使えない』と言ってダメを出しつづけたんだ。ガルシアが『ダメかね』と言うと私は『ダメだね、ジェリィ、使えないよ』と答える。するとボビィが『だけど、これ以上うまくはやれないぜ』。そこで私は言ってやった。『きみらにはもっとうまくやってもらう。きみらはまだまだうまくなれるんだ』」
Blair Jackson, GARICA, Penguin Books, 1999, 283pp.
オルセンの愛の鞭のもとにできあがったものは、この春のツアーの後に《TERRAPIN STATION》としてリリースされることになります。このアルバム自体は、バンドの録音にオルセンがかぶせたオーケストラと合唱のために、当時散々な評価を与えられます。が、このオルセンとの仕事によって、バンドのサウンドは生まれかわることになりました。
春はグレイトフル・デッドにとって良い季節です。冬の間に休養し、3月ぐらいから始動し、4月から5月にかけてその年最初の大ツアーを行う、というのがパターンになっています。そしてそこではたいてい霊感とエネルギーに満ちた演奏を聴かせます。上記3つのピークの年でも、1972年は初の大々的ヨーロッパ・ツアー、1990年も主に東部を回る大きなツアーを行い、その成果は《EUROPE '72: The Complete Recordings》と《SPRING 1990》《SPRING 1990 (The Other One)》としてリリースされました。
1977年春のツアーは、オルセンによって叩きこまれた「プロ意識」、新録のための新しいレパートリィ、ミッキー・ハートの復帰、そして経済的圧力という要素がうまく連動して、グレイトフル・デッドのキャリアの中での転回点となりました。そこからの公式録音としては次のものがリリースされています。
04-29@New York City, DOWNLOAD SERIES, Vol. 1, 2005(一部)
04-30@New York City, DOWNLOAD SERIES, Vol. 1, 2005
05-08@Cornell University, BEYOND DESCRIPTION, 2004(1曲)
05-11@St. Paul, MN, MAY 1977, 2013
05-12@Chicago, MAY 1977, 2013
05-13@Chicago, MAY 1977, 2013
05-15@St. Louis, MAY 1977, 2013
05-17@University Of Alabama, MAY 1977, 2013
05-19@Atlanta, DICK'S PICKS, Vol. 29, 2003
05-21@Atlanta, DICK'S PICKS, Vol. 29, 2003
05-22@Pembroke Pines, FL, DICK'S PICKS, Vol. 03, 1995
05-25@The Mosque, Richmond, DAVE’S PICKS, Vol. 01, 2012
05-28@Hartford, CT, TO TERRAPIN: Hartford '77, 2009
このうち5月8日のコーネル大学でのものは、デッド史上最高のライヴのひとつとして名高いものですが、なぜか〈Dancin' on the Street〉1曲が、リマスター版ボックスセット《BEYOND DISCRIPTION》所収で後に単独リリースもされた《TERRAPIN STATION》のボーナス・トラックとしてリリースされているだけです。バンド結成50周年にあたる今年は出るでしょうか。
とまれ公式にリリースされたものを聴くだけでも、このツアーがいかに凄いものだったかはよくわかります。
今回、いーぐるでデッド, Vol. 2 で聴く対象として選んだのは、一昨年 MAY 1977 として出たボックス・セットの Part 1、5月11日ミネソタ州セント・ポールでのライヴです。
1977年春のツアーの公式録音から1本選ぶことにして、さらにこれに絞ったのは、ひとつにはこのボックス・セットをたまたま持っていたからです。二つ目にこのボックス・セットで〈Scarlet Begonias> Fire on the Mountain〉をやっているのは、5月11日と17日ですが、17日は全体が3時間半を超えるものだったためです。いーぐるのイベントは時間に余裕がありますが、さすがに音楽だけで3時間半以上になるのは避けた方がよいと判断しました。
デッドのレパートリィには出自が異なる2つないし3つのうたを連ねたものがいくつかあります。そのいずれもが、個々の曲の合算ではなく、新たな魔法を呼び起こし、ライヴの核となり、デッドを聴く醍醐味のひとつになっています。たとえば初期の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉がそうですし、やはりこの1977年から演奏しはじめる〈Lazy Lightning> Supplication〉、あるいは〈Help On The Way> Slipknot!> Franklin's Tower〉があります。また〈Sugar Magnolia〉のように、はじめから1曲として生まれながら、あたかも2つの曲が合体したかのような形のものもあります。
〈Scarlet Begonias> Fire on the Mountain〉通称 'Scarlet-Fire'(日本語流に言えば「スカファイ」でしょうか)は中でも人気の高いものです。前者は1974年3月初演でスタジオ録音としては《GRATEFUL DEAD FROM THE MARS HOTEL》(1974) 収録。 後者は1977年3月初演でスタジオ版は《SHAKEDOWN STREET》(1978) 収録です。この2曲を続けて演奏することが始まったのはまさにこのツアーの最中、1977年5月からでした。
ということで、1977年5月11日水曜日のミネソタ州セント・ポールはセント・ポール・シヴィック・センター・アリーナに飛ぶことにします。
ここは1973年元旦にオープンした16,000の収容力をもつホールで、デッドがここで演奏することはこれが最初。以後、1983年まで計5回演奏しています。上記サイトにあるように、元々は高校・大学のスポーツ大会のために造られた施設で、ロック関係のコンサートにもよく使われています。
この夜のメンバーは以下の通り。
Jerry Garcia - lead guitar, vocals
Bob Weir - rhythm guitar, vocals
Keith Godchaux - keyboards
Phil Lesh - electric bass, vocals
Bill Kreutzmann - drums
Mickey Hart - drums
Donna Jean Godchaux - vocals
録音担当はベティ・カンター。ちなみにデッドはキャリアの当初から自分たちのコンサートを録音しており、カンターは専属録音技師として、この時のツアーにも同行しています。こうした技師は何人かいますが、カンターはおそらくベストと言ってよいでしょう。
また、CDマスタリングは、デッドのマスタリングを一手に引受けているジェフリー・ノーマン。
CDの時間配分。
CD 1: 68m 52s 10曲
CD 2: 43m 59s 6曲
CD 3: 66m 31s 8曲
Total: 2h 59m 11s 24曲
CD2の3曲目〈Sugaree〉が終わったところで休憩が入っています。
Track List
*タイトルの後の()内は作曲者。カヴァー曲はオリジナルの発表年を添えました。
*「初演」はグレイトフル・デッドによる初演の時期。
*初演に続けたのはオリジナル曲のアナログ時代の初出録音(スタジオ録音とは限らない)のタイトルと発表年。大文字のタイトルのみはグレイトフル・デッドのアルバム。
01. The Promised Land (Chuck Berry, 1964)
1971-04初演
02. They Love Each Other (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1973-02初演, アナログ録音の初出:Jerry Garcia, REFLECTIONS, 1976
03. Big River (Johnny Cash, 1957)
1971-12-31初演
04. Loser (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1971-02初演, Jerry Garcia, GARCIA, 1972
05. Looks Like Rain (John Perry Barlow & Bob Weir)
1972-03初演, Bob Weir, ACE, 1972
06. Ramble On Rose (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1971-11-19初演, EUROPE '72, 1972
07. Jack Straw (Robert Hunter & Bob Weir)
1971-10初演, EUROPE '72, 1972
08. Peggy-O (Trad.)
1973-12初演
09. El Paso (Marty Robbins, 1959)
1970-07初演
10. Deal (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1971-02初演, Jerry Garcia, GARCIA, 1972
11. Lazy Lightning> (John Perry Barlow & Bob Weir)
1976-06初演, KINGFISH, 1976
12. Supplication (John Perry Barlow & Bob Weir)
KINGFISH, 1976
*この2曲は常にメドレーとして演奏された。
13. Sugaree (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1971-04初演, Jerry Garcia, GARCIA, 1972
休憩
14. Samson and Delilah (Trad.)
1976-06初演, TERRAPIN STATION, 1977
15. Brown-Eyed Women (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1971-08初演, EUROPE '72
16. Estimated Prophet (John Perry Barlow & Bob Weir)
1977-02初演, TERRAPIN STATION, 1977
17. Scarlet Begonias> (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1974-03初演, GRATEFUL DEAD FROM THE MARS HOTEL, 1974
18. Fire On The Mountain> (Robert Hunter & Mickey Hart)
1977-03初演, SHAKEDOWN STREET, 1978
19. Good Lovin' (Arthur Resnick & Rudy Clark, 1965)
1966初演
20. Uncle John's Band> (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1969-12初演, WORKINGMAN'S DEAD, 1970
21. Space>
22. Wharf Rat> (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1971-02初演, GRATEFUL DEAD (Skull & Roses), 1971
23. Around And Around (Chuck Berry, 1958)
1970-11初演
24. Brokedown Palace (Robert Hunter & Jerry Garcia)
1970-08初演, AMERICAN BEAUTY, 1970
チャック・ベリーのロックンロールに始まり、やはりチャック・ベリーで終わった後、アンコールは〈Brokedown Palace〉という構成。
聴き所はたくさんある、というより、はじめから終わりまで、一瞬たりともダレ場がありません。とはいえ、個人的には前半最後の3曲での盛り上り、そして後半中盤の〈Estimated Prophet〉から〈Scarlet Begonias> Fire on the Mountain〉を経て、〈Good Lovin'〉にいたるあたりを聴くとき、生きていてよかったと思います。
いーぐるのシステムの威力をしみじみ感じたのは、なによりもフィル・レシュのベースでした。かれのベースは単純にビートを刻むことはまず無く、神出鬼没の動きをしますが、その動きが手にとるように明瞭に聴こえます。
そしてベースも含めて、各ミュージシャンの音のからみ合いが、やはり明瞭に聴こえます。
デッドを聴く面白さの最大のものの一つは、このからみ合いにあります。単純にビートを刻んでいる楽器が無く、それぞれが常に変化しながら、その変化がたがいの変化をあるいは呼びおこし、あるいは応答し、フーガのように追いかけっこをしてゆく。ガルシアのリード・ギターも例外ではありません。それだけが突出するのではなく、むしろ全体を貫き、まとめてゆくように聴こえます。
そして、一つひとつの音が、実在感を備えて響いてくること。実際にそこで鳴っているように聴こえること。ベースの音圧を体感できること。これは整備されたシステムとスピーカーでしか体験できない世界です。
最後に、今回の眼目である、ライヴ1本全体を一気に聴くことの効果はどうか。
この点は、まだわかりません、というのが正直なところです。それによって何かが明らかにわかった、という感じはありません。ただ、全体の流れを感得できたことはあります。具体的には、前半が終わったところでは、結構満腹感がありました。比較的短かい曲が多かったせいかもしれません。たくさんの小皿料理を出されてみんなたいらげたらおなかいっぱい、ということでしょうか。それが、後半が進むにつれて高揚感が出てきて、だんだん元気になってゆき、最後にガルシアが、「じゃあ、みんな、またな」と言ったときには、すぐにでもまた次のライヴを聴けるし、聴きたい、と思っていました。音楽を聴いた、という感覚よりも、なにか祭、祝祭に参加していて、それが一区切りついたところですぐにまた次の祭へ飛びこみたい、という感じでしょうか。
こういう感覚は常日頃、断続的に、たとえばCD1枚ごととか、前半と後半を2日にわたってとかの形で聴いている時に感じたことはありませんでした。
いーぐる級のシステムではなくても、ライヴ1本をまるごと体験することはもっとやってみようと思ったことではあります。ただ、あの臨場感、その場にいるという感覚は、あそこでなければ不可能ではありましょう。
1977年という年は音楽の上でどんな年だったか。イーグルスの《ホテル・カリフォルニア》、フリートウッド・マックの《ルーモア》、キッス、ベイ・シティ・ローラーズ、アバがブレイク、エルヴィス・コステロがデビュー、ジョニ・ミッチェルは〈コヨーテ〉。そしてパンク極盛の年でした。日本ではピンク・レディー旋風のさなかにキャンディーズが解散。
ぼくは前年に発見していたブリテン、アイルランドの伝統音楽にひたすらのめり込んでいました。《ホテル・カリフォルニア》はイーグルスのファンだったその惰性で聞いていましたし、アバの〈ダンシング・クィーン〉はいやでも耳に入ってきました。キャンディーズやピンク・レディーも同様。しかし、結局、それらにもパンクにも耳を貸さず、ボシィ・バンドやバトルフィールド・バンドやジャッキィ・デイリーやオシアンやアルビオン・バンドやデ・ダナンやショーン・キャノンやウッズバンドやコリンダやに夢中になっていました。そうそうチーフテンズの《ライヴ!》に横っ面ひっぱたかれたのもこの年です。エルヴィス・コステロやジョニ・ミッチェルに親しむのは10年以上後。《ルーモア》にいたっては、初めて聞いたのは昨年でした。
グレイトフル・デッドの音楽にそうした時代を反映したところはありません。皆無、といっていい。デッドの宇宙では1977年は、それを境に前期後期に分けることも可能なくらい、重要な年ではあります。しかし、その外の動きが反映されることはありません。それはデッドが外界と断絶していたということではなく、自分たちが楽しいことに集中した結果です。
キース・オルセンはジェリィ・ガルシアについて、こういうことも言っています。
「ガルシアはとにかくおもしろかった。調整室でもいつも笑っているんだ。《テラピン》のいろいろなパートでギターやハーモニーを倍速にしたりするだろ、するとやっこさんげらげら笑うんだ。仕事しながらあんなに笑う人間は見たことがない。ガルシアは音楽を演ることが三度の飯よりも好きだが、すわって演奏している間じゅう笑ってるんだ。あれはいいよ」
Blair Jackson, 前掲書, 283pp.
1977年5月のグレイトフル・デッドは、メンバー全員が笑いながら演奏しているようです。そして、あの時あの場にいて見、聴いていた人びともまた笑っていたにちがいありません。(ゆ)
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