皐月◯日
 いーぐるの後藤さんから宿題に出された「イスラームの音楽」。イベントそのものは8月最終土曜日だが、手をつけられるうちに手をつけておこうと候補を考えはじめる。モロッコからインドネシアまで、それぞれの地域でおもしろいミュージシャンを拾ってゆく。データベースを駆使し、というと我ながら楽そうに聞こえるが、不完全でいい加減で、データの形もまちまちなので、検索のキーワードを変えて、いろいろ試さねばならない。それでもあれこれ拾ってゆくと、あらあら20人を超えてしまう。そりゃそうだ。もともと沢山いるのだ。探せばそれだけ出てくる。とまれ、ここから絞っていけば形はつきそうだ。ただ、これはかけたいと思う音源がネットで公開されているMP3だけ、なんてこともある。せっかくいーぐるのシステムで聴くんだから、もうすこしマシなクオリティのものは無いのか。とはいえ、個々の楽曲のおもしろいことは確かだから、やはりあそこで聴く価値はある。鍵は順番だが、頭はモロッコのアミナ・アラウイでばっちりだろう。そこから東へ進んでゆくとすると、トリはパキスタン〜オーストラリアのアクター・ジャハーンか、インドネシア〜オーストラリアの Ria Soemardjo(何て読むんだ?)になるが、ちと軽いかなあ。ジャアファル・フセインあたりでキメたいところだけど、どう理屈をつけるか。理屈もへったくれもなく、これをトリにしたかった、で突破するか。聴けば文句はない点では最右翼だし。そもそも、これがイスラームの音楽の均斉のとれた概観などであるはずがない。あたしが好きなものをならべるだけだ。チュニジアがやたら厚くなりそうだし、ウンム・クルスームはやめて、アシュマハーンでゆくぞ。ううむ、ティエリー・ロバンをどれにするか。ファイズ・アリ・ファイズとの競演かな。

 それにしても、音楽から見るとイスラームとユダヤは区別がつかない。アラブ・アンダルース音楽はイスラームとユダヤの合作、というのは関口さんもその通りと言われたし、なればセファルディムの音楽も同じだ。アルジェリアのシャアビにはアラブ名のユダヤ人ミュージシャンが欠かせない。イスラエル、パレスティナですら、ユダヤ人はアラブ人と一緒に音楽を作っている。

 なるほど、クレツマーはユダヤとキリスト教徒の合作か。


皐月×日
 アルテスからリブートした『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』の索引作りをこつこつ進める。旧版の数多い欠陥の中でも最悪は索引が無かったことで、今回は付けるつもりだったのが、結局スケジュールの関係で本そのものには間に合わなかった。版元のサイトにアップしようということになって手をつけたのだが、200ページもない、400字詰300枚そこそこの本のくせに、かれこれ8週間になるのにまだ終わらない。毎日やっているわけじゃないが、それでも結構根を詰めているつもりだ。項目もそんなに多くない。そもそも索引作りという作業そのものが時間のかかるもの、ということを思い知らされているわけか。まあ、とにかくあとどれくらいなんて考えずに、ひたすらごりごりと作業をしていく他はない。それにしても、どういう語彙を項目として拾うか、しょっちゅう判断に迷う。他の本ならまず拾わないような語彙でも、この本の関心からは拾うべきものもある。


 


皐月△日
 アイルランドの同性婚合法化の国民投票は、事前の予想通り、賛成票が圧倒した。デ・ファクトとして合法化している国はヨーロッパでは多いし、ルクセンブルクの首相のように、同性婚をしている国のトップも現れている。アイスランドの首相もたしかそうだった。今回のアイルランドの国民投票がユニークなのは憲法改正を問うたためで、このレベルで同性婚を認めるのは世界で最初になった。もっとも結婚制度全体から見れば、同性婚を認めるかどうかは比較的小さな変化で、Fintan O'Toole の言うとおり、アイルランドにとっては離婚を認めたことの方が遙かに大きな変化だろう。オトゥールによれば、これまで結婚制度の変革が提案されるたびに、保守派はその変化によって結婚や家庭が壊れると主張して反対してきた。しかし、そうした変革が実施された後で、実際に結婚や家庭が崩壊したわけではない。今回の保守派の主張は、従来のものとまるで変わっていない、とオトゥールは言う。

 ということは、反対する論理的根拠は何も無いことを示す。一方でこれまで自分がなじんできたことを変えたくない、というのはかなり強力な動機になる。論理的でないだけに、より強い。教会の司祭にしてみれば、結婚の儀式をとりおこなう時に、目の前にいる二人が二人とも同じ性に属しているのを見るのは耐えがたい、というわけだ。同じ教会でも、カトリックよりプロテスタントの方が同性婚法制化に寛容にみえるのは、プロテスタントではすでに女性の聖職者があたりまえになっているせいだろうか。しかし、カトリックの聖職者世界は同性ばかりなのだから、異性がいないことには慣れているはずとも思える。それとも聖俗それぞれの世界は別にしておきたいということか。まあ、ゲイであることをカミングアウトしている司祭もいるんだが。

 それにしても、反対派もやはり論理的な理由をもちだそうとするのはおもしろい。これがわが国ならば、理屈なんかいらねえ、とにかくオレはアタシは同性婚なんぞはキモいから反対だ、という姿勢をとっても通るだろうし、ひょっとするとその方が「ねーんげん的」だということになりかねない。つまりは民主主義システムとは、あくまでも論理で判断することが土台になる。感情的、反射的な態度では選択肢として認められない。たとえどこから見ても薄っぺらで、とってつけたことが見え見えの論理であっても、とにかくその態度をとる論理的な理由を述べねば、相手にされない。

 ところで、アイルランドのこの態度の変化はどこから来ているのだろう。オトゥールの言うように、1983年以来の30年で、アイルランドの結婚制度はヨーロッパでの周回遅れから先頭に立った。もともとアイルランドの人びとは柔軟性に富んでいるのか。それとも、この間に暮らしが豊かになったせいなのか。あるいは他にもっと大きな理由があるのか。

 アイルランドにとって次の課題は妊娠中絶の合法化。この点ではアイルランドは世界からダントツのビリッケツ。第三者から見ると近いテーマにおいて、一方では世界最先端、片方では世界最後尾、というのは興味深い。が、こういう極端な不均衡ないし偏りは、今世紀、どこの地域、国、人間集団でも抱えているようにもみえる。もっとも、どこも偏らずに釣合のとれている人間なんて、いるとすればむしろホラーの対象なわけだから、そうなるのも当然ではある。ただ、デジタルの時代になって、アナログの時代よりもその傾向が加速されているとは言えそうだ。首相はとりあえず、自分の任期の間はこの問題には手をつけないことを宣言したが、さて、どうなるか。

 この結果に対してヴァチカンは「人間性の崩壊」とコメントした。やはり「裸の王様」ではある。アイルランドのカトリック教会はさすがに事態を正面から受け止めようとしているようだが、下部組織の梯子をはずすようなヴァチカンのふるまいが続くと、カトリック教会そのものがゆらぐかもしれない。なんと言ってもヴァチカンが絶対的権威を持っていた時代ではなくなっている。


皐月□日
 このところ音楽をモチーフにしたファンタジィに遭遇することが多い。作品の数そのものも増えているのか。Peter Orullian の The Vault of Heaven のシリーズや Alex Bledsoe の Tufa シリーズは魔法の体系に音楽が組込まれているというので注文してみた。Patrick Rothfuss の Kingkiller Chronicle の第一作 The Name of the Wind のフランス語版の表紙が、ウードかリュートを背負った放浪の男が都市の廃墟の前に立っているというもので、こりゃあ読むしかないだろう。Gael Baudino の GOSSAMER AXE は、中世ベース・ファンタジィの魔法使いらしい女がエレキ・ギターを抱えているカヴァーときたもんだ。これまでもR・A・マカヴォイ、パトリシア・ライトソン、チャールズ・ド・リント、デリア・シャーマンやケイト・トンプソンなどもいたわけだが、音楽の扱い方そのものがどうも少し様相が変わってきた気もする。

 これがSFとなると音楽との関連は薄くなるようだが、どうだろう。ミュージシャンのキャラクターとして頭に浮かぶのは『デューン』のガーニィ・ハレックで、どうも他にこれといった者が浮かばない。キム・スタンリー・ロビンスンはデビュー作の1つが音楽を創造する機械の話だったし、『永遠なる天空の調』は太陽系全体を楽器にする話だ。ルイス・シャイナーの短篇にジェフ・ベックしか聴かないギター小僧をめぐる話があった。ああ、それにもちろん『グリンプス』がある。それで思い出した、「ミラーグラスのモーツァルト」。Kathleen Ann Goonan の Nanotech Cycle 四部作はタイトルが音楽になっている。日本語では筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』はタイトル以外に音楽が出てきたっけかなあ。「ジャズ大名」や河野典生の「山下トリオ」を題材にした短篇もあるが、その山下の『ドバラダ門』はSFか。今世紀になってからの日本語SFには、音楽を正面から扱ったものがあるのだろうか。いーぐるの後藤さんから「音楽とSF」というテーマでやれとのご下命をいただいたのも、シンクロニシティの一環なのかもしれない。


皐月◎日
 ホィットニー・バリエットが描くデューク・エリントン楽団の動作の仕方はグレイトフル・デッドのものにそっくりだ。

--引用開始--
この有機体は、時には偶然にできることもあり、また意識的に構築されることもあるが、過去40年間にわたって絶え間なく丹精こめて造りあげられてきたもので、こんな具合に動作する。エリントンが曲を作る。それはブルーズであったり、ごくコンパクトなコンチェルトであったり、バラッド、標題音楽、音による詩(トーンポエム)、とぼけた人物描写、何かを祝うようなアップテンポで浮き立つ曲、そしてスタンダードのリメイクであったりする。できた曲をバンドがやってみる。そこであれこれ提案がなされ、編曲が組み立てられてゆく。1度編曲ができあがっても何度も繰り返し演奏されながらさらに手を入れられる。そしてこれでよしとなるとバンドのレパートリィに組込まれる。レパートリィに入ってもそこで止まってしまうなどということはない。演奏されるたびにバンド全体でも、ソロイストによっても即興で展開されるし、その度合いもその都度異なる。このソロイストには作曲者自身も含まれる。やがてすべてが融合された一定の形といえるものが浮かびあがり、定着する。しかしこの形もまたいつでも変えることは自由だ。
(中略)
(エリントンの)オーケストレーションは楽団員それぞれの個性によって、常にかき乱される。それが耳に快く、魂を洗濯してくれる。この有機体の不可分の片割れであるエリントン・バンドは驚くほど民主的だ。メンバーの一人ひとりがヒーローであると同時に全体の恩恵を受けている。
Whitney Balliett, COLLECTED WORKS, 204-205pp.
--引用終了--

 この記事が書かれた頃、ガルシアはベイエリア随一のブルーグラス・バンジョー奏者と言われていた。ウィアはガルシアに出逢って間も無く、レシュは前衛音楽にのめりこんでいた。デッドがエリントンを意識して模倣したとも思えないから、独自に発達させたやり方がたまたま同じだったのだろう。あるいはアメリカという土壌からは同様なものが育つということか。それとも、ガルシアもレシュもジャズ・マニアで、当然エリントンも聴いていたはずだから、そこからヒントを得た可能性も無いとも言えない。間接的に、つまり、デッドが独自に築いていったものにエリントンとの相似性を見て励まされた、ということもあるかもしれない。

 ここからのこの年ラスト3篇はエリントンのデビュー40周年をバリエット流に寿ぐ「エリントン三部作」。次がエリントン・バンドに復帰したクーティ・ウィリアムスへのインタヴューとそのメンバーでのライヴ評、そしてエリントンへのニューヨーク市ブロンズ・メダル授賞式の模様。


皐月%日
 『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』刊行記念イベントが発表になる。これまでやってきたイベントはしゃべりで、だいたいが一人なので、生のバンドと一緒にやるというのは新鮮で、どういうことになるのか、わくわくどきどき。リハーサルに参加するのも初めてで、それだけでわくわくどきどき。アイルランド大使公邸というのは、どうやらあたしが生まれ育ったところのそばにあるらしい。ちょっと複雑なところもあるが、自分にとってアイリッシュ・ミュージックと出逢った、というより、アイリッシュ・ミュージックに捕まった場所にもどる、というのもあるいは何かの徴といえるのかもしれない。あれから40年経つと数えてみても実感はまるで湧かないが、時間が経つというのはそういうことなのだろう。それにしてもあの頃仰ぎ見ていた人たちが、故ミホール・オ・ドーナルを除いて、みんな今なお健在というのは、やはり凄いことではないか。この元気さは、人間の生命力をアップさせる音楽が盛んであるとともに、アイルランドの社会と人びとがこの40年間常に新しいことに挑戦しつづけてきたこととつながっているのだ、きっと。


皐月&日
 タニス・リーの訃報。ずーっと気になって、いつかちゃんと読もうと思いながら、なぜか作品を手にとらずにきてしまった書き手の一人。良いことはわかっている、というのも読まずにきてしまった理由の1つではある。いつも何でもそうだ。ある程度読んで、自分なりの評価ができてしまうと、それ以上読まなくなる。関心が薄れたわけではなく、本は買い続けているが、読む時間がない。良いか悪いかわからない書き手の方を、どうしても優先してしまう。リーについては、いつか、絶対的信頼感ができてしまっていた。この人が悪いものを書くはずがない。不思議なことに、その根拠となるような作品の記憶がない。というよりも、ほとんど読んだ記憶がない。読んだ気になってしまっていたのか。そういう気にさせる何かが、リーにはあるのか。あたしの個人的錯誤か。ジェンダーやLGBTのテーマを初めて正面からとりあげた書き手の一人だった、というのもますます気になる。Arkham House から出ていた部厚い回顧作品集をこの際一篇ずつ読むべきではあるな。それにしても、幼い頃、失読症だったというのには驚いた。8歳の時、父親に教えられて本が読めるようになったという。とすると、ボブ・ウィアが回想録を書く可能性はまだあるかもしれない。長く病床にあった由。四つの風がその魂を安らかにふるさとへ運ぶことを祈る。


皐月◆日
 バグダッドの爆弾事件の現場でチェロを弾く音楽家のインタヴュー。イラク国立管弦楽団の指揮者でもある。

 関東大震災の夜、街頭演奏に出かけた添田唖蝉坊。同じ夜、上野の山で、ある少年の吹くハーモニカを聴いて歌謡曲の作詞に身を捧げる決意をした西條八十。内戦で破壊されたサラエボのコンサート・ホールの跡地や砲撃で多数の死者が出た市場の街頭でチェロを弾きつづけたヴェドラン・スマイルヴィチ。

 戦争だからこそ、狂気の沙汰だからこそ、非常時だからこそ、人間には音楽が必要だ。
人間が人間の心と体をとりもどし、平和に生きるために、音楽は必要だ。


皐月▼日
 そうかー、「全曲聴き」というのは確かにいろいろ収獲がありそうだ。全集を読破するようなものか。グレイトフル・デッドの公式リリースをすべて聴くことはどうだろう。純粋に時間だけ合計すると5〜600時間ほどか。毎日欠かさず1本ないし1タイトル聴いて1年続ければ、その間にリリースされるものも含め、一応全部聴けそうだ。しかし毎日必ず平均3時間は費さねばならないのは、結構たいへんだぞ。比叡山の「千日回峰行」にならって、1年のうち百日間やることにすれば4年か。うーむ、デッドを聴くのが「修行」というのもなあ。(ゆ)