後藤さんはどうやらジャズ・マニアというよりは音楽マニアであるらしい。いろいろある中で最も好きなものはジャズになったが、もともとは音楽そのものがお好きなのだ。

 このイベントに参加し、またその後の打ち上げであらためて「ディスクチャート」を始めた事情をうかがうとそう思う。

 シュガー・ベイブを生むことになったディスクチャートでかかっていた音楽の一端に触れてみると、ブラックホークでかかっていた音楽の性格がまた新たに浮かびあがる。

 松平さんは1970年代後半に現われた「シティ・ミュージック」を嫌った。それまでブラックホークが高い評価を与え、店の売り物としてきた音楽の内部からの変質、それも悪い方への変質とこれを捉えた。ミュージシャンたちの内部から湧きあがるものではなく、市場の圧力に負けた「商品」とみなした。

 そのこと自体に論評を加える資格はあたしには無いが、一方で、ディスクチャートの音楽に触れてみると、「シティ・ミュージック」がブラックホーク流ロックからそれほどかけ離れたものだとも思えない。むしろ、ブラックホーク流ロックが向かう方向としては必然的なものの一つに聞こえる。

 その前にブラックホークとディスクチャートの音楽の性格を乱暴に分けてみれば、前者は田園を志向し、後者は都会に向かう。前者は様々なものにからめとられることを恐れずに原始を掘り起こそうとし、後者はあらゆるしがらみから脱け出すことで洗練をめざす。シュガー・ベイブはそれを日本語でやろうとし、ある程度成功する。その成功の度合いを計るには、おそらく現在日本語ネイティヴが実現しているアイリッシュ・ミュージックのレベルが基準にできるだろう。

 ディスクチャートで選曲をしていた長門さんたちが、どこでどのようにあの音楽と出会うのかはまた別に聞いてみたいが、ディスクチャートの音楽が可能になったのは後藤さんが選曲に関しては長門さんたちに任せたからだった。

 ジャズ喫茶を始められた時、後藤さんはジャズ・ファンではなかった。父君の店の地下のスペースの活用が先で、ジャズ喫茶はそのための方策だった。ジャズは後から勉強されている。それは「勉強」という言葉が適切なものだったらしい。どこが良いのかわからず、好きでもないものを理解しようとする努力だったからだ。「理解」とはこの場合、言葉によるもの、アタマによるものではなく、感覚、カラダによるものだ。このことは著書のあちこちにも書いておられる。

 ディスクチャートを始めたのは、そのジャズに行き詰まりを感じ、当時「新しい」音楽だったロックに可能性を見たからだという。松平さんがブラックホークをジャズ喫茶からロック喫茶に転換するのはその少し前だが、やはりジャズに行き詰まりを感じていたからだ、というのは興味深い。

 ブラックホークがロック喫茶として「成功」し、ディスクチャートは半年で閉じたのはなぜか、はまた別に興味深いところだが、当時は原始志向が時代の気分だったのだろうと今は言っておく。

 一方で、ロック喫茶として成功したブラックホークは今や想像の共同体としての存在となり、ジャズ喫茶として続けることになったディスクチャート、現在のいーぐるはもうすぐ半世紀の節目を迎えようとしている、というのにも、どこか苦い感覚が残る。これは歴史の皮肉の一つであって、別にいーぐるのせいでも、後藤さんのせいでもないことはもちろんだ。強いて言えば、それは、人工の産物としてのロックと、自然発生した音楽であるジャズの根本的な生命力の違いということになる。ディスクチャートがもしロック喫茶として成功していたら、おそらくはこうして40周年を記念するイベントは開かれなかっただろう。いーぐるも無く、様々な音楽に触れることができる拠点も無く、我々はあてどなく漂流していただろう。

 漂流にはそれなりの利点もあるはずだが、こうしていーぐるに来れば、ジャズに限らず、他では接する機会の限られる音楽に出会うことができるのは、まず幸運なことではある。ここに無いのはクラシックとメビメタだろうか。それだって、これから先も無いかどうかはわからない。

 とりあえず、関口さんのユダヤ音楽や岡本さんの日本のラテンは行くべし、と思う。(ゆ)